おもしろきこともなき世を おもしろく ― 長州を歩く ― (前編)


 雪が舞っていた。静かで、厳かな雪が。

 「明治維新胎動の地」

 と、書かれた碑は鳥居をくぐるとすぐ左手に聳えていた。想像していた以上に大きく悠然と佇むその碑が、この土地の全てを言い表している。

 日本海に面した、本州で一番西にあるこの土地に、ある時期に生まれた男達が暴れ蠢き、一つの国を大きく変えた。あの時期の長州藩は、異常である。「異常」という言葉を使うのに違和感を覚える人もいるだろう。しかし、「異常」という表現が一番相応しいように思える。あるいは、その「明治維新胎動の地」に祀られる吉田松陰が好んで使った「狂」という言葉の方が相応しいだろうか。

 あの時期の長州藩は、異常である。「狂」である。あれほどの人材が生まれ出でて若くして国を動かし、そして泰平の眠りを黒船によって覚まされた日本という国が一度死に、生まれ変わっていったのは、この長州藩という藩の存在を無くしては語れない。

 山口県に入ると、道端のガードレールの色が橙色なのに気付く人も多いだろう。明治維新後に士族達の経済的困窮救済の為に萩を中心に始められたのが、夏みかんの栽培である。この季節でも萩市内に入るとあちこちで橙色の大きな実をたわわに実らせる木を見かけることができる。その夏みかんにちなみ、山口県のガードレールは夏みかんの色に塗られている。
 天気予報通り萩は雪が舞っていた。街に降り立ち、レンタサイクル屋を探しに駅の方まで歩く。「今日は寒いから自転車なんて風邪ひくよ」と、バスの運転手に言われたけれど、幸いにも私はもっともっと雪深い国の生まれで、積もらない程度の雪なら苦にならない。夜行バスの運転手は、私の職業を知ると「勉強して、萩を楽しんできてね」と、降りる時に声をかけてくれた。
 自転車を借りると、レンタサイクル店のおじさんが「荷物はそこの観光案内所に預けると宿の人が取りにきてくれるよ」と教えてくれる。大きな荷物を預け、地図を手に自転車に乗る。雪は、降ったりやんだりを繰り返す。これぐらいなら大丈夫だと、私は自転車に乗った。

 長州藩という藩について、簡単に述べる。
 慶長5(1600)年の関ケ原の戦いは、東軍・徳川家康、西軍・石田三成との戦いだということは知られているが、実は西軍の名目上の大将は豊臣家五大老の一人である毛利輝元であった。関ケ原の戦いの敗戦により、それまで中国地方のほとんどを治めていた毛利家は減封され、周防、長門の二国だけを領地とされ、日本海に面した山に囲まれた鄙びた萩という土地に築城する事を幕府に命じられた。
 初めて訪れた萩は、想像以上に静かで鄙びた街だった。この街から、どうしてあの時期、あれほどの人物達が現れ、この国を再生させたのだろうか、そのエネルギーは何なのであろうか。その正体が知りたい、感じたいと切望していた。だから、私は、ここに来た。

 あの時期の長州の「力」の根本は、関ケ原からの怨恨が江戸時代三百年で静かに蓄積し、そのマグマが幕末に噴出したのだという人もいる。
 それは否定はしないけれど、私はあの時期の長州藩の「異常さ」は、それだけでは治まりきれないものだと思っている。もっと、何か、人智の知らざる何かが働いたのではないか。この国のために、大きな力が働きこの地にあれほどのエネルギーを持つ男達と、彼らに道を指し示し「身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と辞世の句を残し、三十歳でこの世から去った吉田松陰という傑物を生み出したのではないか、と。
 そう思わずには居られないのだ。
 あの時期の長州藩から現れた傑物達のことを知れば知るほど、「異常」だとしか思えない。
 その「異常」な土地に行ってみたかった。知ることや、解ることは出来ずとも、何か感じることは出来ないかと、思い続けていた。

 土地と言うのは生き物である。それぞれの性格があり、歴史がある。だからその土地に触れ、「感じる」ことで目の前が開けることが多々ある。その度に感動する。生命に触れ感動する。初めて関ケ原を見た時、賤ヶ岳に登った時、小谷城跡を見た時、彦根城天守閣に登った時、西郷隆盛の墓に詣でた時、真田幸村が絶命した安居神社へ行った時、鶴岡八幡宮へ行った時、歴史が蠢いた場所に触れる度に、その土地で生まれた人の鼓動、起こった出来事を肌に感じ身震いする。

 だから私は、長州へ向かった。
 日本の歴史の中で、ある時期最も「異常」な土地であった長州藩へ。触れて感じる為に、この国の胎動を。


 まず、松陰神社へ向かい、鳥居をくぐり自転車を置くと左手に「明治維新胎動の地」の碑があった。筆は山口県出身でノーベル平和賞受賞者でもある元首相・佐藤栄作による。この言葉ほど、この地に相応しい言葉は無い。神社の境内を歩き奥へ行くと、小さな木造茅葺の平屋建ての建物がある。ここが松下村塾である。
 この小さな私塾で、吉田松陰がわずか二年少々の期間に身分を問わず無償で志ある者達の師となり、幕末の傑物達、久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿入江九一伊藤博文(初代総理大臣)、山縣有朋(総理大臣)、前原一誠品川弥二郎(内務大臣等)、山田顕義(司法大臣、日本大学国学院大学設立)、野村靖(内務大臣等)、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎らが学んだ。また明治の元老・木戸孝允桂小五郎)も松下村塾の塾生ではないものの明倫館で松陰に学んだ一人である。

 雪が降る。こんな小さな静かな場所で、あの時期に、どれほど滾った熱い血を持て余す若き男達が、吉田松陰という人物の元に集い、どんなことを語り合っていたのだろう。松下村塾の奥には、松陰を祀る松陰神社があり、今日本に存在する「政治家」という肩書きを持つ多くの人々よりずっと若くして「志誠」を説き、30歳の若さで亡くなった人物に私は手を合わせた。
 
 松陰神社の脇の道を少し進み、右手に逸れると松下村塾の塾生であり初代総理大臣となった伊藤博文の別宅がある。元は農家、後には足軽という身分の低い家の生まれである伊藤は、松下村塾に学び、高杉晋作井上聞多(後の外務大臣井上馨)らと共に倒幕運動に身を通じ、初代総理大臣となり、アジア初の立憲体制の生みの親となる。夏目漱石以前は、千円札の「顔」でもあった。後にハルピンで暗殺される。

 そこより奥に行くと、山なりに坂道となり、自転車に乗るのがきつくなり、降りて歩く。右手に景色が広がり、目の前に幾つかの墓が並んでいる。振り向けば萩の町が眺望できる。この萩を見下ろす山肌に並んでいる墓の中に、吉田松陰の墓があった。
 「松陰二十一回猛士の墓」と刻まれている。近くには松陰の妹を娶り、松陰に長州藩一の俊才と唄われながらも蛤御門の変で破れわずか二十五歳で自刃した久坂玄瑞の墓もある。
 松陰の墓から見下ろす萩の街は、やはり音のしない静か過ぎるぐらいの街だった。どうして、こんな静かな街から明治という時代の胎動が始まったのか、静けさを目の当たりにする度に、どうして、どうしてという疑問符ばかりが心に浮かぶ。
 松陰の墓から、毛利家の菩提寺である東光寺へ。三門から参道が続き、奥には毛利家の藩主達の墓碑が立ち並ぶ。境内には私以外には、背広を着た男性の二人組しかいなかった。

 途中で松陰や晋作が捕われていた野山獄の跡を見て、城下町へ向かう。高杉晋作生誕地、木戸孝允旧宅などを見た後、萩資料館へ入り、萩の町について、松下村塾について、様々な話を伺う。そして、毛利氏が徳川幕府により命ぜられ築城した指月城こと萩城の跡へ。城の建物自体は明治初期に解体され公園となっている。自転車で公園内に入ることが出来るので、足を進め、天守閣の跡へ行きベンチに腰掛ける。

 雪が落ち、建物も在らず、人も居ない公園に佇むと、音が聞こえた。木立で阻まれ見えないけれど、この城の向こうには海がある。静寂な城下町と雪景色に逆らうような激しい波の音が聞こえる。

 この街で「今」耳にした唯一の熱く、激しい物がその波の音だった。日本の端に追いやられた毛利の武士達がかつて常に聞いていたであろう、波の音。何にぶつかり、何に怒り、こんなにも激しい音をたてるのだろうか。どうしてこんなにも怒り、熱を発していたのだろうか、この長州という土地は。
 静かな城跡に、生きることに飢えた捕われた獣が吠えるかの如く切々と激しい波音が鳴り響いていた。

 海岸線を自転車で走ると、雪が雨に変わり始めた。自転車を返して、松下村塾の近くにある宿へ向かった。

 この街に生まれ、まさに「雷電、風雨」の如く明治維新を駆け抜けた多くの魂を鎮めるかのように、雪は降り積もっていった。
 

新装版 世に棲む日日 (1) (文春文庫)

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