いやしい鳥&パトロネ

 メンズナウの連載・関西エロ名鑑第23回UPされました。
 今回登場していただいたのは、京都在住の作家・藤野可織さんです。
 藤野さんは文學界新人賞を「いやしい鳥」で受賞し、「いけにえ」が芥川賞候補、「パトロネ」が野間文芸新人賞候補になった新進気鋭の作家さんです。
 このインタビューの日、待ち合わせしていたら、登場するなりドアに激突してボケをかましてくれましたが……変でとても可愛い人です。
 作品は、ほんとうに面白い。
 最新作は群像2月号に掲載されている「美人は気合い」。こうしてタイトル書いただけで思いだして笑えてくる……。ほんまは笑う作品じゃないかもしれないけれど、私は笑って読んでいました。
 いったいこんな作品、どうやって生み出してるんだろうと、以前からものすごく興味があったので、そのあたりのところもいろいろ聞いております。

 こちらから読めます


 

いやしい鳥

いやしい鳥

パトロネ

パトロネ




 ものすごく久々に所要があって大阪梅田をぶらぶらして本屋さんも見てきたんですが、「女の庭」、どこも話題書のコーナーに平積みにしてあり、ありがたいことです。
 でも、どこで「話題」になってるんだろう……。
 うちの田舎の一番大きな書店の売り上げ9位になってて、新聞に載っててオカンが驚いていたのだが、地元でそんなに売れているらしいのにも関わらず、うちのオカンも「誰にもなんも言われへんで」と言うている。
 そんなわけで、話題になってる気配のない話題書「女の庭」引き続きよろしくお願いします。

 

女の庭

女の庭



 幻冬舎文庫版「花祀り」の発売も来週にせまってまいりました。よろしくねん。

 

花祀り (幻冬舎文庫)

花祀り (幻冬舎文庫)

 「花祀り」文庫になります


花祀り」幻冬舎文庫

 第一回団鬼六賞大賞受賞作「花祀り」、2/7幻冬舎文庫より発売します!
 加筆して、無双舎版とはラストが変わっています。
 京都の和菓子の世界を舞台に、京都の旦那衆たちの手により「一流の女」になってゆく「美乃」が主人公です。
 京都の名所旧跡もたっぷりなので、京都のガイドブックにもなりますよ!
 そして「花祀り」の登場人物の中で、一番の人気キャラクター怪僧「秀建」が主人公の「花散らし」も載っています。
 本文加筆の他、あとがきにかえて団鬼六先生のことを書いております。

   

花祀り (幻冬舎文庫)

花祀り (幻冬舎文庫)



 呉服屋の兄弟に脱がされて 〜誘惑の着付け教室〜


 電子書籍のTL小説「呉服屋の兄弟に脱がされて 〜誘惑の着付け教室〜が、配信されております。
 去年の春に近所の呉服屋さんで着付けを習ったのですが、それを参考に……。
 とはいえ、私に教えてくれたのは女性なんで、全くこのようなことは起こりませんでしたが!
 そしてあんまり注文つけてないのに、表紙イラストの呉服屋の若旦那が、その近所の呉服屋の若旦那と結構似ている……(イケメン)です。
 この小説を書く前に、ちょっと話は聞きにいったりしましたけどね!


 こちらからお求めできます

 このシリーズ、最初は坊主、次はAV男優、次はツアーコンダクター、そして呉服屋と、知り合いというか身近な職業を参考にしているのですが、次は何かお楽しみに!

 
 

 
  

 エンジン01のオープンカレッジ in 浜松

 2/9〜11に浜松で開かれます、エンジン01のオープンカレッジ(大会委員長は三枝成彰さん、実行委員長は勝間和代さん)の中の講座「アダルトビデオ産業は必要か?」に、和田秀樹さん、木下千花さん、代々木忠監督と共に登壇させていただきます。
 とはいえ、講座のチケットは既に売り切れております。
 最終日のクロージング・シンポジウム(田原総一朗さん、秋元康さん、リリー・フランキーさん、小室哲哉さん)とかコンサートのチケットならまだあるみたいですよー。
 浜松はいつも通過するばかりて、降り立つのははじめてです。
 ちょっくらいってまいります。
 うなぎは食べられないのだけれども(数少ない苦手な食べ物です)、うなぎパイ買おう。

エンジン01浜松オープンカレッジHP
講座プログラム

 団鬼六伝「赦す人」

 作家・団鬼六――。
 その死の報の際に「最後の文豪」と冠されることもあった。
 最後の文豪――紛れもなく、作家・団鬼六は後世に名を遺されるべき「文豪」である。


 団鬼六を知っていますか。
「もちろん知っている」と、答える人は多い。
 けれど、それはポルノ映画の冠としての「団鬼六」であったり、SMというジャンルの代名詞としての「団鬼六」であったり、傑作官能小説「花と蛇」の原作者としての「団鬼六」であったり――決して間違ってはいないのだけれども、私はその度に、いつももどかしい。
 あなたは、団鬼六を知るべきだと、言いたくなる。
 作家としての、団鬼六を、と。


 私にとっては、団鬼六という人は、優れた文学作品を遺したれっきとした文学者である。
 生きることを、人間を描くことが文学ならば、団鬼六が書き続けてきたものは、まさに文学だ。
 人間のあたりまえの営みである「性」を通して、人が生きる悲しみと悦びを作品にした団鬼六という「作家」がいたことを、もっと多くの人に知って欲しい。



 団鬼六先生の伝記「赦す人」(大崎善生・著)を読みました。
 波乱の人生を生き、時代を駆け抜けた作家の生涯を描いた名作です。
 団鬼六先生御自身も、今までいろんなところで自分自身のことを語ってこられました。
 その団先生自身が語ってきた「団鬼六」の虚と実、そしてその口から語られなかった作家であり、男でもある「団鬼六」が、大崎さんという「作家」の眼で描かれています。


 純文学でデビューした後、その道を一度捨てポルノの世界で華開いたが、全てを失って還暦過ぎにまた「作家」として一線に躍り出て、「不貞の季節」「外道の群れ」「真剣師小池重明」など次々に傑作を世に発表して文学の道に戻ってきた団鬼六
 小池重明伊藤晴雨など、世から疎まれ石つぶてを投げられても己の内なる炎を燃やし生き続けた者たちを愛すべき者たちを、団鬼六は描き続けた。



 生きることが下手というような、甘いものではない。
 人を傷つけ自らも傷つき刃のような才と弱く脆い情を持った者たち。
 愛おしみながらも、その者たちの才と弱さ故の尖った刃に自身を投げ出しながら団鬼六は彼らを描いた。
 情の涙に濡れながら、優しく、弱い、才ある男たちを。
 彼らを愛し続けた団鬼六は、確かに「優しい」。
 けれど、優しい者は、人より傷つかねばならぬのだ。優しければ優しいほど、痛みから逃れることができないのだから。
 優しい人間は、哀しい。
 

「赦す人」の中で、衝撃を受けたのは名作「不貞の季節」の「虚実」の「実」の部分だった。
 SM作家の妻の不貞により離婚にいたるまでを描いたこの物語は、自身の体験だと語られ続けてきた。そして「赦す人」の中で、団鬼六はその物語を書いたことを「復讐」という言葉を使っている。
 自分を裏切った妻の不貞を描いた小説は、絶賛され「作家・団鬼六」の名を世に知らしめるきっかけとなった。けれど別れた妻は、傷つき、怒っていたという。


 けれど、あの小説を読んだ者なら、わかるだろう。これは復讐という蓑をかぶった、ラブレターなのだと。
 妻の不貞の相手から、妻の行為の様子を聞きだし嫉妬にかられながら妻への想いが高まっていく過程、そして去っていく妻への切々とした未練――。
 私は、「不貞の季節」のような、切ないラブレターのような小説を描けたらと、作家として願わずにはいられない。


「赦す人」の中で、団鬼六が「復讐」を唱える場面で私の脳裏に浮かんだのは「外道の群れ」のラストの伊藤晴雨の台詞だった。愛しい女を竹久夢二に寝取られた晴雨が、自分の子供を妊娠した女を逆さづりにして目の前にいない、自分のもとを去った女に放つ、あの言葉――。

 ――思い知ったか――



「愛してる」なんて、言えない。
 自分のもとを去ろうとしている者に、向かって、愛してるなんて、言えるわけがない。
 だから、作家は、こうして「復讐の物語」を描くしかないのだ。
 愛の言葉と、抱擁の代わりに――。



 団鬼六は、自分の愛する人たちを、自分自身を、描き続けた。
 愚かさも醜さもあますことなく描いた作品は、これ以上ない、人間賛歌だ。
 欲や弱さ故に正しく生きられない者たちに、それでも生きろ、生きるだけでええやないかと祭囃子のようにほがらかに謳いあげる人間賛歌だ。


 団鬼六の生涯は、人間をまっすぐ愛するが故に、花が咲いては散りを繰り返し、すさまじい修羅の炎の如くの業を背負っていた。
 けれどその炎は、人を燃やし尽くす炎では非ず。
 人を包み抱く慈悲の炎だ。
 地獄を彷徨う人間に、手を差し伸べる菩薩のような――まさに、「赦す人」。


 団鬼六という作家を、知ってください。
 「文豪」と称されるにふさわしい作家として。
 団鬼六の遺した素晴らしい人間賛歌を謳いあげた作品を読んでください。
 私は団鬼六の燈した慈悲の炎に救われて、何度も地に底に落ちかけながらも、なんとか生きながらえている。


 

赦す人

赦す人


 

 団鬼六作品について書いたブログ記事
「団鬼六という作家を知っていますか・前編」
「団鬼六という作家を知っていますか・後編」



 遺作「落日の譜 雁金準一物語」も刊行されております。

 

落日の譜―雁金準一物語

落日の譜―雁金準一物語


 団鬼六先生については、2月発売予定の第一回団鬼六賞大賞受賞作「花祀り」文庫版(幻冬舎)にて、改めて書いております。

 

 元旦から「なかったこと」にされた私


 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いします。


 正月は実家に帰省しておりました。
 うちは盆と正月に兄弟やら叔父やらそれぞれの配偶者と子供やらで一緒にご飯を食べることが数年前から恒例になっております。
 そして今年も、父が乾杯の音頭をとって、皆で杯を掲げ歓談。
 妹の夫や、弟や叔父たちが「仕事はどうか」などと話しておりました。
 そんな穏やかな元旦の家族団らん……。


 相変わらず、私の仕事には誰もふれません……。



 新刊、結構売れてるのに……。
 大きな新聞広告出たのに……。
 発売一ヶ月で4刷とかいったのに……。


 誰も私の仕事にはふれない……。



 そんなわけで、今年もあちこち関係先で、
 ちやほやされないどころか、
「なかったこと」にされている私ですが、

 どうぞよろしくお願いします。


 初夢はとても嫌な夢を見ました☆
 滅多にないけど、怒りで目が冷めちゃった☆

 京の暮れ

 師走は本当にバタバタとしていました。
 ありがたいことに「女の庭」が好調で、新規の仕事の打ち合わせ&取材等などもありました。
 先週は千葉の代々木忠監督の別荘の忘年会に3年連続でお邪魔して、男優さんたちとお会いしたり。
 ずっとみんな元気でこうしていられるといいなと思いつつ酒を酌み交わす。
 また、翌日は、以前から「文章に恋」していた女性作家さんを思い切って、ドキドキしつつ誘ってみて、東京でワインを一本あけながら「おんなトーク」しました。「女子トーク」ではなく、「おんなトーク」ね。
 ごくごくたまに「文章に恋」することがあります。男性でも女性でも。
 惹かれずにはいられなくて、その人の言葉がアタマから離れなかったりする。
 私には大変珍しく勇気を出して、「恋」の相手を誘って、はじめてサシで話し込んで、そしたら文章と同じぐらい、もしかしたらそれ以上に素敵な女性でした。
 
 今年一年を振り返ろうと手帳を開きましたが、なんかめんどくさい&どうでもよくなった。
 いろいろあったような気もするし、平穏だった気もするし。
 でも大きいのは、10年ちょいぶりに京都市民になったことですね。
 今年の2月までは京都のお隣の向日市に住んでいました。そしてその前は数年、実家にいたんで、本当の久々の京都市民。
 少し歩けば比叡山が見え、鴨川も近いところです。
 とても気に入っている環境なので、よほどのことがない限り動かないつもりです。

 そして3月からは生まれてはじめての男の人とのふたり暮らし。(結婚してから1年近く別居でした)
 昔は男と一緒に住むとか絶対に無理! と思っていたのですが、これが意外になんとかなっています。
 なかなか時間が合わなくて一緒にご飯を食べたりとかも滅多にないのですが、ほどよくすれ違っているのかもしれません。

 プライベートでの話題はそれぐらいで、あとはひたすら仕事。
 共著で「FKB 怪談実話 饗宴3」に書かせてもらったり、
 8月には実業之日本社文庫「寂花の雫」、11月には幻冬舎「女の庭」、ありがたく立て続けに本が出せました。
 そして「女の庭」がなんと発売一ヶ月で4刷と非常に好調です。
 あんまり実感はないのですが……。

 誰にもちやほやされないし……。


 でも急にちやほやされたら疑心暗鬼になってしまう我が性分。



 あと、なんといっても今年の一番のニュースは、隣の家で白骨死体が見つかったことですね。しかも怪談イベントの日に。
 白骨死体は夫により「はっこつん」と命名されました。


 
 来年の抱負とかを掲げても、きっとすぐに忘れてしまうのですが。
 ちゃんと仕事する、それしかないです。


 それでは皆々様、よい御年を!


 

 

 怪談はまごころ!

 メンズナウの連載「関西エロ名鑑」第22回がUPされました!
今回、登場していただいたのは地元尼崎を中心に活動される「まごころの怪談師」宇津呂鹿太郎さんです。

 

「好きなもの」を追い続けて生きるということについてお伺いしています。
「好きなもの」を追っていると、恋愛も怪談になる話とか……。


 でも自分の好きなものを持ってる人は素敵です。
 流行りのもの=好きとか、これを好きって言っておけば人に好かれるからとかではなく。
 でもそうなるとこのインタビューでも思ったけど、「好きなもの」を確かに持っている人はどうしても社会の中では異端になってしまうのかも。

 私は昔、「変わってる人」って言われるのがすごく嫌でした。
 今でも「変わってる」って言われたら「普通ですよ」と答えるし、すごく自分は普通の常識人で、まっとうな社会人だと思っています。
「変わってる」だけですんだらいいけれど、それを嘲笑したり非難めいたり「変だよー」と言われたりするのが、ものすごく嫌だったなぁ。
 今でも自分はどこにいても居心地悪いなと思うし、居場所もないと感じることも多いんだけど、だからこそ作家になれたんだし、異端であることは悪いことでは全くないと思っている。

 でも「私って変わってるって言われるんですぅ〜」って自分から言うヤツは普通。(サブカル好きな人に多し)


 学生の時とかは常に集団行動だったから「変わってる」といじめられたり、生きづらかったりすると思うんだけど、とりあえず大人になったら何とかなったりもするので(自分次第だけど)、嘘をついたり逃げたりしながらも生き続けたほうがいいよ。


 

 デフレ化するセックス


 娼婦の物語を書こうと思っている。
 いつになるか、わからないけれど。
 小説家になる前から、そう思っている。
 それは私に「女が身体を売る」ということが抗えないほど自分の一部だと言っていいぐらいにこびりついているからだ。女が女という商品であること、それをお金に換算すること――そうして行われる「セックス」が。
 娼婦に憧れることもある。ただ「商品」としてだけ存在する女たちに。ひとりの男に必要とされることよりも、形の無い「愛」というものに囚われることよりも、たくさんの男にお金というわかりやすいもので換算される存在に。


職業としてのAV女優」が大ヒットした中村淳彦さんの新刊「デフレ化するセックス」を読みました。前作は「AV女優の価格破壊と現状」ということについて書かれてましたが、今回は女性全般の「セックスという商品」の話です。


 AV業界や風俗業界の友達から、今、驚くほど「値段」が下がっていることは何度も耳にしました。それを聞く度に、「普通に働いた方がマシ」と思うのです。しかもAVには「映像として残り、広まる」というデメリットまである。風俗だって――生理的に嫌悪感がある男や、どんな不潔な男が来るかわからない。時には身の危険を感じることもあるだろうに――絶対に、「普通に働いた方がマシ」だ。値段に見合わない。
 昔は、もし友人がAV女優になりたいと言ったなら「映像として残る」ことのデメリットを覚悟してそれでもやりたいなら止めないつもりだった。多額のお金を得ることができるし、お金以上にそこにアイデンティティを見出せる方があるから、と。
 けれど今は、それでも私は止めるだろう。どう考えても割に合わない。安価で身体を売るぐらいなら、他に手段はあると言うだろう。


 娼婦への憧れは薄れゆく。あまりにもの安価で買われる「セックス」の価値に呆然としながら。セックスを売ることは、好きじゃない男に抱かれることは、そんなに安くていいわけがないという私の中の、かすかながらも存在する「女であることの誇り」が、「売春」の価値も下げる。
 
 女は得だと言うヤツがいる。女だからチヤホヤされてさ、身体を売れば大金になるし、女っていいよね、と。
 しかしもう今は「女」が売れないのだ。

 「人生の中で売春が選択肢にない女」と話をすると、たまに羨望と苛立ちが訪れる。恵まれている女は、時に鈍感だ。あなたが知らないだけで、あなたと同じ「女」の中には、どれだけ安い値段でも身体を売らざるを得ない女、あるいはそれを選択肢にいれながらギリギリの日常を過ごしている女も少なくないんだよ、と。
 人間は、全く平等じゃない。

 好きでもない男に金のために股をひらくこと――それは「最後の手段」であって欲しかった。そんなことを未だに考えている自分は、どこまでセックスに価値をつけているのだろうか。「デフレ化するセックス」を目の当たりにする度に、それを思い知り、自分にうんざりする。


 わりきって後悔もなく身体を売る女たち。
 売りたくても売れない女たち。
 私の憧れた「娼婦」は、今の時代には、もういないのだ。


 だから、もう、女は、「女という価値」なんかにすがるのはやめた方がいい。
 男たちは、たやすくあなたを捨てる。
 そんな安い「女」など、すぐに壊れ、取り換えがきいてしまうもの。


 中村淳彦は、いつもギリギリまで対象に近づきながらクールに彼女たちを見つめ、生きることの「地獄」を描く。
 けれどそれは彼の「優しさ」なのだ。
 だってこの世は「地獄」だもの。気づいている人と、いない人がいるだけの。
 地獄を生きるために自分の足で歩けるようになれと、中村淳彦の著作を読む度に、そう言われているような気がする。


 

デフレ化するセックス (宝島社新書)

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職業としてのAV女優 (幻冬舎新書)

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