愛を乞う人 〜「YOYOCHU SEXと代々木忠の世界」について、その2


 戦国時代、名も無き小兵達の中には、戦場に向かう折に懐に男女の絡みの絵、すなわち春画を潜ませていた者も居たという。死と隣り合わせの日々の中で、戦に勝ち生きて帰って来よう、そしてまた女に触れよう、妻を、愛おしい女をこの手に抱く為に死んでたまるかと生への渇望を掻き立てるために、その絵を見ていたのだという。戦に勝ち帰ってきて女を抱く為に――故にその絵は「勝絵」と呼ばれていた。

 裸の世界を渇望する人間達がいる。裸の世界でしか生きていけない人間がいる。そこにしか辿り着けない人間が。例えば私もそうだ。アダルトビデオを知らない自分の人生なんて考えられない。けれどもそこは後ろめたく指をさされもする世界で生き辛さと隣り合わせだ。生き辛いけれどそこに辿り着かざるを得なかった人間というのは過剰なのだ。自分の内なる過剰な渇望を抑えきれず、その世界に手繰り寄せられてきたのだ。

 AVを購入して見る人間の殆どは純粋に自慰目的であろう。自慰こそがAVの本来の存在意義なのだから。けれどそれ以上のことを知りたがる、裸で映る女達の姿だけではないものを見たがる人間もいるの、私のように。

 私はAVを見る時、勿論自慰はするけれど、「何故、あなた達はここにいるのか」と思わずにはいられない。そして女優だけではなく男優、監督、関わる人達がそこにいる「理由」を知りたくなる。どうしてそこにいるのか、あなたならばもっと違う傷つかない賢い生き方があるのじゃないか、デメリットの大きい「セックスを売る」という職業を敢えて何故選択したのかと問うてしまう。
 それは要するに自分自身への問いかけに他ならない。私は何故、アダルトビデオに関わる人達に惹かれるのだろう、オナニーツールとして以上の物にこだわるのだろう、と。



 映画「YOYOCHU SEXと代々木忠の世界」の主役である代々木忠は北九州で生まれ、華道家、極道を経て72歳の現在も現役のAV監督である。半生を裸の、セックスの世界で生きて衝撃的な作品を創り続けてきた。

 本作の監督は、石岡正人。明治大学政治経済学部卒業。84年から約6年間アテナ映像の社員として助監督、制作担当で代々木監督等の制作現場に付く。89年5月廣木隆一監督、冨岡忠文監督と制作会社ヘブンを起ち上げ、95年5月には自身の制作会社ゴールド・ビューを設立。以後、映像製作や日本映画の海外セールスを行う。08年4月より京都精華大学マンガ学部アニメーション学科の客員教授も務める。

 石岡正人は監督作『PAIN』(ヴェネチア国際映画祭批評家週間招待/日本映画監督協会新人賞/オポルト国際映画祭審査員賞、そして『TOKYO NOIR』(熊澤尚人と共同監督)で、「性を売る世界に迷いこんできた女達」の姿を描いた。どこにでもいるごくごく普通の女達が何らかのきっかけで自身の乾きに気付き、その渇き故に性の世界に迷い込んで身体を売ることを選択してしまう。自らの乾きの深遠を覗きこもうと身を乗り出すように。
 その乾きはどこか悲しい。悲しいけれど悲劇では無い。何故なら石岡作品で描かれる女達の選択は再生の物語だからだ。砂漠に咲いた一輪の花のように、すっくとしなやかに生きていく。
 そこには自らが性を売る世界に生き続け目の当たりにしてきた石岡監督自身の、裸の世界に手繰り寄せられてきた女達への、やるせない想いと希望が籠められているのではないか。

 
 見知らぬ、さっき会った男に、金を貰いセックスをする。
 大勢のスタッフ前でカメラの前で裸になりセックスをする。
 
 決してそれは褒められることではない。褒められることではないどころが失うものが多い。平気だ割り切れると断言できる人もいるだろうが、あなたの恋人や姉妹の性器が不特定多数の人間に容易く見られることが平気だと、他の男が彼女の体内に性器を挿入して肌を合わすことが平気だと、どれだけの人が心の底から大声で言い切れるだろうか。


 身を売り遊女になることを昔は「苦界に身を沈める」という表現をも使われた。確かにそこは苦界なのかもしれない。地獄なのかもしれない。けれど人は地獄が好きで、極楽は地獄と隣り合わせなのだ。堕ちなければ知らないものが、堕ちたからこそ救われるものが必ずある。堕ちなければわからない「幸せ」がある。


 私は代々木忠という人に会うことがずっと怖くて一生会えないと思っていた。例えば他のAVの撮影現場に行くことは出来ても代々木作品の撮影現場には恐ろしくて近寄れないと。「心まで裸になれ」それがこの映画のキャッチコピーでもあるが、それはとても怖いことじゃないか。裸になることは何も隠せないということだ。我々は心を幾重かの衣を纏うことで人から社会からガードして守って正気を保っている。それが例えば嘘でも偽善でも身を守る為の衣が無いと生きていけない人間が殆どなのだから。


 映画は様々な人物の証言で綴られる。
 笑福亭鶴瓶槇村さとる和田秀樹藤本由香里加藤鷹愛染恭子村西とおる高橋がなり・太賀麻郎・本橋信宏・栗原早記・柏木みな・南智子・市原克也・平本一穂・佐川銀次・鈴木一徹、そして代々木自身の妻と娘・・・多くの人達により、「代々木忠」、彼が生きてきたこの世界が語られる。

 石岡正人監督は女の乾きと渇望を描いてきたが、本作ではそれを「撮る」側、つまりは娼婦ではなく女衒――代々木の言葉を借りるならば、女の股座で飯を食う――をドキュメンタリーという形で追い続けて本作を完成させた。
 
 「愛を問う、魂のカメラ」これも映画のキャッチコピーではあるが、私は代々木忠が愛を問うていると考えたことはない。
 愛を問うてはいない、ただひたすら愛を乞うているのだ、誰よりも渇望し飢えているのだ。
 時には泣き叫び、甘える赤子のように必死に愛を乞うている。自分を包み込む暖かさと全てを受け入れ許す母の愛を。
 不条理な世の中で修羅の道を生きぬくために、怒りを力にしセックスを媒体にして愛を乞う代々木忠のもとには、代々木と同じく生き辛さを抱え、身体が張り裂けそうな渇望を持て余す人間達が代々木忠という太陽に引き寄せられるように集う。

 心が枯れて朽ちてしまいそうな飢えと乾きを、女を、セックスを撮ることで潤そうと乞うている代々木も、そこに集う者も孤独である。孤独だから求めずにはいられない。肌を合わせることで見えてくるものを探さずにはいられない。

 人肌は優しい。拒まず抱きしめられて、肯定されたい。お前は悪くないんだよと言って欲しい。お前は間違ってないんだよと、生まれてきて良かったんだよと言って欲しい。愛してると言って欲しい。言葉だけではなく全身で存在そのもので受け入れて欲しい。この世に生を受けたことを許して欲しい。身を纏う自分を守る衣を全て剥がしたままでも受け入れて欲しい。
 

 私を許して欲しい。

 抱きしめて欲しい。


 私を拒まないで欲しい、否定しないで欲しい、責めないで欲しい。例えば私が間違っていても、私が生きていることを貶めないで欲しい。私は私を守る為に傷つけられない為に鎧を着て剣を手にする。そうしないと生きていけないから。弱い人間だからそうして身を守り戦わなければいけなかったのだ。それは悲しいことなのかもしれないし、私の孤独を嘲笑する人間もいる。

 だからこそ、乞うているのだ。乞うているからこそ引き寄せられたのだ――誰よりも愛を乞う人「代々木忠」に。


 たかがアダルトビデオ、たかがセックス。
 男の欲望の為に存在するメディア。
 勃起させる為に、射精する為の存在。

 そうやって侮蔑し目を背ける人間も少なくないだろう。
 けれど孤独と過剰な渇望故に、その世界を切実に乞うて、そこでしか生きられない者達と、救われた人間の姿と歴史の物語が、未だにカメラを担ぎ撮り続ける代々木忠という人間を中心にして描かれる。


 代々木忠の人生は、あなたに何を語りかけるのか。

 
 この世で最も刺激的で猥雑で淫らな映像を撮り続ける男の波乱万丈な人生が一つの物語となりスクリーンに映し出される。
 
 愛してくれと喉が張り裂けんばかりに叫び続ける人間の、姿が。



 映画『YOYOCHU SEXと代々木忠の世界』公式サイト