すみなすものは 心なりけり ― 長州を歩く― (後編)
「吉田へ」
誰よりも熱く誰よりも醒めていた快男児・高杉晋作のあまりにも太く短い生涯が終わりを告げる際に、彼はそう言い残したという。「吉田へ」という言葉が、師の吉田松陰の元へという意味なのか、奇兵隊の本営であった下関市吉田清水山のことなのかわからなかったが、結局後の説がとられたという。
享年27歳。
師の吉田松陰の死より9年後のことだった。この半年後に最後の将軍徳川慶喜により朝廷へ政権が返され、永きにわたる武士の世は終わる。同じ年に、京都近江屋で坂本竜馬は中岡慎太郎と共に凶刃に倒れる。武士の世は、終焉した。新しい世界を創る為に猛烈な勢いで駆け抜けていった男は、幕府が倒れる瞬間に立ち会う前に、肺結核にてその生涯を終える。
萩の宿の窓を開けると、雪がうっすらと積もっていた。私は宿を後にして駅に向かうが、電車は雪と強風の為に遅れていた。30分ほど待ち、なんとか電車に乗り込む。一両しか無い車両から外を眺めると夏みかんに雪がかかる光景が遠のいていった。乗り換えをして、下関市の小月という駅に降り立った。雪は気まぐれに降ったりやんだりを繰り返す。小月駅から東行庵へ行くバスの便は少なく、やむ終えずタクシーを使う。
高杉晋作には防長一の美人と言われた「まさ」という妻がいたが、結婚してからも晋作は帆走し続けほとんど家には戻らなかった。そして妻ではない一人の女が晋作に寄り添い、共に疾風怒濤の日々を過ごしている。もともとは馬関の芸者だった「おうの」という女性である。晋作亡き跡、おうのは髪を下ろし、「梅処尼」と名乗り晋作の墓を守り、傍に眠っている。
西へ行く人を慕いて東行く 我心をば神や知るらん
晋作の号は「東行」という。「西へ行く人」とは平安時代の流浪の歌人・西行法師のことである。歌を愛した晋作は西行のように流離い歌い、更には酒と女を愛す生き方がしたかったのに違いない。しかし、時代がそうさせなかった。時代が、だけではない。師の吉田松陰が残した志と、生まれ持った熱い血潮が彼を世捨て人にはさせなかった。
雪は静かな山に降り注ぐ。奇兵隊の志士達が眠る山に。私が今回の旅で、一番見たかったものは、すぐにわかった。高杉晋作の墓の側に建てられた松下村塾の同志であり、初代総理大臣でもある伊藤博文の碑による顕彰碑がここに聳える。
「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや」
雷電・風雨の如く高杉晋作に、周りは驚いて正視することが出来なかったと。
解釈によってはものすごい言われ方であるが、そこまで「動く」男だったのだろう。吉田松陰は、「学者になってはいけない、人は行動だ」と説いた。その言葉の通り、晋作は短すぎる人生を行動し続けた。
そしてその顕彰碑の言葉には、共に戦い青春を過ごした同志達を次々に失っていった残された者達の哀感の意も篭められている。残された者達は、新しい日本の中で政治家となった。二十代で亡くなった晋作や久坂玄瑞の写真は青年のままである。時の止まったままの、彼らの姿を見て、残された老いる者達は何を思うたか。しかし、その晋作の若き死を惜しんだ伊藤にも凶弾に倒れる運命が待ち受けていた。
高杉晋作の小さな墓には、ただ「東行墓」とだけ書かれていた。(写真)誰かの備えた花束と、ワンカップの日本酒が置かれている。
京都の霊山護国神社に坂本龍馬の墓がある。京都という場所柄のせいか訪れる人も多く、その墓へ向かう参道には、龍馬を慕う人達からのメッセージが書かれた瓦が並ぶ。龍馬の墓からは京都の都が見下ろせる。すぐ手前には八坂法観寺の五重塔が見え、遠くには賑やかな繁華街も見える。
晋作の墓には、そういう華やかさはない。静かで、ひっそりと、それでいて凛と佇んでいる。
「三千世界の烏を殺し ぬしと朝寝がしてみたい」
と、いう都都逸は、晋作が「おうの」に向けて作ったと言われている。自らの短い生涯を知ってか知らずか、滾る血潮に逆らわれず「雷電」「風雨」の如く走りつづけていた男が、女を抱き、つかのまの寝物語の合間に口ずさんだ唄なのだろうか。
男には、女が必要だ。女が男を必要とするよりも、ずっと男には女が必要だと、「英雄」達の生涯を辿る旅に思う。本物の男、戦う男、人を、生きることを愛する男は、孤独を抱えている。強く生きようとする男程、孤独から逃れられることが出来ない。だから、女が必要なのだと、女の柔らかく温かい肌が必要なのだと、もの凄い勢いで生きた英傑達の生涯を辿る度に、そう思う。
晋作、おうの、奇兵隊の志士達の墓に手を合わせた後、東行庵を訪ねる。「東行庵」と描かれた萩焼の湯呑と、東行の詩集などを買う。昼を過ぎたので道を隔てた向かいにある小さな食堂で蕎麦を頼むと、客は私だけだった。お店の人に聞くと、やはり今は特に訪れる人の少ない時期だそうだ。
「ここはね、紅葉が綺麗なんです。見事ですよ」
と、お店の方がおっしゃった。
いつになるかわからないけれど、絶対にもう一度、紅葉を見にここにまた来よう。
そのときは私は、どういう人間になり、どういう生活を送っているだろうか。今よりは強くマシな人間になっているだろうか。
東行庵から小月駅への帰りはバスに乗る。一日に4、5本しかないバスの最終便に乗る。そしてまた電車に揺られ、山口市へと向かった。
次に降り立った駅は、四辻という駅である。コインロッカーも無い小さな無人駅だった。目的地まではバスも無いので、駅前に止まっていたタクシーで「大村益次郎の墓へ」と、告げた。
東京の靖国神社にある銅像の人物・大村益次郎のことを、人はどれだけ知っているのだろうか。大村益次郎(村田蔵六)は、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛達のような華やかさや派手さはない。司馬遼太郎は、彼を主人公に「花神」という小説を書いた。「花神」とは、中国の言葉で「花咲か爺」のことであるという。
まさに、大村益次郎は「花神」であった。新しい日本のために花を咲かせた花咲か爺は、自らの信のままに生きた故に、45歳の若さで凶刃に倒れる。
「りっぱな石造物でありながらしらじらしく、風に晒されて立っており、その墓の前にたたずむと、果たして蔵六という男がこの世に実在したのかどうか疑わしくなるといったふうの奇妙な感動におそわれた。蔵六はいかにも蔵六らしく本物の無に帰してしまっているという感じだった」
妻と並ぶ蔵六の墓に手を合わせた後、道を下り、蔵六を祭る大村神社へ参る。その隣にあるのが、資料館である。この地区の名を鋳銭司(すぜんじ)という。平安時代の造幣局があったのでこの名がついたそうだ。こちらの鋳銭司郷土資料館の中は二手に別れていて、一方で大村益次郎が、一方で貨幣関係の資料が展示されている。私以外は誰もいなかった。大きな荷物を持っていたのを見かねて、「預かりますよ」と声をかけてくださった。資料館には靖国神社にある銅像の二分の一の複製がある。
「花神」については、次回に少し触れたい。
ここもバスは少ないので、帰りは駅まで歩くことにする。線路沿いの道をまっすぐ歩く。少し風がキツくなり雪が顔に当たる。こんな雪の中を歩くのはいつぶりだろう。駅に着くとちょうど一時間に1本しかない電車が来ていたので、慌てて走る。電車が待ってくれたので、なんとか乗り込んだ。
帰りの夜行バスは、防府から乗ることにしていた。せっかくなので、種田山頭火の生まれた街を訪れたかったからだ。防府に着いた頃にはもう日は落ちていた。地図を見ながら、生家を探す。
わけいっても わけいっても 青い山
まっすぐな道で さみしい
数年前、不本意に京都を離れ実家に帰って生活していた時に、車で雪の深い何もない田舎を走る度に、心に浮かんだのが山頭火の句だった。真っ直ぐな農道を走る。山に囲まれた雪深い土地。この場所から一生逃れられないのか、どうしてここに帰ってきてしまったんだろう。私にとっては山の青垣が牢獄の鉄格子にも見え、まっすぐな道が絞首台への道にも思えた。雪が積もると道が閉ざされどこにも行けない。その頃は、降り積もる雪を見ると、重い気分になった。どこにも行けない。一生、この閉ざされた土地で、人を羨望しながら、過去に苦しめられながら、こんなはずじゃなかったと世界と我が身を呪いながら老いて死んでいくのか、と。田舎の工場で小さな電子部品の検査という単調な仕事、家と工場の往復だけの生活の中で若くも美しくもなく学歴も特別な能力もなく金もない女は這いつくばって生きていた。まだ、そんな遠くない昔の話。
うまれた家はあとかたもないほうたる
と、詠まれた山頭火の生家跡は、道沿いにふいに現れた。その句のとおり、家はもうない。石碑があるだけだ。この生家で山頭火9歳の時に母が井戸に身を投げ死んだ。父の放蕩が原因だった。その父も、そして弟も後に自ら命を絶ち、山頭火自身も鉄道自殺を図る。
もうすっかり辺りは暗くなっている中、山頭火の墓を探す。護国寺という小さな寺の境内の中に、それはあった。
鴉啼いてわたしも一人
夜の墓場を出て、防府天満宮へ向かう。雪が激しくなるなか、階段を上る。
わたしはどこを歩いているのか。
どこへ行くのか。
知らない街を歩くのが好きだ。
ずっと歩けたらいいのにと願う。
できたらもっと旅がしたい。
知らない街を、一度来た街を。
知らない街を歩くのは独りの方がいい。
独りじゃないと見えないものはたくさんあるから。
だけど私の好きな街を歩くのは、好きな人と一緒がいい。
見せてあげたいから。
わたしはこれからどこへいくのだろうか。
まっすぐな、さみしい道を、どこへ、どこへ。
雪は降り続く。この2日間は、特に寒いのだと長州の人達が言っていた。京都から季節はずれに1人でやってきた女に誰も優しく親切だった。
私は歩く、彼らが走り続けた場所を。歩いて歩いて果ての無い旅路を。
歴史が面白いのは、それが壮大なる物語であるからだ。司馬遼太郎が「歴史小説というのは、男の魅力を描くものだ」と書いている。
歴史上最大の変革期を駆け抜けた男達の墓に参り、その静かな眠りを聴き、何か感じるものがあったかと問われれば、わからないと答えるしかない。
わからないけれど、これほどまでに多くの後世の人々の心を魅了してやまない男達の眠る場所の静寂さに触れて涙が落ちた。どうして泣くのか、いつもわからない。泣くために遥々と来たのかもしれない。
司馬遼太郎が吉田松陰、高杉晋作らを描いた「世に棲む日日」という小説のタイトルは、晋作の辞世の句と言われる歌からつけられたという。上の句を晋作が書いたが、力尽きて筆を落としてしまい、下の句を野村望東尼が書き足したと伝えられている。
おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなすものは 心なりけり
長州の夜は暮れる。雪が墜ち肩に顔に降り注ぐ。
都へ、帰ろうか。
わたしの住む、わたしの好きな街へ。一つの国を燃え尽きさせ時代を終わらせた彼らの想いの片鱗を手土産に、都へ帰ろうぞ。
西へ行く人を慕いて、東へ。
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