煩悩系エロライター、永平寺で修行する 〜その3〜

hankinren2010-01-30



 さて、永平寺シリーズ、読む側も書く側も飽きてきたと思うので、今回で一応のラストです。

 永平寺の美しい雲水さん達に見惚れながらも、煩悩系エロライターはどうしても下衆な勘繰りしてしまうのですよ。それは、「性欲」です。
 彼らのプライベートスペースは畳一帖です。仕切りなんぞありません。ただ寝て坐禅して食事するに充分な空間しかないのです。布団も敷けません。じゃあどうしてるか。掛け布団を二枚使い折って、そこに包まれるような格好で寝ているそうです。修行中の僧侶とはいえ、20代前半の男性です。勿論エロ本やエロビデオなんぞないし置くスペースもありません。大学を卒業してこちらで修行される方が多いそうですが、もし大学時代に彼女がいた人など、この「24時間修行」の空間でどうされてるのでしょうか。
 普段性欲に塗れた世界で「セックス」がどうたら「オナニー」がどうたら書いたり口にしているわたくしから見て、20代前半の健康的な若者達が性欲をどう処理しているのか、ものすごく気になった。けれど、さすがに彼らに「オナニーはどうしてるんですか?」とは聞けない。一番聞きたかったことだけど、聞けない。オナニー、やってないんでしょうか? ある人は「精進料理を食べ続けると性欲が無くなる」とおっしゃってたけれど、そうなんでしょうか。今回は聞けませんでしたが、実は知人に永平寺で修行をしていた雲水さんと結婚した娘がいるので、いろいろ聞いてみたいです。さすがにオナニーのことは聞きにくいけれど。

 けれど彼らを見ていて、所詮私は表面的なところにしか触れていないとはいえ、日本にもまだこういう場所があり、こういう人達がいるんだということは「救い」のように感じたのです。何を思い、何を目指してここに辿り着いたのかは知らないけれど、生半可な覚悟じゃ出来ないことです。
 私はやっぱり、お寺とか、仏様の居る空間が好きです。自分自身が救われなくても(救いを求めてくることは傲慢なのかもしれないとたまに思う)、そこには「救い」が存在する。

 さて、修行のメイン「坐禅」について。
 曹洞宗坐禅は「只管打坐」と言います。只管打坐は、「無所得・無所悟・不可得」の坐禅です。さとりも求めない、ただ坐禅するだけで他に何も求めない、坐禅の外に目標を持たない、ただ坐るだけ、です。「坐禅」といえば、「無になれた?」とか「煩悩捨てられた?」とか聞かれるのですが、無になろうと思うことも、煩悩を捨てようと思うことも、それは何かを求めていることで、無ではない。
 ただ、坐るだけ、それが只管打坐です。ちなみに曹洞宗坐禅は壁の方を向いてやります、そして目は瞑ってはいけません。
 実際にやってみてわかったのですが、「無になろう」「煩悩を捨てよう」と思うのは、すごく辛いことです。だって無になんかなれないし、煩悩なんて捨てられない。それはわかっちゃいるけれど、ついそう望んでしまう。
 ハナっから、お寺に来て、「自分が変わる」とは思ってないし、「変わりたいから」「自分探し」「自分を見つめ直す」とかも求めていない。数日お寺に来て坐禅するだけでそんな劇的な変化があったなら、今までとっくにもっと変わっていた筈だ。日常で変わることの出来ない人間が、お寺に数日籠もっただけで変わられるなんて思っちゃいない。第一、「変わりたい」とも思ってないのだ。どこまで行っても、わたしはわたし、で、わたしという人間が生きて人と会ったり物を書いたりしているのだから。
 じゃあなんでここに来たのか。ちょこっとばかしでも、救われたいと思ったからだ。楽になりたい。余計な荷物を抱えているから、少しでもおろしたい。自分で何とかしようと、思い続けて、それなりに努力をしてきたつもりだった。それでも「サボってる」「怠けてる」と言われたこともあるし、自身でもそう思っている。そして私は結局のところ最終的には人に悪態をつくフリをして自分を責めるのだ。お前が一番悪いんだ、と。恵まれている人を憎むのは、お前の行いが悪いからだろう、と。
 うんざりするほど、そういうことを繰り返している。どうにもこうにも楽になりたい、少しだけでも。
 私の焦りは、私にしかわからない。私の傷も、私にしかわからない。ただ、そうしてぐるぐると自分の中で自己愛の延長である憐憫の輪廻を繰り返しているうちは、孤独から逃れられないのだ。愛されたいと切望しつつ、本当のところは誰のことも愛していない、愛せない、ここに居る限りは。

 坐禅ですが、一日目の夜は、大変だった。何が大変なのかというと、やっぱり「無になろう」とかしてたせいなのか、煩悩が噴火したマグマのように溢れてきて参った。溢れた煩悩、ひたすらセックスのことを考えていた。性欲、とはまた似て非なるもの。セックスしたいっていう欲望ではないから。ただ、セックスの記憶と妄想。過去(主に近年)にわたしがした、セックスの記憶、数は少ないけれどもいろんな男とのセックスの記憶が溢れ流れてきた。垂れ流された。そしてこれから、したいと密かに思っているセックスの妄想。それらが頭の割れ目から溢れて垂れ流されどくどくと全身を伝わり続ける。あの人とこんなことをした、あの人とこんなことをしたい、この人とこんなことをした、この人とこんなことをしたい。セックスが溢れて溢れて止まらない、わたしは坐禅をしながら、セックスのことばかり浮かんで、しかもとりとめなくて、どうしようか、参った。自分はバカなんじゃないか、いい年をして、世間面を剥がしたら、こんなことばかり、わたしという人間はセックスで出来ている、みっともない、愚かだ、お前はまだ懲りないのか。そればっかり溢れて溢れて、頭がおかしくなりそうで、このまま溢れ続けていたら狂ってしまうのではないかとすら思えた。ああ、もう、嫌だ、うんざりだ。
 布団に入ってからも、そのまま溢れ流れて枯れることなく、眠れなかった。

 2日目の日中の坐禅は、ひたすら足が痛かった。足が痛い、足が痛い、耐えられるかなと、そればかり考えていた。その夜の坐禅から、いろんなことを思い出した。愛されてた記憶、愛した記憶。わたしはあの人に愛されていたのだと、愛していたのだと、そんな記憶。それらは実はもうどうにもならないもので、縋ることも追うことも出来ぬもので、本当に今はもうどうすることもできないものだけれども、その幸福な記憶を、ずっと忘れていた。わたしという人間の中にも、少しだけ、そんな幸福な出来事が、あった。何故に忘れていたのか、それに縋りそうになるから、どうにもならないことだから、忘れて恨みに変えてしまおうとしていた。思い出は残酷で、過去だから残酷で、不幸な過去より幸福な過去の方が残酷だ。わたしは今でももしかしたらそのことにとらわれているのだろうか。不幸より幸福に。けれどそれこそが愛というものではないのだろうかとも思った。
 懐かしい、愛されていた、愛していた記憶が蘇ったその夜は、安らかに眠ることが出来た。あなたが、懐かしい、愛は、懐かしい。

 3日目の坐禅は、ひたすら気持ちよかった。坐って目の前を見つめている、ただ、そのことが気持ちいい。気持ちがいいということは、幸せなことだ。翌日、最終日の朝もそうだが、坐禅があんまりにも気持ちいいので、もっとしたくて、物足りなく思えた。気持ちいい、すごく気持ちいい。坐禅が快楽だった。
 だから、最後に皆で挨拶をして解散して永平寺を後にする時は後ろ髪引かれる思いだった。

 で、この3泊4日の「参禅体験」厳しいかどうか、ですが、これぐらいの期間なら全然厳しくないと私は思いますよ。けれど耐えられない人がいるのもわからんことはない。正直、仕事やってる方がもっと厳しい「修行」だ。

 ところで、坐禅といえば、あの、肩をバシーンと棒で打つやつ、ありますよね。あれを「警策」(きょうさく)と言います。あれは寝てなくても、背後に雲水さんの気配を感じた時に、合掌して合図を送れば、打ってくれます。はい、打ってもらいました。めちゃめちゃ痛気持ち良かったです。これは私がマゾだから、ではないと思います。以前、坐禅体験をした修学旅行生達が口を揃えて「気持ちいい!」と言っていましたし、今回、他の方もそうおっしゃってました。ホンマに気持ちいいです。すごい音するし、痛いですよ。だけど気持ちいい。クセになりそう。

 それから今回の坐禅は、曹洞宗なので、他の禅宗はまたいろいろ違うことをご承知下さい。一口に禅宗と言いましても、他に臨済宗黄檗宗などもあります。例えば曹洞宗は壁に向かうけれど、臨済宗は逆です。壁に背を向けます。近々、臨済宗坐禅もやってみるつもりであります。京都は無料で坐禅体験が出来るところなど、わんさかあります。
 永平寺まで来なくても、全国各地で坐禅体験できるところはありますので、興味がある方はお試し下さい。
 ただ、今回、上記のように4日間に渡って坐禅を体験し、自分の心境も変化がありましたので、やはり1回、20分とかの短い体験だと何もないのではないか、とも思うのです。

 あと、今回の参禅体験の後半に、芥川賞作家の藤原智美さんという方が、プレジデントという雑誌の取材で来られてましたので、そのうち載ると思います。

 永平寺で修行を終えて、何が変わったか。何も変わってません。ただ、楽しかったな、と思いました。もし何か変化があったとするならば、まだ、これからでしょうね、それが現れるのは。影響はあったと思うのですよ、何事も経験が人間に影響を及ぼさない筈はない。よくも、悪くも。
 楽しかった、おもしろかった、来て良かった。
 感想はそれだけで、それ以上のものはないけれど、それはわずかばかりかもしれぬけれども、「救い」ではないだろうか。

 最終日の朝、ご挨拶を終え、お世話になった雲水さん達ともお別れして下山し、バスで福井駅に向かいました。お寺に籠もっていたので、よくわからなかったけれど、ずっと雪が降っていたそうです。

 わたしはわたしという自我の強さを常に持て余して、右往左往して他人に迷惑をかけて生きています。ロクでもない生き方をしてきたし、ロクでもない死に方をするんじゃないかと常に思う。誰にも見放されてしまっているんじゃないかと、怖くなることもある。けれど、この自由な日本という国の中には、そんな人間をも受け入れてくれる場所があり、そのことはとてもすばらしいことだ。

 わたしは、本当に、本当に、これからどうやって生きていけばいいのか、わからない。私の自我は強いけれども、心は脆く弱く卑怯で根性が無く傲慢だ。どうやって、生きていけばいいのか、まだわからない。
 けれどもそんなわたしにでも、差し伸べられた手がある。仏様の、手が。誰にも見放されても、呆れられて突き放されても、ただ、あなたの手がそこにあり差し伸べられている限り、わたしは多分生きていける。人の身に姿を借りた、仏様の手が。
 そして人は仏になれるのだと、仏教は説く。

 ほとけの手が、差し伸べられた、手がそこに、ある限り。