煩悩系エロライター、永平寺で修行する 〜その1〜


「ホントに、ドマゾですね!」

 と、いうのが、永年の付き合いがある友人に、「永平寺で修行をする」と告げて言われた言葉です。あと、別の方に「あなたから煩悩をとったら何も残らない」とも言われ、同僚バスガイド達には散々「何を好きこのんでそんなしんどいことを」と変わり者扱いされました。元上司には「羨ましい」と言われ、親には「あんなみたいな者はそういう体験をした方が・・・」と、暗にダメだしをくらいました。元婚約者で歌手のTには、「そこまでして笑いをとろうとするんですか!」と言われました。
 
 先日、そうして永平寺から戻ってまいりました清純派バスガイド&煩悩系エロライターです。
 正確に言いますと、この一般の人間なら誰でも出来る永平寺の修行体験を「参禅体験」と言います。日帰り、一泊二日などもありますが、私が参加してまいりましたのは三泊四日のコースです。体験日時は決まっていますが、宗教、宗派構わずどなたでも体験できます。ただ一つの条件は足が組めること。結跏趺坐(両足の裏を互いの腿の上に乗せる)が出来なくても片足での半跏趺坐でもOKです。勿論期間中は禁煙、禁酒です。外部との連絡も緊急時以外は出来ません。ほぼ自由時間は無いです。
 禅宗寺院で修行をされているお坊さんのことを雲水さんと言います。この雲水さんと同じものを食べ、同じ生活をします。

 夏ぐらいから「山で修行したい」と言い続けていました。何故山なのか。
 京都にはたくさんお寺がありますが、家に近過ぎる、つまりは普段の生活圏にある処は嫌だったのです。京都で坐禅が出来るお寺はたくさんあります。修学旅行のコースにもよく入っています。だけどどうせなら仕事で普段行きなれている処も嫌だった。
 それに観光の延長でしても何も得られないと思っていた。20分ぐらい坐禅し、美味しい精進料理を食べ帰ってもしょうがない。
 ところで、「座禅」とよく書かれていますが、正しくは「坐禅」です。
 特に坐禅に拘ってはいなかったんですね。お寺でお坊さんのような修行が出来るなら宗派問わずどこでもいいと思っていました。ネットなどで幾つか尼僧体験や、修行体験を出来るところを捜しました。けれど、団体でしか受け付けないところとか、冬はやってないとか、値段が高いとか、先ほども申しましたように近場や生活圏内は嫌ですし、それに日帰りは一泊二日も短すぎる、かといって永過ぎても仕事等の都合がある・・・そうして見つけたのが、永平寺です。
 
 永平寺の修行は、厳しいことで有名でした。厳しいと思うかどうかは自分次第ですが、修行を体験するのに観光気分で緩くやっても意味がないし、福井県ならばちょうどよい距離です。
 永平寺道元禅師により開かれた曹洞宗の本山ですが、私は道元禅師についても曹洞宗についても知識が殆どありませんでした。今でもあまり無いです。何故かというと、京都には縁が薄いからです。実は道元禅師がお生まれになったのは京都で、縁が薄いわけでもないのですが、今現在、仕事で曹洞宗の寺院に行くことは殆どありません。ちなみに京都には同じ禅宗臨済宗の寺院は多いです。天龍寺妙心寺高台寺東福寺南禅寺大徳寺等。これは室町・鎌倉幕府臨済宗と結びついたからです。
 けれど、実は私の実家は曹洞宗の檀家なのでした。とはいえ、家族全員信仰心など無いです。たまたま檀家なだけ。母などは、この前、曹洞宗の本山が永平寺だと知ったぐらいで興味が全く無い人です。ちなみに私が中退した大学は浄土真宗なので、どちらかというとその方が馴染みが深い。

 さて、修行をすると言ったら、「ドマゾ」と言われましたし、それは否定しません。マゾで変態で淫乱なのは自覚しております。だからと言ってマゾの探究心で修行に行ったのではありません。どうしてお寺に行きたかったか。
 単純に仏様に近づきたかった。
 人は神様にはなれません。
 けれど仏様にはなれるのだと、仏教は説きます。

 特定の宗教を信仰してはいませんが、哲学としての仏教に興味があります。
 宗教に触れようと思ったのは、二十代半ば、ですね。
 24歳の時にオウム真理教事件がありました。
 あの事件は、今まで生きてきたなかで、一番心を揺り動かし、ショックを受けた事件でした。
 そしてその頃から、私は私の「神」に依存を深めます。
 当時は、まさに、その男は私の神でした。
 22歳上の、初めての男です。
 私は20代の時は、その人しか男を知りません。
 けれど、挿入なんて数度、キスは2度しかしていない。
 挿入は、私から金を引き出すための「餌」であり、キスは「心の無い関係だから」してはいけなかったのです。
 そうして、神が世界の全てだった私は、神を助けるため、神を自分に引き止めるためにサラ金に手を出し、エライことになりました。

 その関係が後半に差し掛かった頃です。
 毎日毎日死にたくて、でも死ぬ勇気が無くて、私は救いを求めて、お寺に行き法話を聞いたり、宗教の本を読み漁っていたのでした。
 信仰を持とうと思いました。
 とにかく、逃げたかったのです。
 人間は信じられないから、縋れない。自分という愚かな人間には人に縋る資格も無いと思っていたから。だから信仰に逃げたかった。執着と自己否定の渦と、そして未来の無い生活から、とにかく逃げたかった。
 
 だけど、どんな宗教も、心に入ってはこなかった。
 男からの精神的な暴力と支配から逃れたくて、男以上の存在が欲しかったから、「神」を探していたんです。その辺のことは、こちらに書いてます。

 そしてどんな信仰も得ることもなく(今でもそうですが)結局、男との関係が切られたきっかけは、「新しい男」でした。その男とも同じことが繰り返されるのですが。
 未だにそうですが、常に性欲と依存執着に振り回されています。サラ金に手を出したことにより仕事も信頼も友人も失いましたので、性欲と依存執着により「人生が狂った」と、敢えて表現することもあります。
 今現在は仕事を持つことにより、そこまで堕ちることもない(と、思っているがわかんない)それでも性欲と依存執着、それから派生する憎悪のような嫉妬心、功名心、名誉欲などの欲望が、苦しい。苦しいということは、欲望を罪悪だと思っているからだ。そういう欲望以外にも、大きく自分を苦しめていることは、「過去」です。遠い過去だけではなく、近年の過去も。消しゴムで消そうとしても消せない過去。今現在のものだけではなく、過去の憎悪、嫉妬で、夜泣くことや、怖い夢を見て目が覚めることがある。そういうことを気にするもしないも自分次第で、それはわかっているのですが、「忘れる」ことも「気にしない」ことも出来ない。


 ある人に、「あなたが人を悪だと思っているのは、自分自身を悪だと思っているからだよ」と言われました。
 その通りです。
 私が一番憎んでいるのは、自分自身。
 救われたい。

 だけど、憎悪や嫉妬、それに欲望を忘れてしまおうとも思わないのですよ。だって、それで書いてるんだもん。以前も書きましたが、文章で「人を幸せにしよう!」なんて志はさらさら無いです。結果的にそうなって貰えれば嬉しいけれど。人を幸せにしようとは思わないけれど、面白がってもらいたいというのは多いにありますね。
 だから、そういう自分が醜いと思っている心の部分を、エンターティメントに出来たらな、とは思う。

 話がそれた。

 そんなこんな、で、煩悩の塊のようなわたくしですが、本や、たまに観光でお寺に行くだけじゃ物足りなくて、もう少しだけでも、仏様のところに近寄ることが出来たならと思っていたのです。だからといって本格的に出家する覚悟はまだ無いし、いつかはそうなるかもしれないけれど、それまでにやりたいことがあり過ぎる。

 昨年12月、永平寺に電話をして参禅の件を問い合わせて、日程等を聞きました。葉書で申し込みをして下さいとのことで申し込んで返信葉書がきた。そして、先日、福井県へと向かいました。

 正直、少し前に、ものすごく嫌なことがあって、相当堕ちていました。人に話せば「そんなことで」と思われることだけど、自分の中の憎悪が肥大して殺意に塗れて発狂しそうだった。悲しくて死にたいと思うこともあった。そんな状態から早く逃げたかった。だから早く永平寺に行きたかったのですが・・・・前日には後悔してました。途中で脱落する人もいるという修行、私に出来るのだろうかって。バスで永平寺に着いて、集合時間まで間があったから門前の店で蕎麦食べたりしてた時も、密かに「帰ろうかな・・・」とか考えてたけど、いろんな人に言っちゃったし、mixiの日記にも書いてた手前さすがに引き返せない。

 と、いうわけで、永平寺に足を踏み入れたのです。ちなみに来たのは2度目だけど、もう18年ほど昔のことなので殆ど記憶にないです。
 参禅者はロビーに集まり、時間になりましたら参禅係の雲水さんに先導され控え室に入りました。袴に着替えます。これは貸してくださいます。女性の方は化粧をとって下さいを言われました。携帯電話、財布など、「使わないもの」は預けます。
 そして、煩悩の塊のわたくしの修行が始まったわけです。

 正直、一日目は、「とんでもないところに来てもうた・・・」と、内心思っていました。


 続きます。