恋することのもどかしさ
まず何らかのきっかけやお互いの好奇心でセックスをして、そこで情が湧いて恋心のようなものが芽生えるということが大概のわたくしの恋愛パターン。いわゆる「カラダから始まる恋」ってヤツでしょうか。だから「この人のこと、好きだなぁ」と思い始める時には既にセックスはしているのであった。
カラダから始まる恋は最初から触れ合うことに距離がないから躊躇うこともなく手が伸びる、口が近づく、肌の感触を知っている。
だから、そういうパターンじゃない恋に落ちた時に、とてもとてももどかしい。触れたことのない人に触れたいと思って、そのきっかけを探すことがどうにもこうにも難しい。そう思うと「カラダから始まる恋」というヤツはもしかしてすごく楽なんじゃねぇか。もしかしたら私しゃ、随分と楽なとこに逃げ込んでいたのかしら。
好きなのに、触れたことが無くて、とても触れたいと思って切々となることがもどかしい。目の前にいるのに、私はあなたと寝たいのとどうやって伝えていいのかがわからなくて悶々としてしまう自分がもどかしい。
なんで好きな人とセックスをしたいと思うのか。
それは、その人のことをわかりたいから。わかりあいたいから。
自分の気持ちを確かめたい、だからわかりたい、わかりあいたい。だから好きな人とセックスがしたいというのは純粋な欲望だよなぁと思う。
セックスは誰とでも出来るし、毎日オナニーをするほど性欲も溢れているけれども、「セックスしたい」という欲望は、「好きな人のことをわかりたい」という欲望だから、好きじゃない人、ましてやどうでもいい人とはしない方がめんどくさいもんを背負わずにすむ。
セックスがただの排泄ならいいけれども、情とか甘えとか馴れ合いとかもれなくいろんなものがついてくることがあるから、どうでもいい人のことを背負いこんだりするとロクなことはないので、めんどくさがりやはお堅い女のフリをする。
そうやって、自分の気持ちを確かめたくて、相手のことをわかりたくて、何とかもどかしい距離を縮めようとセックスしても、人間ってのは当たり前だけど無限の深さを持っていて、目に見える部分なんて氷山の一角に過ぎなくて、そしてわかりあうつもりで寝てみたものの、どんどんもっとわかんなくなって、距離が近くなるほどわからないことも増えて、やっぱりもどかしい。
いつまでたってもわかんなくてもどかしいけれども、それでもちょこちょこっとでも断片が見えてくるとそのことがとても嬉しい。嬉しいから、もっともっと知りたくなる。
そうして相手のことを発見していくのも楽しいけれども、それ以上に発見するのは自分自身のことだったりする。私ってこんなヤツだったのかぁって、自分の嫌なとことか、バカなとことか、結構可愛いとこあるじゃねーかよとか、いろんな事がポロポロと自分の中から溢れてきて、混乱する。混乱するけれども、どんな自分だって自分であることは間違いないから、それを受け入れていくことは、まるで新しい血が入って血管の中を巡り指先から足の爪先まで浸透していくようで心地いい。
と、いうことは、恋をしてその人のことをわかりたいという欲望のもどかしさは、それは結局のところ自分のことをわかりたいという欲望のもどかしさなのかな、と思う。
わかりたい。あなたのことを。そしてわたしのことを、切々とわかりたいと思う。
だから好きな人とセックスをしたいという欲望は、とっても健全でまっとーだ。
どうして人は恋するのか。
それは、自分のことをわかりたいから。自分1人じゃきっと何にもわかんないから。世界に居るのは自分1人じゃないということを知ることは孤独を知るということだから寂しいことではあるけれども、孤独を知らない人間は、自分のことをわからないままなんじゃないか。
> 人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分るほかには偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、とかいうが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また銘記しなければならない。
人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを恐れたもうな。苦しみ、悲しみ、せつなさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は,人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない
バカは死ななきゃ治らないというならば、たぶん私は一生バカのままなのかもしれない。バカでいいよ。バカな自分を好きになりゃいいだけの話だ。