おれのおんな
司馬遼太郎が大村益次郎(村田蔵六)を描いた「花神」という小説について、本筋から離れたところで少しだけ触れたい。
「花神」の冒頭に、司馬遼太郎と大阪大学教授・藤野恒三郎教授との会話の中で、藤野教授がこう言っている場面がある。
そして、藤野教授はもう一度、自問自答するように、こう言う。
「私は、恋だったと思います」
村田蔵六の似顔絵を見ると、額が広く眉が太く間違っても男前ではない。しかも無口で、とびきり無愛想だったと伝えられている。
「シーボルトの娘」というのは、長崎出島で鳴滝塾を開き高野長英らの師でもあったドイツ人医師・シーボルトと日本女性との娘・楠本イネのことである。イネは蔵六にオランダ語を学び、後に日本人で初めての西洋医学を学んだ産科医となった。
イネは生涯独身だったが、娘がいた。この娘は、医学の師であった石井宗謙に無理やり一度だけ犯され不本意に孕んだ時に生まれた子供である。イネは生涯、その男を憎んでいたということはイネの娘・高子自身が語っているので、事実なのであろう。
このイネがオランダ語を学んだのが、村田蔵六である。
蔵六には、「琴」という妻が居た。今も故郷には、蔵六の墓と妻「琴」の墓が並んでいる。
「花神」には、蔵六とイネの「恋」が描かれている。イネは蔵六に対し、こう想い、祈っている。
(わたしのひとり決めではあっても、私がこの人の妻であることは間違いない。この人が私をどう思っているかは、そのこととは関係ない)
蔵六がイネと「いっぴきの男としてベッドの中にいる」時、蔵六は、こう言う。
「そなたと・・・こうしている時、いつも自分の一生というものを感ずる」
村田蔵六は45歳で京都・木屋町で刺客に襲われ傷を負い、大阪仮病院に運ばれた。余談だが、この時に担架を担いだのが後の日露戦争で野戦軍の総参謀長になる児玉源太郎と、陸軍大臣を務めた寺内正毅であった。そしてこの時の京都府知事は、長州藩士であった槇村正直であり、この凶報を聞いて青くなって駆けつけた。
前回書いた「京都の小学校の在り方」と深く関係するのが桂小五郎(木戸孝允)というバックボーンを持った、この京都府二代目知事・槇村正直である。三代目知事・北垣国道と共に江戸遷都後の京都を救ったとも言われる槇村については、また後日。ついでに脱線すると、三代目知事・北垣国道は但馬国出身であるが、長州藩に逃れていたこともあった。(江戸遷都後のこの二人の知事の功績の話、とても面白いです)
蔵六が襲われた報を聞いたイネは横浜から昼夜兼行で駆けつけて、それから五十余日蔵六が亡くなるまで寝食を忘れて看病した。(何故か妻の琴は遂に来なかった)イネが蔵六の元に駆けつけた場面が「花神」ではこう書かれている。
蔵六は生涯でこの瞬間ほど嬉しかったことはない。(中略)しかしながら、蔵六はこの時イネを、
「このイネこそが、おれのおんなだ」
と、思ったに違いない。
この時期には、今私達が使う「愛」という言葉は無い。「愛してる」と、人は言わない。その言葉は日本には当時無かった。
だから司馬遼太郎は無骨な村田蔵六の、声には出せぬ胸に抱いていた心の叫びを「おれのおんな」という言葉で表現したのだろう。このイネこそが、おれのおんなだ、と。
この言葉だけでも、蔵六の生涯はイネという女の存在により、幸福だったのだと思うことが出来る。若くして凶刃に倒れた「花神」の生涯は、恋という花で美しく彩られていたのだと。
いとおしい。
誰よりもいとおしい。誰にも渡したくない。離したくない、あなたのことを。あなただけを想う。おまえは俺のものだと言われたい。俺はおまえのものだと言われたい。おれのおんなと言われたい。あなたへの想いが全身を血の如くめぐり、からだが熱い。おまえのためなら、なんだってできる。おまえはおれのものだと言われたい。俺はおまえのものだ、あなたは私のおとこだ。おまえはおれのおんなだ。誰よりもいとおしい。おれは、おまえの一部であり、おまえはおれの一部だ。
おれのおんなだ。
わたしのおとこだ。
あなたの、僕。
私の、あなた。
だから離れられない。
いとおしい。
明治の新しい日本に「花」を咲かせた花咲爺を描いた「花神」という小説の、もうひとつの花は、この「恋」の話である。
「愛してる」という言葉がまだ存在しない頃の、男と女の恋の話。
おまえは、おれのおんなだ。
あなたは、わたしのおとこ。