生きよ堕ちよ ―「鬼ゆり峠」 団鬼六―


 この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば
 あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。
 あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、
 残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなりー

            ― 「曽根崎心中」道行  近松門左衛門



 現代日本の中で最も美しい文章を書く作家の一人である団鬼六(敬称略)の「鬼ゆり峠」が上下巻で幻冬舎より文庫にて、ようやく発売された。どうして今まで文庫化されなかったのか不思議であるが、この「鬼ゆり峠」が再び世に出て本屋に並んでいることに驚喜した。
 「鬼ゆり峠」こそ、団鬼六の最高傑作だと思う。


 頃は江戸時代か。馬籠峠の一軒宿からこの残虐で美しい物語は始まる。武士とその息子が老婆の営む茶屋に泊まり、昔、この「鬼ゆり峠」と呼ばれる付近であった仇討ち事件の話が老婆の口から語られる。

 父の敵を仇討つ為に、絶世の美女でありながら剣術の名人でもある人妻・浪路とその弟の菊之助がこの地を訪れる。卑怯なやくざ達の手にかかり、姉弟は父の仇らの手により裸にされ、嬲られ、弄ばれる。そして悪党達は菊之助の陰茎と、浪路の陰核を切り取り焼酎漬けにするという残虐な処刑を目論むという物語である。

 浪路の夫は、事故により性的不能者である。そして幸か不幸か、浪路の身体には、夫に言えぬ「秘密」があった。浪路はその「秘密」を自分に遣える女中・千津に告白する。浪路の「秘密」とは、やがて抉り取られ焼酎漬けにされるその陰核であった。常人を遥かに凌ぐ大きさを持ち、そこに触れると「五色の雲に上に乗っかっていくような不思議な恍惚感を覚え」「淫らな奇想と連想が相次ぎ、完全に自分を失ってしまう」その部分。

 それを浪路は、「自分の中の悪魔」と恐れていた。


 浪路と菊之助はそれぞれあらんかぎりの方法で弄ばれる。全裸にされ開脚され、性器を曝されやくざ達の前で愛撫され狂態を示す。
 縛られ、言葉で嬲られ、満座で股を開かされ放尿させられる浪路。「よ、それでも手前、武士の妻かよ。少しは恥を知ったらどうだ」と嘲笑される中、号泣し放水する場面の迫力は身震いがする。団鬼六の「女嬲り」の描写は執拗だ。その満座での放尿に至るまでに延々と尿意を我慢し悶える様子が描かれるのである。

 浪路は女中の千津と「千鳥」レズビアンの関係になることを強制され、お互いが「相嘗め」それぞれの性器を口で愛撫する。関係を強制され、千津は自分が主人の浪路を愛していることに気付くのである。憎い男達の目前でありながら、浪路に性器を吸われ、喜びと快楽に失神する千津。

 尻の穴に麻糸を通され、遂には男の陰茎を咥え込み、見世物女郎の芸を覚えさせるという名目で性器で竹輪を咥え切る芸当を覚える浪路と、男達に尻の穴を、やくざの女達に陰茎を弄ばれ射精させられる菊之助の美しき姉弟の「地獄」が延々と描かれる。
 そしてあろうことか、この姉と弟は皆の前で「人間以下の家畜」に落とされるのである。ただ、絡み合うだけではなく、姉が弟の性器を咥え、弟は姉の尻の穴に挿入させられる。


 地獄へ。


 そしてやがて切り落とされる浪路の「悪魔」の部分は、糸で吊られ、絵筆の穂先を使い「切り落としやすいように大きく」する為に撫でられ、浪路は狂態をしめす。


 ああ、何という切ない感触、何という妖しい心地よさ、もはや口惜しさも憎しみも喪失させて(中略)「もっと、もっと、浪路に羞ずかしい思いを味あわせて下さいませっ」(中略)「浪路を、このように狂わせる魔性の源を、どうか、えぐり取ってくださいましっ」(本文より引用)

 この世の名残、世も名残。


 「鬼ゆり峠」の中で、他の団鬼六作品と比較して際立って官能的に描かれており感動するのが、浪路と千津との関係である。女主人の身体も心も身が痺れる程に愛し、強制され笑い物にされながら、男達の前で浪路と絡み合うことで狂おしいほどの喜びを覚える千津は、次第にその恋心を隠しきれなくなる。浪路の尿を始末すれば、口も吸い、浪路が処刑される別れ際には、自ずからこの世の名残と、浪路の股間に顔を埋め愛しい人の陰核を強く吸う。
 浪路を弄ぶ男達に、千津は激しく嫉妬の炎をもやし、男に犯され快楽の声をあげる浪路に怒りすら覚えるようになる。
 千津の想いは、この異常な世界で、ただ一つの純粋な恋物語である。そして物語の最後にも、この千津の狂恋とも言える浪路への想いが描かれるのである。


 SMは、異常な変態な行為で、自分とは全く縁が無いと思っていますか?
 あなたはセックスで感じたことは無いですか?
 少しだけでも感じたことがあるのなら、気持ちいいと思うなら、それはどうしてですか?
 挿入された粘膜の摩擦だけで、感じますか? 
 感じるって、気持ちいいって、それだけのことですか?  性器と性器の擦れ合い、それだけがセックスの快楽ですか? 
 恥ずかしいことを言われ、恥ずかしいことをされて、自分という存在の行き場が失われて、心が目の前の相手に捕われてしまい、委ねるしか出来なくなって、そのことがすごく気持ちいいと思ったことはないですか? 
 自分の下で悶える相手を見て、愛おしくなり、もっと、もっと責めてやりたい、感じさせてやりたいと思ったことはないですか? 
 自分の性器を咥えさせ、支配感に身もだえすることはないですか?
 快楽の声を挙げる相手を見て、征服の喜びを感じたことはないですか? 
 自分の身体が支配されたり、支配したり、いじくられ遊ばれ辱められ、お互いがお互いの身体を使い心を溶けさす行為が、セックスではないでしょうか。

 セックスって、ただの挿入ですか?
 挿入なんて物は、セックスという行為の中の一部に過ぎないと私は思う。キスも、オーラルも、言葉を交わすことも、肌を合わす行為とも同じ、セックスの一部。


 誰かが、女には射精が無いから、欲望に果てがないのだと言っていた。
 団鬼六の小説に登場する美女達は、決して男達に苛められているのではない。男達は次第に、快楽を覚えた女の欲望の果ての無さに平伏し、遂には女に支配され、奉仕し始めるのである。
 果て無き快楽地獄に堕ちた女は、衣服を脱ぎ捨て、心さえも余計な物を捨て、だんだん綺麗になり、天女の如く男達の手の届かない神々しさを発する。女が男を支配し、男は神に供えをするかの如く、奉仕する。



 性的な欲望を持つということは、人間の原罪であり、地獄を抱えて生きるようなものだと思うことがある。生殖目的以外の性行為を行う人間という生き物が、いったい今までどれほどその欲望のために人を殺めたり、悪の道に走ったり、人を騙したり、堕ちていったのであろうか。
 

 されど地獄の中に仏が佇む。手を伸ばし我らを救う美しき菩薩が。差し伸べられたその手に縋りつく。快楽無くして、何が人生か。快楽を貪ろうぞ、地獄と背中合わせの極楽も確かに存在するのだと、道を誤らなければ人を愛しながら求めればよいのだと説く声がする。人間である限り、性欲と共に生きていかねばならぬのだから。



 縛られて、お前は俺のものだと言われたい。蔑まれたい恥ずかしいことされたい恥ずかしいことをしてやりたい。その世間に見せる「仮面」を私の前だけでも外して欲しい。「仮面」を引っぺがしてやりたい、「仮面」を剥がされ脅え恐れる姿を見てやりたい。見て、愛しんでやりたい。私の前だけは、本当の顔を見せて欲しい。誰にも見せないお前の本当の顔を見たいから、責めて心を辱めたい。いじめたい。いじめられたい。泣かせたい、泣きたい。弄びたい、弄ばれたい。愛されたい。お前の身体に縄を食い込ませ、身動き出来ぬ悶える姿を見て、お前は俺の物だと思いたい。組み伏してやりたい。
 しかしその時には、もう既に俺はお前に支配されているのだ。


 挿入だけのセックスなら、誰とでも出来る。

 SMこそが、本来なら心が必要で、心を求める行為なのだ。

 「SMなんて、変態行為で自分には縁が無い」と思っているあなたへ。

 上に乗り乗られ、組み伏し、手や口や性器を使い奉仕し支配し合い、互いが征服し合い果てる「セックス」という行為こそ、SMの一環に過ぎないとすら、私は思うことがあるのですよ。
 全てのセックスは、SMであると。


 団鬼六作品に登場する女達は、淫乱である。
 淫乱とは、誰とでも寝る女のことではない。自らの淫らな魂を知っているが故に貞淑にならざるを得ない女である。その女達が美しさを讃えられ開花していく過程を描いたのが鬼六作品である。女の美しさを発見し、その恩恵を受ける男達も幸福で、堕ちることにより崇高な美を孕む肉体と精神を手に入れる女も幸福である。幸福な男と女を描くからこそ、団鬼六文学は、美しい。
 



 



『生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。(中略)人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない』

               ― 坂口安吾堕落論」 ―


 堕ちよ。
 人は幸福になるために、性の喜びを与えられたのだ。
 生きていくことそのものが地獄なのだから、我々がその地獄で性という快楽を求め続けるのは、自分を発見し、人を、自分を愛するためである。つまりは、生きるために求めなければならぬのだ。
 

 堕ちてゆけ、生きていくために。

 
 地獄を。






鬼ゆり峠〈上〉 (幻冬舎アウトロー文庫)

鬼ゆり峠〈上〉 (幻冬舎アウトロー文庫)

鬼ゆり峠〈下〉 (幻冬舎アウトロー文庫)

鬼ゆり峠〈下〉 (幻冬舎アウトロー文庫)








 「歌餓鬼抄」、及び「狂蓮集」を読んで下さってる皆様、どうもありがとうごじゃります。こんなどこぞの誰やわからんオバハンの戯言を読んでくださる奇特な皆様方。あなた方により、生かされております。
 来年も、よろしくお願いいたします。
 お仕事をしておりますと、不況の波が押し寄せてくるのをひしひしと感じますが、だからこそ今、「生きていこう」と何かを探し摑むこと、泥水を啜り、大地に這いつくばっても生き残ってやるんだと気力を持つことが大切なのかな、と思います。
 
 今年、一番繰り返し読んだ作家が坂口安吾です。苦しい恋をしている方、生きることに疲れた方、自分が何者なのかわからない方。是非、この混沌とした時代だからこそ、安吾を読んで欲しい。一部引用いたしましたが、第二次世界大戦後の日本の若者を奮い立たせた「堕落論」及び他作品にも機会があれば触れてください。

 団鬼六先生は、SM小説の他にも素晴らしい作品を数多く書かれておりますので、またそれに関しては改めて書くつもりです。


 それでは皆様、よいお年を。