デフレ化するセックス


 娼婦の物語を書こうと思っている。
 いつになるか、わからないけれど。
 小説家になる前から、そう思っている。
 それは私に「女が身体を売る」ということが抗えないほど自分の一部だと言っていいぐらいにこびりついているからだ。女が女という商品であること、それをお金に換算すること――そうして行われる「セックス」が。
 娼婦に憧れることもある。ただ「商品」としてだけ存在する女たちに。ひとりの男に必要とされることよりも、形の無い「愛」というものに囚われることよりも、たくさんの男にお金というわかりやすいもので換算される存在に。


職業としてのAV女優」が大ヒットした中村淳彦さんの新刊「デフレ化するセックス」を読みました。前作は「AV女優の価格破壊と現状」ということについて書かれてましたが、今回は女性全般の「セックスという商品」の話です。


 AV業界や風俗業界の友達から、今、驚くほど「値段」が下がっていることは何度も耳にしました。それを聞く度に、「普通に働いた方がマシ」と思うのです。しかもAVには「映像として残り、広まる」というデメリットまである。風俗だって――生理的に嫌悪感がある男や、どんな不潔な男が来るかわからない。時には身の危険を感じることもあるだろうに――絶対に、「普通に働いた方がマシ」だ。値段に見合わない。
 昔は、もし友人がAV女優になりたいと言ったなら「映像として残る」ことのデメリットを覚悟してそれでもやりたいなら止めないつもりだった。多額のお金を得ることができるし、お金以上にそこにアイデンティティを見出せる方があるから、と。
 けれど今は、それでも私は止めるだろう。どう考えても割に合わない。安価で身体を売るぐらいなら、他に手段はあると言うだろう。


 娼婦への憧れは薄れゆく。あまりにもの安価で買われる「セックス」の価値に呆然としながら。セックスを売ることは、好きじゃない男に抱かれることは、そんなに安くていいわけがないという私の中の、かすかながらも存在する「女であることの誇り」が、「売春」の価値も下げる。
 
 女は得だと言うヤツがいる。女だからチヤホヤされてさ、身体を売れば大金になるし、女っていいよね、と。
 しかしもう今は「女」が売れないのだ。

 「人生の中で売春が選択肢にない女」と話をすると、たまに羨望と苛立ちが訪れる。恵まれている女は、時に鈍感だ。あなたが知らないだけで、あなたと同じ「女」の中には、どれだけ安い値段でも身体を売らざるを得ない女、あるいはそれを選択肢にいれながらギリギリの日常を過ごしている女も少なくないんだよ、と。
 人間は、全く平等じゃない。

 好きでもない男に金のために股をひらくこと――それは「最後の手段」であって欲しかった。そんなことを未だに考えている自分は、どこまでセックスに価値をつけているのだろうか。「デフレ化するセックス」を目の当たりにする度に、それを思い知り、自分にうんざりする。


 わりきって後悔もなく身体を売る女たち。
 売りたくても売れない女たち。
 私の憧れた「娼婦」は、今の時代には、もういないのだ。


 だから、もう、女は、「女という価値」なんかにすがるのはやめた方がいい。
 男たちは、たやすくあなたを捨てる。
 そんな安い「女」など、すぐに壊れ、取り換えがきいてしまうもの。


 中村淳彦は、いつもギリギリまで対象に近づきながらクールに彼女たちを見つめ、生きることの「地獄」を描く。
 けれどそれは彼の「優しさ」なのだ。
 だってこの世は「地獄」だもの。気づいている人と、いない人がいるだけの。
 地獄を生きるために自分の足で歩けるようになれと、中村淳彦の著作を読む度に、そう言われているような気がする。


 

デフレ化するセックス (宝島社新書)

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職業としてのAV女優 (幻冬舎新書)

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