「いんらんパフォーマンススペシャル 恋人」 ― 代々木忠監督作品 ―
さて、前回の長い前フリが終わったところで、代々木監督の一本の作品について書きます。長文で申し訳ないですが、出来たら前回の記事を先に読んで頂けたらなぁ・・・いや、どっちでもええけど。(弱気)
そのビデオのタイトルは「いんらんパフォーマンススペシャル 恋人」1987年に発売され(22年前!)、翌年にはタイトルを変え劇場公開もされています。「いんらんパフォーマンス」というのは、シリーズ名です。(以下、文中は敬称略)
登場するのは、AVの仕事をしているK子と、その恋人であるAという男。この一組の恋人同士が代々木忠の下にやって来たことから物語は始まる。
2人は、恋人同士なのにセックスの回数が少ないと告白する。K子がAVの仕事をしていて、それを自分自身が負い目に感じていること、Aもそれを割り切れないことなどもあり、どこか関係がぎくしゃくしていることなどが語られる。
この一組のカップルに絡むのがAV男優・太賀麻郎と、AV女優・風間零。代々木忠は、「関係を見つめなおしたい」と言うK子と太賀麻郎を、Aと風間零を、それぞれ「違う相手」とペアになり2人で部屋に入るように指示を出す。そして、お互いの部屋にはカメラがあり、モニターが置いてある。つまり、それぞれのペアが2人きりで居る所を、いつでも見られるようになっているのである。
太賀麻郎のペースに心地よく乗せられたK子は最初は「モニターで恋人に見られていること」に戸惑いながらも身体を開きセックスをする。
別の部屋に居るAは、裸の風間零を前にして何とか持ち込もうとするのだが、K子が気になるのか上手くいかない。
そして、それぞれが一夜を過ごす。K子と太賀麻郎は語り合い、何度もセックスして関係を深めていく。
翌朝、K子は朝食の席で、自ら進んで作ったこの状況に自分が苦しめられていると告白する。
それを聞いたAは、K子と、部屋で2人で話し合おうとする。
Aの前で、K子は、このように語る。
“ 昨夜、麻郎さんと昔のこととかいろいろ話してね・・・彼はあなたと本当に正反対で最初は理解出来なかったの・・・だけど結論は、この人(太賀麻郎)は、純粋にそのまんま子供から大人になった人で・・自分の心をガードしないの・・・純粋過ぎて怖い・・・あなたもそうなって欲しい・・・昨夜モニターを見て来てくれるんじゃないかと思ってたけど・・・来てくれなかったからもういいやって・・・私、あなたより先に自分が裏切ったことで、自分が憎くてしょうがないの・・・ ”
そう言って涙を流すK子をAは抱きしめる。
泣いて抱き合い、愛情を確認したらしき「恋人」は仲良さそうに手を繋ぎ中庭を散歩する。
そしてまた夜が来て、本来の「恋人」同士であるK子とAはベッドに入る。
最初の望み通りに、「関係を見つめなおす」ことが出来て、絆を深めた恋人同士のセックスが始まるはずなのに、フェラチオをしてもAが勃起せず、もどかしくなったK子はAの腕枕のもとでオナニーを始め声を出してよがる。
「そんな気にならない」と言いながら煙草を吸うAに、K子は、「どうして煙草なんか吸うのよ」と苛立ちをぶつける。
気まずい恋人同士のもとに、代々木の指示により太賀麻郎と風間零が現れる。勿論、彼らはそのやりとりをずっとモニターで見ていた。そして今度は、Aと風間零は別の部屋に行くように指示され、太賀麻郎とK子の2人になる。
太賀麻郎は、昨夜K子と2人で過ごした時間のこと語り始める。
“ 昨日さぁ、あなたと話をしたりカメラ廻ってないところでもセックスしたりしてさ・・・俺はチョロいからさ・・そういうの信じちゃうんだけど・・・あっちの男の前でこう言って、こっちの男の前でこう言って・・・そういうのって、不思議なんだけど、グサっと傷つくわけ・・・ ”
黙りこむしか出来ないK子と、彼女を見つめる麻郎。
そこで代々木忠は、更に、こう指示を出す。
「麻郎、抱いちゃえ。抱いちゃえよ、それしかないよ」
と。
そして太賀麻郎がK子を愛撫し、K子もそれを受け入れセックスが始まる。さっきまでの「恋人」Aとの空間が嘘のように、気持ち良さそうに喘ぎ声をあげ感じるK子。セックスしながら麻郎は、「彼と俺とどっちがいいの?」と何度もK子に問いかける。
最初は躊躇っていたものの、「麻郎さん・・」と、口に出すK子。
そしてそれを別部屋のモニターで見ていたAが、怒り狂い登場し、麻郎をK子から引き剥がし、「どっちを選ぶんだよ!」と問い詰める。答えにつまるK子。
しかしAは彼女の答えを待たずに、こう捨て台詞を残し、その場を去る。
「こんな女、くれてやるよ!」
と。
Aは去り、残されて呆然とするK子に、代々木忠は、「これでスッキリしたでしょ。もう遅いから我々は寝るよ、お休み」と告げて、この作品は一旦終わる。
Aは最後にK子を捨てたつもりだった。
けれど代々木忠にも、ビデオを見ている我々にも途中からわかっていたことがある。最初の夜からわかっていた。
捨てられたのは誰が見てもK子ではなくAであり、彼女が翌朝太賀麻郎のことを「純粋で・・・」と語る場面から、もう彼女の心は太賀麻郎に傾いていることを。
しかし彼女は女なら当たり前にあるズルさでAの心をも引きとめようとして、意識的であれ無意識であれ彼の気をひき涙を流した。
そもそもこの状況は、「2人の関係を見つめなおす」というよりは、彼女が恋人を試そうとしたことが発端なのだ。
セックスの回数が減り、自分の仕事にも後ろめたさがある彼女が恋人を試そうとしたことが。いや、試そうと、ではない。
「嫉妬」を使い彼の心を燃え上がらせて自分の方に向かせようとしたのだ。
女なら、大なり小なり男を試そうとした経験はある筈だと思う。
意識的にせよ、無意識にせよ、男の心を惹くために試そうとしたことは、ないですか?
いや、女だけじゃない、男だってそういうことはある。嫉妬して欲しい、そうして自分への関心を見せて欲しい。
子供が母親の気を引こうとするように、構ってもらうために、わざと相手が心地よくないことをするように。
愛されている自信が100%あるから、私はそんなズルいことはしないわ! と断言出来る人はご立派です。
私は、そんな自信など持てないし、恋人関係であっても常に不安と安らぎがシーソーの両端のように行ったりきたり揺れ動いている。人の心は目に見えないし、「愛」とか「恋」なんて形が無い物だから常に100%の自信なんて持てずに、いつまでも母を乞うる子供のように愛情の証明のようなものを求めている。
恋人からの愛情の証明を求めるが故に、その状況を作り、あげくの果てに思いがけず第3者である男に惹かれ、恋人ともう1人の男、どちらも離すことが出来ないK子は、確かにズルい女だ。
だけど大抵の男も女もズルい。私だってズルいことなどたくさんしてきたし、自分がK子の状況なら同じようになるかもしれない。
どうしてズルいことをするのか。どうして恋人の心を試すのか。
それは不安だから。愛されたいから。形の見えない「恋」とか「愛」とかに縋りつかずにいられないほど人間は弱い。時には大事な人を傷つけても愛されたくて試してしまうこともある。
愛されたいから、人は大事な人を傷つけるのかもしれない。
どこまで自分は許されるんだろう。
全て受け入れて許して欲しい。
愛されたい。許されたい。
弱いから自分を許す人に縋りつかずにはいられない。
愛されたい。愛されたい。
地獄の餓鬼のように愛を乞うている。
わたしは、弱い人間だから。1人では生きていけない弱い人間だから、愛を乞うてしまう。いじましいほどに。
しかしK子には思いがけぬ結末が待っていた。
Aは、「こんな女くれてやる」と、自分のプライドを守る為に去っていった。彼は彼女への愛情より、自分のプライドを守ったのだ。
太賀麻郎とのセックスを見て、彼女から別れを告げられる前に必死に「男のプライド」を守った。
男のプライドを守った筈のAには、哀れな印象しか残らない。そんな台詞を吐かずにはいられなかったAも、やはりK子と同様に、弱い人間だったのだ。
あなたがAの立場なら、どうしますか?
もしK子への訣別を決めたとしても、彼女が他の男に抱かれている現場を目の当たりにしても、もっと違う言葉は存在していたはずだ。だけどそういう極限状態で、一番に自分を守ることが大事な、彼の「本当のこと」が見えてしまった。
そして、それこそが、残酷な演出家・代々木忠の見たかったものなのだ。
AとK子が、一旦ヨリを戻しかけたけた時、そこで「恋人同士が元の鞘に納まることが出来ました、めでたしめでたし」で終わることも出来た筈だ。しかし代々木忠は、それを許さなかったのだ。
ここから書くことは、あくまで私の推測に過ぎないことをご承知下さい。
代々木忠は、本当は最初からこの恋人同士が抱える欺瞞に気付いていたはずだ。そして「太賀麻郎」という男にK子が心を奪われることも、もしかしたら読んでいたのかもしれない。彼が「太賀麻郎」という男優が、K子の言うとおり、驚くほどの純粋さを持ち、自分をガードせず、そのまま女の心に入り込むことの出来る男だと知っていたからこそ、それを読んでいたのではないか。
K子は太賀麻郎に惹かれながらも、恋人Aの心を惹きつけ自分の物にするという「最初の本来の目的」のために涙を流し抱きしめられるという状況を作り「成功」する。
それを代々木忠は許さなかったのではないか。
「麻郎、抱いちゃえ、抱いちゃえよ。それしかないよ」
ラストシーンで、代々木が太賀麻郎をそう言ってけしかけた時に、私はその指示に代々木の「怒り」すら感じたのだ。
いや、怒りを感じていたのは、私であり、ビデオを見る者達だ。
欺瞞を残しながら、恋人同士の再生という綺麗な物語に着地しようとするAとK子に、怒りを感じたのだ。
私が俺が、見たいものは、そんなもんじゃない。
その果てにある「本当のもの」が見たいのだ。お前達が目を逸らそうとしている「本当のもの」が見たいのだ。
例え滑稽な喜劇になろうと、救いようのない悲劇になろうと見たいのは、「本当のもの」だ。
作り事のハッピーエンドなんかはいらない。ズルい女と、自分だけを守りたい男の心がバラバラのハッピーエンドなんていらない。例え人間の心を、逃げ場が無いほど暴いて壊してしまっても嘘よりは本当のものが見たい。
そして、代々木の指示の通りに太賀麻郎がK子を抱き、感じてよがる姿と、「どっちがいいの?」と問われ「麻郎さん」という言葉を引き出し、それに逆上しながらもプライドを守ろうとした男の哀れさを画面に捉え、一組の「恋人同士」を崩壊させた物語は、一旦終わる。
そして、実はこの「物語」には後日談がある。作品が収録されているアテナ映像から発売されている「ATHENA CENTURY 4」に付いているブックレットによると、K子と太賀麻郎はその後、実際に同棲していたらしい。「AVという仕事」では済まなくなってしまったのだ。
そして太賀麻郎によると彼は1年後に偶然Aと会ったらしい。その時、Aはこう言ったそうだ。
「あの時はホント、どうかしてました。ご迷惑をおかけして。ハッキリ目が覚め、なんであんな女に入れ込んでたのか、今ではウソのようにスッキリしています」
Aは、やはり1年経っても自分のプライドを守り続けた。「あんな女」、彼女が悪いというふうに、自分の中に置き換えて。
1本のAVが、人の心をえぐり、私生活にまで入り込んでしまった。
なんて残酷な男なのだろうと思う、代々木忠という人は。
ビデオという枠を超えて「そこまでしなくていい」一線を越えずには居られないのだ。そしてそうしてまでも「本当のもの」が見たくてたまらないのだ、この人は。
アダルトビデオが「抜き」の用途だけならば、一組の恋人同士と、彼らと絡む男優、女優と、それぞれのセックスを見せて終わらせることも出来るであろう。だけど代々木が何十年も切望して求め続けているものは、その果てにある「本当のもの」なのだ。
セックスを描くことが許されるメディアである「アダルトビデオ」だからこそ描けるものがあるし、そこにしか描けないものが確かに存在する。
私は、それが見たい。
女である私が「アダルトビデオが好き」というと、大抵の人は驚く。中には、怪訝な顔をしたり、どうしたらいいのかわからないと困った表情を浮かべたり、時には理解できぬものを切り捨てるように嘲笑したりする人もいる。時折そのことに傷つくこともある。
映画の延長として見ているだけで、オナニーのアイテムとして見てるのではないと勝手に解釈してくれる奇特な人もいる。
「あなたにとって、アダルトビデオとは何ですか?」と、問われたならば、私はこう答える。
私を救ってくれているもの。
私という人間を否定しないもの。
そして、楽しくこの世を生きていくために必要不可欠な、オナニーアイテムだと。
代々木忠、1938年生まれ。
今も尚、「本当のもの」を探るために、現役AV監督として撮り続けている。
☆代々木忠ブログ「週刊代々木忠」
http://www.athenaeizou.com/shop/athena_diary/(本日更新内容もシビれるねぇ!)
☆東良美季「毎日jobjog日誌」より、太賀麻郎物語―放蕩息子の帰還―
http://jogjob.exblog.jp/10967552/
☆太賀麻郎ファンブログ「今夜も手放し運転」
http://blog.livedoor.jp/tebanashi_unten/
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こちらのブログは、管理人のハルミさん&菊乃さんによる「愛あるツッコミ」が素晴らしく、正しい在り方のファンブログです。必見。
波乱万丈な人生を送りながら、2人の娘を抱えるシングルファーザー太賀麻郎氏も、未だに現役で活躍し、「心のあるセックス」を見せてくれている。