凄まじい片思いの果てにあるものは ―「妖異金瓶梅」 山田風太郎―

 
 「藩金蓮」という、私が使ってる名前は、私が最も敬愛する作家・山田風太郎の「妖異金瓶梅」のヒロインの名前です。正確には、「潘金蓮」なのだけれども、最初、変換する時に出て来なかって、めんどくさいので「藩」のままで通しています。何故、この名前を使ったのかと言うと、mixi始めた時は、その後、こういうふうに文章を書き続けることになるとは全く考えていなかったし、気のきいた名前を考える暇もなかったので、自分の一番好きな、理想の女の名前を使って今に至る。なんだか恐れ多いので、途中で何度も名前を変えようとも思ったのですが、今更それもめんどくさくなって、そのままこの名前を使っています。

 「金瓶梅」は、「水獄伝」の中のエピソードの一つだそうですけど、「水獄伝」自体は、中学生の頃にチラっと読んだだけで全く覚えていないし、「金瓶梅」の漫画もあるそうなのですが、それも読んだことはありません。だから、私の中での「金瓶梅」、そして「藩金蓮」は、あくまで山田風太郎の小説が全てで、それ以外は無いのです。

 「妖異金瓶梅」を読む前に、何冊か山田風太郎忍法帖シリーズは読んでいたけれども、「金瓶梅」を読んで、ドップリ山田風太郎にハマりました。この小説は、とにかく衝撃だったの。世の中に、ここまでおもしろいものがあるのかっ!って。ショックでしたよ。なんだか自分の、それまでの世界観がひっくり返るぐらいの衝撃を受けましたよ。

 それから本の読み方も変わりました。活字中毒者なんで、それまではとにかくジャンル構わず読み易い本を漁ってました。読むだけ、ただひたすら読むだけだった。読むと、それなりに知識が増えたような気になってはいたけれども、実際のところは自分の感性には何の影響も与えられてなかったんですよ。ものごとを、ちょっと知ったような気になっただけ。それなりに、おもしろかったり、感動したりもしてたんだろうけれども。
 でも山田風太郎にハマってからは(ハマったのは30過ぎてからで、わりと最近なのですが)「おもしい本以外は読みたくない!」「おもしろくない本を読むのは時間の無駄!」って、強く思うようになりましたね。ま、読んでみないと、おもしろいとか、おもしろくないとかは実際のところわかんないわけですが。

 「おもしろい本」とは、何か。それは、感性を揺り動かすような本だと思います。自分を壊すことの出来るぐらいの力を持つもの。きっと、それは本だけではなく、映画や、人間関係も同じことだと思う。人間関係、すなわち友人や、恋人も同じだと思うんです。私は、友達と呼べる人が非常に少ないのだけれども、〈知人と、友達は別です)その数少ない友達は、私という人間を壊す力を持った人達です。だからこそ、一生つきあいたいと思う。

 さて、「妖異金瓶梅」という小説の紹介をしたいのですがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁあぁぁっぁぁっ!難しいんでございますのっ!この本の面白さを書こうとすると、どうしてもネタバレになっちゃうんですの。で、正直、「とにかく読んで下さい。最後まで。」としか言いようがない。この本の「おもしろさ」は、実際に「最後まで」読んで貰わないとわからない。


 物語の舞台は、宋の時代の中国。豪商・西門慶と、彼の館に侍る数人の女達と(藩金蓮は西門慶の第五夫人)、西門慶の友人・応伯爵が主なる登場人物です。西門慶は精力絶倫の快楽主義者で、複数の夫人を日夜、酒池肉林の生活をしていました。
 「妖異金瓶梅」の前半11章は、その西門慶の館で起こる奇妙な殺人事件が書かれた「ミステリー小説」です。殺人事件があって、トリックがあって、動機があって、犯人が居て、、、、。 
 ただ、第一章「赤い靴」(江戸川乱歩が絶賛したそうです)を読んだ時点でわかるんですが、この前半のミステリー短編の「犯人」は、全て同一人物であり、「動機」も同じなんです。「犯人」は、非常に自分勝手な「動機」で、人を殺し続けるのですが、読み続けていくうちに、この「犯人」の恐ろしく残虐な行為と、それに至る動機が、たまらない魅力を放つのです。

 そして、後半になり物語は一変します。西門慶と、その女達の「快楽主義の牙城」ハーレムは崩壊し、世界が破局に向かいます。ここからが、哀しくも美しく凄まじい大恋愛抒情詩となるのです。「一人の男を愛すること」が全てで、それ以外には何の価値も無い、必要が無い一人の女。そして、他の男を全身全霊かけて愛する、決して自分の物にはならない、その女に、狂おしいほど焦がれてしまった一人の男の「破滅」という形での、愛の成就が描かれます。


 ある一人の男を愛することが全ての女も、その女に焦がれる男も、どちらも凄まじい片思いなんです。
 好きな人を、完全に手に入れることなんて出来やしない。本当に、人が人と、ぴったり融合することなんて不可能だ。好きな人に好きだと言われてても、例えセックスしても、自分の想いの果ての無さに目が眩む。好きだ愛してると言葉を尽くせばいいのだろうか。言葉にすればするほど、自分の想いが、そのまま伝わらないもどかしさで歯がゆい。お互いの心と身体の隙間を完全に埋め合わすことなんて出来なくて、それでも、あなたが欲しいと焦がれ続けて求め続けて、だから人を好きになるということは、全て「片思い」だ。


 「妖異金瓶梅」の後半では、「藩金蓮」と「応伯爵」、この二人の狂気と言っていいほどの焦がれ死にしそうな、それぞれの「片思い」が描かれます。そして前半の、「完成されたミステリー短編」も、この後半の物語の伏線であったことに気付かされるのです。


 最初に、この本を読んだ時に「藩金蓮」のことを、「理想の女」だと思ったのですけれども、よくよく考えると、かなりとんでもない女なのです。相当に、とんでもない。残虐で自分勝手で無茶苦茶で、狂ってる。それでも、この本を読むと、この女は幸せな女だなぁと思うし、カッコいいなぁと思ってしまいます。何故なら真摯で、筋が通ってるから。やってることは、滅茶苦茶なんだけど、一本揺ぎ無い筋が通ってるから。西門慶を守ろうと、敵の前に立ちはだかった時の金蓮のセリフが、


「人を殺すばかり知って女の心を知らない朴念仁ども、教えてやろう、女の心をいうものは、きらいな男なら毒を盛っても夢にみないが、好いた御殿は、殺されたって殺させないよ!」


 ってんですよ。このセリフだけ聞いたら、きゃーっカッコいいーなんですけれども、その後も、この女は、とんでもないことをしでかしたりするので、本当に、ここまでいくと「狂気」としか呼べないような気もするのです。でも愛情というのは、極めると結局のところ「狂気」なのかなぁとも思う。インドに「鬼子母神」という神様が居るのですけれども、自分の子供に食わせる為に、人間の子供をたくさん浚って殺してたんですよね。エディット・ピアフの「愛の讃歌」の歌詞のように、「あなたの為なら、世界中を敵にまわしても平気」っていうのも、そうなんですけれども、愛情を極めることは、社会性とか、そういう殻みたいなモノを全て通り越して「狂ってしまう」ことなのかなぁ。


 小説というファンタジーの中だからこそ、「狂気となり果てた愛情」が美しく描かれているわけなんですが、「妖異金瓶梅」の哀切なラストシーンは、叶えられない凄まじい片思いの果てにあるものが、「不幸」ではないと思わせてくれるのです。決して自分の手に入らない誰かを狂おしく焦がれる「狂気」の果てにあるものは、「不幸」でも「絶望」でも無いと。


 私は、このラストシーンを読む度に、胸を掻き毟られるような気分になる。真摯に生きなければ生きる価値は無いんじゃないかと思う。それは恋愛だけじゃなく、自分が焦がれる何かに対して、自分の身を守る鎧や、自分を縛り付ける鎖を一切身につけずに、裸で対峙するべきだと切に思う。矢傷を負っても、その痛みをエネルギーに変えるぐらいの強さと怜悧さを身につけて生き伸びるべきだと。それが、「意味のある生き方」なんじゃないかと。


 「恋愛小説」を、読みたい方に、「恋愛小説」に飢えている方に、自分を壊すぐらいの本に飢えている方に、お勧めです。個人的には山田風太郎の最高傑作だと思っています。




 
 「妖異金瓶梅」 著・山田風太郎 http://www.bk1.co.jp/product/2087953