懸想文
滝沢馬琴も「京のよきもの」に挙げている京都の神社仏閣、それはそれはたくさんありまして、私も行ったことのない、知らない神社仏閣がまだまだあります。
先日、ふと京都の節分関連で検索して初めて存在を知りました「須賀神社」。なんとなく面白そうだなと思って昨日仕事を終えてから向いました。
須賀神社は京都市左京区にありますので、おけいはんこと京阪電車に乗っていざゆかん。京都に復帰してからは、あまり乗る機会の無い京阪電車ですが、沿線のいつもと違う風景にちょっぴり旅気分でした。特急の二階部分に乗り(特急列車には二階建て車両があるのです)窓の外を眺めているだけでなんだか嬉しい。実は昔から阪急よりJRより近鉄より京阪が好き。
京阪丸太町駅より歩いて熊野神社、聖護院八つ橋総本店の前を通り須賀神社へ。この辺り、聖護院は京都の名物八つ橋発祥の地です。八つ橋と言えば、ニッキの香りのする皮に餡子が挟まれたものを想像される方が多いと思いますが、その生八つ橋ではなく、堅い方の八つ橋の、これは江戸時代に琴の名手・八橋検校が琴の形を模して作ったものだと言われております。
実はもう一つ、伊勢物語にちなんでいるという説もありますけど八橋検校の話の方がわかりやすいんで、仕事ではいつもそっちの話をしています。
須賀神社には初めて行ったのですが、すぐに場所がわかりました。こちらではこの節分の2、3日のみ、「懸想文」が売られています。上の写真が「懸想文」、つまりはラブレターです。この懸想文を売るのが烏帽子水干姿で覆面をした「懸想文売り」です。何でこんな覆面の怪しい姿なのかと申しますと、昔、字の書けない庶民のラブレターの代筆を、身分はあるけれども金に困った貴族が引き受けていたそうなので、貴族達は顔を見られては恥ずかしいから覆面をしていたのだそうな。
ちなみにこの「懸想文」は主に江戸時代に売られておりました。この懸想文を人知れず鏡台や箪笥の滅多に開けない引き出しに入れておくと、顔かたちが美しくなり着物が増え、良縁があるというので、京都の街々の娘さん達に買い求められていたそうです。
そして居ましたよ、怪しい覆面姿に烏帽子水干の懸想文売り! 勿論私もしっかりと懸想文を買わせていただきました。懸想文売りさんに、お買い上げありがとうございますの代わりに、小さな声で「良いご縁がありますように」と言われました。
須賀神社に着いた時は15時過ぎで、ちょうど豆まきが始まるので結構な人だかりでした。この豆がクジつきなんですね。だから皆、すごい勢いで、白い紙に包まれて撒かれた豆の取り合いをしておりました。私は後ろの方なんで最初から豆を手にするのは諦めておりましたが、前の方で何個も豆を掴んでる人おったけど、ああいうのってどうなんだろう? だって、豆取れなかった人もたくさんおるのに、1人の人間が何個もとって必死に当たりクジ探しするってのは何だかあさましいような気がしました。
その豆まきを待つ間に、他の人に神社の方がお話されているのを横で聞いていたのですが、この「懸想文」の「良縁がある」というご利益は、決して「想う人と結ばれる」「恋が叶う」ではないのだと。ここんとこの話が、非常に面白かったです。
神社の方曰く、「今自分が好きな人と結ばれることが、必ずしも良縁であるとは限らないでしょ? もしかしたら悪縁かもしれない。だからこの『良縁がある』というご利益は、好きな人と結ばれたいとか両想いになりたいとかの願いを叶えるわけじゃないの。あなたにとって、1番良い人と出会えるということなの。あなたが今好きな人との縁がもしも良縁だとしたら、その人と結ばれるでしょうけど、それが良縁で無ければ、新たにもっと幸せになれるであろう相手が現れるというご利益があるの」と。
なるほどなぁーと納得しました。確かに縁結びの神社に行くと、好きな人と両想いになれますよーにとか恋する女は願ってしまいがちですが、確かにその縁が必ずしも良縁とか限らない。
お、覚えがあるよ、、過去にいろいろと、、、好きな人と結ばれるということが、必ずしも良縁とは限らない、、そんな人たくさん知ってます! 自分も含めてっ!!
その話を聞いて、大西ユカリと新世界の「ちょっとまちがえた」という曲の、ちょっと間違えた♪ 好きになる人をまちがえた♪ 違う人を見てときめいた♪ と歌詞を思い出しました。そういうことってありますよねー。そういうことだらけだよっ!
それは恋愛に限らずの話で、仕事とか進学とかで自分はこれやと思って進路を決断した時に、それが結果として「ちょっと間違えた〜」になってしまう時がある。でも自分のことや周りの人のことを振り返ると時間はかかるけれどもそういう「ちょっと間違えた」も含めてまわりまわっておさまるべきところにおさまるようになるんやないかと、思う。そう思わなぐだぐだ後悔したってしゃあないし。
例えばの話なんですが、私は大学入試の時に第一希望の大学は落ちたんですね。不合格を聞いた時は泣いたけど、でもその大学にもしも合格していたら京都に住むことはなかった。だから、私の「良縁」は、その第一希望の大学に合格することではなかったということだなと。
友達で、海外留学したくて、それが叶う直前に世界情勢の悪化で延期せざるを得なかった娘がいて、その時は相当荒れて落ち込んでたけど、留学が延期になって時間が出来たから彼女はある遠方の土地に期間限定の仕事に行くことになり、その地で後に結婚する人と巡りあいました。それもその留学の延期が無かったら出会わなかった縁なので、だから、その時は「悲しい出来事」であったとしても、実はそうではなく次に来る良縁の伏線だったりすることもあるのです。
ちなみに、須賀神社の懸想文の内容は毎年違うそうです。今年の懸想文にはこう書かれておりました。
>(前略)梅が香の あかぬ香りも昔にて 同じ形見の袖の色 引く糸あかく 尋ぬれば 後会の 契り遣はず 常磐松 軒端の花は 咲き始めて 萬代かけて 高砂の 深き契りを 叶えむと 神の御心 明らかに この喜びぞ 富士の高嶺に
あと、「須賀多餅」という柚子餡の入ったお餅も売られておりました。
「懸想文」は想いを籠めながら、誰にも見られぬように(1人暮らしなんでその心配はないけど)普段あまり開けない箪笥や鏡台の引き出しに忍ばせるそうなんで、今夜あたりこっそりと・・・
それにしても、こういう京都の季節行事とか昔ながらの風習って、ホンマにいいなぁ。和むというか、楽しいというか、「生活してる」って気がするぜ。
そして須賀神社のあと、もう一ヶ所節分行事に行きました。そこで私は初めて、「アレ」を見て感激いたしました。そのことについては、次回書きます。