痛みと共に生きること ― 「たまもの」 神蔵美子 ―
疲れた時に甘いモノが欲しくなるのと同じで、私は心が弱くなって、自分の中に迷いや恐れが生じた時、つまりは自分を見失いそうになった時に、読みたくなる本とビデオがあります。本当に心が弱ってる時は泣きながら読んだり見たりする。きっとそういう時は、泣いて心の中にある暗いものを浄化させたいんだと思います。不安や恐れは常にあるのだけれども、それを増長させて惑わす「悪魔」に魅入られそうになった時に、〈今、書きながら思い出したけど、仏典にそんなシーンありますね。釈迦が悪魔に惑わされそうになるシーン)自分を取り戻す為に読む本と、ビデオ。
何故、悪魔に魅入られたくないか。悪魔に魅入られると苦しいから、それ以外に理由は無い。心を惑わす悪魔に魅入られて破滅して、大事な物を失うのは、もう御免だ。魅入られていることにすら気付かない愚かさの海に漂う心地よさも要らない。苦しみたくない。何が楽しくて、自ら苦しみを求めて短い人生を無駄に過ごさなきゃならんのだ。アホらしい。
心が弱った時に読みたくなる本、ビデオ。それは、きっと極めて個人的な琴線に触れるもので、他の人にとっては、それほどのモノじゃないのかもしれない。ただ、私という人間にとっては、切実に必要な物で、それらに出会えたことを何よりの幸福だと思います。
切実に読みたくなる本と、ビデオ。ビデオというのは、しつこいぐらいここに何度も書いてますけど、平野勝之監督の「由美香」です。ホントしつこいっすね!でも、好きなんだから、しょうがないの。あの、気が遠くなるほどの孤独の果てに見える生きることの刹那的な世界観が、どうしようもなく自分の琴線に触れるんです。
本は、前回紹介しました山田風太郎の「妖異金瓶梅」。あと、もう一冊は、神蔵美子さんの「たまもの」という本です。
「たまもの」は、私小説であり、極めて個人的な写真集です。写真家の神蔵美子さんは、文芸評論家の坪内祐三さんと出会い、当時神蔵さんは既婚者、坪内さんは結婚式を一ヶ月前に控えた身であったけれども、式の一週間前に婚約破棄して、二人は結婚します。しかし数年後、神蔵さんは、編集者として有名な末井昭さんと出会い恋に落ちる。神蔵さんには坪内さんという夫がいて、末井さんも既婚者で、所謂「W不倫」なのですが、末井さんは奥さんに「好きな人が出来たので家を出ます」と言って家を出て離婚し、神蔵さんも坪内さんに「好きな人が出来たから家を出ます」と告げます。ただ、そのまま家を出て奥さんの元に返らなかった末井さんと違って神蔵さんは、「坪ちゃん〈坪内さん)を一人にして離れて暮らすと考えただけでも苦しかった」と、坪内さんとの生活を捨てることは出来なくて、坪内さんも「美子ちゃんが幸せでいてくれればいい。」と言いながらも「美子ちゃんと話したりすることが自分にとっては重要。今出て行かれちゃうよりは週に二回だけでもいいから帰ってきて欲しい」と言って、ここから世間から見れば奇妙な三角関係が始まるのです。
末井さんと暮らしながら、坪内さんの元に通い「特別な関係」を続ける神蔵さん。「大好きな人と、好きな夫がいるぜいたくな生活」だと神蔵さんは書く。心を痛めるのは、坪内さんの孤独と、坪内さんの周りの人々との人間関係、でも、それは自分が非難されたくないという気持ちなんだということも神蔵さんは、わかっている。
神蔵さんは、末井さんをキッカケにのめり込んでいった「女装写真」のプロジェクトで、末井さんと坪内さんが一緒に女装した写真を撮ったりもする。自分が去っていった後の坪内さんの孤独に胸を痛めながらも「おもしろくてしょうがない仕事」と「大好きな人と一緒に暮らす」ことと、「特別な関係」を続ける夫との「何もかもがうまくいって自分の思い通りに全てのことが運ぶ」時期を過ごす。
そのバランスが崩れたのは、坪内さんに新しい恋人が出来てからです。最初は「僕と美子ちゃんの関係を理解してくれる人じゃないと付き合わない」と言っていた坪内さんと神蔵さんとの関係が変化する。当然と言えば、当然のことだけれども、距離が出来る。自分達は、いつまでも嘘の無い特別な関係で居続けられると思っていた神蔵さんの中に「嫉妬」という感情が湧き上がり、苦しみ始める。
しかし神蔵さんには、末井さんが居て、末井さんは神蔵さんを受け入れながらも坪内さんと神蔵さんの「特別な関係」、そして神蔵さんの中にある「坪内さんの存在」の重さに苦しんでいた。
『「言葉の世界の人」坪内と、「言葉の世界の人ではない」末井さん。言葉と、言葉でない世界。でも、頭のなかに残るのはいつも言葉だ。「言葉」から離れるのが不安だ。言葉は権力なのであろうか。』
言葉で語り続ける坪内さんの存在は、常に神蔵さんの中で大きく広がって、坪内さんの存在は、神蔵さんの一部になっていて、気持ちの上では、いつも末井さんと坪内さんと神蔵さんと三人で暮らしているような状態だったと書かれている、そして末井さんは、神蔵さんの中の坪内さんの存在により、どんどん閉塞感にはまり込んでいくのです。
って、、、こうやって、内容を書いていくと、神蔵さんのやってることは、世間一般から見ると「酷い」ですね。自分も結婚してるのに、結婚を控えた男を「略奪」して、そして、その人と何の不満も無い結婚生活を送っているのに、好きな人が出来て、その人は妻を捨てて離婚したのに、自分は夫を捨てられなくて、二人の男の間を行き来して、そして、夫に新しい恋人が出来たら嫉妬して、その夫への想いで、一緒に暮らしている人を苦しめてって。
実際に、「たまもの」の書評を読んでいると、そういう書評もありました。ワガママで自分勝手で嫌な女!とか。私の知人女性は、神蔵さんのことを「怖い女」だと言いました。彼女の「自分の想いに素直すぎる」部分は、社会性とか世間体とか、そういうものを飛び越えていて、「純粋」だと言えば聞こえがいいけれども、ある種の人達にとっては、「脅威」であり、「怖い」のかもしれない。
神蔵さんも、「狂」の人であると思うのです。
前回、「妖異金瓶梅」について書いた際に、「愛情を極めると、狂になる」と書いたのですが、「愛情を極める」というより、自分の心に、本当の意味で従うと、「狂」になるのかも知れません。
「狂」というのは、幕末に松下村塾の吉田松陰が自らを好んで「狂」と称したことにより、幕末志士達を評するのに使われた言葉なんですね。歴史学者の奈良本辰也先生は、「狂」について、こう書かれています。
「狂とは病める心のことではない。壮大で純粋な心である。代償を求めない大儀に生きる精神である。闇を裂き、星の如く生きる精神である。地位も名誉も金も、彼らの前には、塵ほどの意味を持たない。『狂』を生きる、それは爽やかな男達の生きかたである」
自分の想いに、純粋であればあるほど、「狂」になるのか。でも、そうなることは、「社会」を逸脱して、裸で傷を負うことなのかもしれない。「狂」として生きることは、ファンタジーの中だけでしかできないことかもしれない。だから、「狂」の男達、吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、彼らは長く生きられなかったからこそ、歴史に名を残すことができたのでしょう。
私は、「怖い女」「ワガママで身勝手な女」である神蔵さんを、どうしても非難できない。彼女が全て自分の中の矛盾やマイナスの感情や身勝手さを表現することによって、必死で未来へ生きる道筋を苦しみながらも探り続けている姿が、私の中のズルさや逃げや弱さを痛いほど抉り出す。「嘘の無い関係」「嘘をつかずに自分に正直に生きること」は、苦しい。「社会」の中で生きていくことは、自分の身を守る為の鎧が、どうしても必要だからだ。そうしないと生きていけない。だけど、そうして鎧で身を固め、武器を手にして戦って生きていると、時折、どうしようもなく疲れ、死にたくなるぐらい落ち込むことがある。狂いたくなる。なりふり構わずに、狂いたくなることがある。
私などは、ものすごく社会的には「ちゃんとした人」のフリをして生きているのですが、それは日々の糧を得る為に必要なことだからなのです。嘘で塗り固めて毎日を過ごしているの。時折、それに疲れる。ものすごく疲れる。しょっちゅう疲れる。「ソツのない、ちゃんとした社会人」を演じることに、疲れる。どうしたら、苦しまずに、もっと楽に生きられるんだろう、と、いつも思う。でも、今は、そういうふうに「演じる」ことでしか、私は、社会の中で生きていく術をしらないのです。
だから、心が弱くなった時に、「狂」の物語を読むのかもしれません。
「たまもの」の中で、神蔵さんと坪内さんの「特別な関係」のバランスが崩れていって、神蔵さんは自らの焦燥感と坪内さんと暮らしていた過去の「センチメンタル」が映された写真と向かい合います。写真は正直で、嫌になるほど正直で、「二度と戻らない幸せだった二人の暮らし」が、読み手にも痛いぐらい伝わってきます。神蔵さんの喪失感が痛い。何故、こんなにも痛いのか。それは、読み手にも覚えがあることだから。普段忘れている、あるいは、見なかったことにしている物を、目の前に突き出されてしまうから、痛い。
「たまもの」は、痛い。女の人は、別れた男を切り捨てるのが早いというけれども、実は、私は、そういうのが上手くできない方で、時間がかかる。それは「情が深い」と言えば聞こえがいいのかもしれないけれども、執着心が強いのだとも言えます。いったん好きになってしまうと、なかなか断ち切れない。断ち切らないといけないのに、断ち切れない。例え新しく好きな人が出来ても、それまで好きだった人を断ち切るのに時間がかかる。「好き」じゃなくなっても、断ち切れないのは、「好きだった頃の記憶」に縛り付けられるからだと思う。例え嫌な記憶でも、ものすごく残ってしまう。何かのきっかけで、フッと断ち切れることもあるけれども、一度好きになった人の事を、完全に「喪失」してしまうことなんて、できるのだろうか。「好き」で、一緒に時間を過ごすことは、「好きな人」の存在が、自分の一部となることなのだから。例え恋愛が終わってしまっても、一度自分の肉となった「好きな人」を完全に喪失してしまうことが、容易いことのはずはない。
そして、自分だけじゃない。坪内さんが自身の一部となっている神蔵さんを愛する末井さんの気持ちも痛い。自分の好きな人が、別の人を、自身の一部として抱き続けて生きること。過去も含めてあなたの全てが好きだよと、そう言ってしまうのは簡単だけれども、それでも痛い。ものすごく痛い。神蔵さんが、坪内さんと過ごしていた時間も、別れても絆を持ち続けていた二人の関係も、末井さんのことを愛する神蔵さんの気持ちも、どれも真実で、真実だからこそ残酷で、どうすることもできない。ただ、痛い。
「たまもの」の中の写真は、一人で残された坪内さんも、二人でかって一緒に暮らしていた頃の坪内さんも、その空間も、そして泣く神蔵さんも、坪内さんと新しい恋人との写真も、坪内さんへの想いに囚われる神蔵さんを愛しながら苦しむ末井さんの写真も、どれもこれも痛いのです。
何十年か生きてきたら、恋愛じみたことの一つや二つ、あるいは、それ以上経験してて、そこには個人的な幸せや憎悪の物語が存在していて、人を好きになるということは、その人の中にある「物語」も、全て好きになるということが、「好き」なんだと思う。それを「見なかったこと」「無かったこと」にするのは、「前向き」とは、ちょっと違うと思う。でも「物語」と対峙することって、痛い。それはお互い様かもしれないけれども、痛い。痛いけれども、その痛みと共に生きていくしか出来ない。そうしないと、未来は無いのだと思う。だって、その「物語」を含めての、その人なんだから、見なかったことには出来ない。
悲しみも痛みも共に抱えながら、誰かと生きていこうとする真摯さ。それは、本当に容易いことではないし、所詮「芸術家である」神蔵さん達だからこそ出来た、「ファンタジー」かもしれないけれども、それでも、この物語の最後の言葉に、私はいつも救われるのです。
『坪内祐三は、わたしが末井昭と出会ったことを「神様はいると思った。」と、かって言ってくれたことがある。「神様はいる。」この言葉をありがたく受け止めて、末井さんと生きていこう。』
私も、神様はいると思う。きっと、多分。だからこそ、今まで、生きてこれた。会えるべき人に、出会えた。あなたに会えた。
「たまもの」神蔵美子
http://www.bk1.co.jp/product/2166199
「絶対毎日スエイ日記」末井昭 (その後の、末井さん側から見た神蔵さんとの生活が描かれています)http://www.bk1.co.jp/product/2433206
末井さんのサイトhttp://sueiakira.com/top.htmlの「巻末未収録コラム」の中の「memo」で、神蔵さんについて書かれています。名文。
- 作者: 神蔵美子
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2002/04
- メディア: 単行本
- 購入: 1人 クリック: 70回
- この商品を含むブログ (43件) を見る