一期は夢よ ただ狂へ ― 「ザ・面接」 代々木忠監督作品 ―
なにせうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
夢幻や 南無三宝
「閑吟集」
『何になろう、真面目くさって見たところで、所詮人生は夢よ、ただ面白ろおかしく遊び暮らせ、真面目くさった人なんて見られたもんじゃない、夢の夢の夢のようにはかない世の中を、さも一人悟ったような顔してさ』
「閑吟集」は、室町時代の今様が集められている。短歌や俳句のような形式もない、ただ、人の口からこぼれた「はやりうた」のようなものだろうか。室町という時代は混沌としていた。幕府も朝廷も権威らしきもの全てが崩壊していた混沌としている時代。この混沌とした天も地も無い時代に、歌舞伎や能、狂言などの現在日本の伝統芸能と呼ばれるものや、日本史上稀に見る傑物達が下克上の中から生まれている。
おそらくAVにあまり興味が無い人でもその名を聞いたことがある人は少なくないだろう代々木忠監督の「ザ・面接」シリーズ(制作・アテナ映像)。第一作目は93年に制作され、現在までに96本制作されている。(すげー)内容は時代と共に変化しているが、基本的な設定は、アテナ映像社屋の、ごくごく普通の「オフィス」空間で、AVに出演しようとやってきた素人女子が、面接軍団と呼ばれる黒タキシードに身を包んだ複数の男優とセックスするという内容である。(*現在は社屋が引越しして、また形態が変わっているそうですが、あくまでここでは私が見た範囲の内容を書きます)
私が、最初に見た「アダルトビデオ」が、この「ザ・面接」だった。当時二十歳そこそこで処女でキスもしたことがない私は好奇心に駆られて、どうしようもない衝動に突き動かされて、下宿の近所にあった小さなレンタルビデオ店で恐々とこのビデオを借りた。
初期の「ザ・面接」は、当時の私には「レイプ」に見えた。オフィスという日常空間にやってきたごくごく普通のどこにでもいそうな素人女性。AVに出演目的でその場に現れたことは確かなのだけれども、社員達が机に向かい真面目に仕事をしている側でソファーに座り質問に答えるうちに現れた「その場に似つかわしくない」黒タキシードの複数の男達に股を開かされる女達。
重要なのは、この空間である。オフィスという日常空間で複数の男に犯されるという、現実には有りえない「ファンタジー」。そこで犯す男達は、サラリーマンのようなスーツを着ているわけではなく、カジュアルな日常着を身につけているわけでもなく、黒タキシードという形式ばった礼服、つまりは最も「女を犯す」というシュチュエーションに似つかわしくない衣装である。「オフィス」という日常空間で、「黒タキシード」という礼服で繰り広げられる、完璧なほどの「性的ファンタジー」が展開されている。
AVというファンタジーの世界だからこその「ありえない空間」で犯された女は、発情する。
AVを見なくてもオナニーは出きる。AVを見ない人など、たくさんいる。じゃあAVを見る人と見ない人との違いは何なのか。それは「性的ファンタジー」の必要の度合いなのではないだろうか。
AVというものは、「ファンタジー」だと思う。勿論、AVだけではなく、普通の映画もそうなのだけれど。
例えドキュメンタリーだとしても、カメラを通して映像となり第三者に提供される時点で、それは「ファンタジー」となる。そして私にとって「良いAV」というものは、「抜けるもの」「抜けないもの」という判断をされるものではなく、「質の良いファンタジー」を提供してくれるものだ。
私は「質の良いファンタジー」を渇望している。何故それが必要なのか、どうしようもなく必要なのか。
そもそも「恋愛」も「セックス」も「ファンタジー」、(それを「幻想」と言い換えてもいい)によって成立されるものである。恋愛もセックスも「脳」でするものだからだ。セックスは身体でするものではないかと言われそうだが、脳からの「発情中枢」(私が勝手に言葉を創りました)からの命令により欲情するからこそ、「抜ける」モノと、「抜けない」モノが各々の中に存在するのだ。
人間は目で見て、肌で感じて、香りを嗅いで、五感が脳の「発情中枢」に訴えかけ、発情中枢からの命令で、勃起し、濡れる。そしてその「発情中枢」に訴えかけるものが「幻想」である。入れたら気持ち良いだろう、触られると気持ちがいいだろう、しゃぶられたら気持ちが良いだろうという「幻想」が、人を欲情させ、性的衝動をかきたてる。だから、「セックスがしたい」。
性的ファンタジーにより人を欲情の入り口に誘いこむ映像メディアが「アダルトビデオ」だ。いかに人を欲情させて発情中枢を刺激させるかに長けているのが、「質の良いAV」だと思う。例えば南智子の「言葉攻め」や、二村ヒトシ監督の「キス」、それらも見ている人間の発情中枢を刺激して欲情を掻き立てる「鍵」であり、手段であるのだ。
「ザ・面接」の、基本的とも言える「ファンタジー空間」の設定の中で、「AV女優」ではない「素人」達は、面接軍団という幻想空間からの使者達の手により導かれ引き込まれ溺れ発情して牝となる。
セックスが何故、いやらしいのか。それは、禁忌な秘め事だから。してはいけない場所で、してはいけないことを、ありえないことをするから、いやらしい。本当は人前ではできないこと、してはいけないことだから、いやらしい。子供は見ちゃいけないものだから、いやらしい。だからレイプや痴漢、野外セックス、SMなどの、更に秘されるべきセックスは、AVという性的ファンタジーの世界だからこそ、いけないことだからこそ、いやらしく存在をしている。
ああ、セックスって、なんていやらしいものなんだろう。
いやらしいからこそ、素敵。いやらしいから、したい。
いやらしいものが、すき。
いやらしいものを、求めている。
渇望している、いやらしいものを。
発情中枢を刺激する、質の良いファンタジーを。
例えげっぷが出るほどセックスやりまくっても、私はAVを見るだろう。もういいよと言うほどセックスやりまくっても、私は発情中枢を刺激する質の良いファンタジーを渇望して、AVを見たいと思うだろう。どんなにやりまくっても、AVを見て発情したがるだろう。
処女でキスをしたこともない二十歳そこそこの私に、「ザ・面接」の刺激は強かった。あれから10数年以上、多趣味な癖に飽きっぽいはずの私は、まだこうして性的ファンタジーに渇望して、アダルトビデオを見て、未だに渇望している。
いやらしいものが、見たい。
溶けてしまいそうなほど、いやらしいものが、見たい。
今回、私が見たのが「ザ・面接大全15」です。過去の面接シリーズ3本と、おまけとして面接軍団(市原克也・平本一穂・片山邦生、敬称略)の副音声付きです。ここで収められているものは、ノストラダムスの大予言に怯えた世紀末1999年頃のモノです。勿論、現在進行形の面接シリーズを見て頂いてもよろしいんですが、おまけの副音声が素晴らしいので、「ザ・面接大全」は、特にお得なのです。
この頃のモノは、初期のようなレイプ色は無くて、面接に来た女性と同時に、会社の制服を来て仕事をするエキストラにも焦点があてられて、非日常空間の中で繰り広げられる「セックス」を目にする女性達の反応も面白い。こういう「裸」の人間像っていうのは、セックスが許される「アダルトビデオ」というカテゴリーだからこそ描けるものであるから、アダルトビデオというのは、実は無限の可能性の広がるメディアだと思うのです。作り手側も、そして見る側もが、その可能性を放棄しなければ、です。可能性を放棄して、程度の低い理屈をこねくりまわしたり下らない既成概念を定義つけようとしなければ、これほど無限に可能性を秘めたメディアは無い。
私は、「セックスを描く」ことが許され、「セックスの果てにあるもの」を見せてくれるアダルトビデオに出会えて良かったと心底思う。代々木忠が、平野勝之が、カンパニー松尾が、南智子が、林由美香が、(敬称略)そしてそこに導いてくれた様々な人々に、感謝して敬意を払う。
たかが、オナニー、されど、オナニー。
アダルトビデオで「抜く」ことを、私は渇望し続ける。
「ザ・面接」の中で、セックスを繰り広げる男達、女達、その光景を代々木監督のカメラを通して見て、京都のある神社の話を思い出した。その神社では、毎年節分会になると、その土地の男女がその神社で「雑魚寝」をしたらしい。年に一度の土地の祭りは、開放された性の宴の夜だった。その風習は江戸時代に入ってから「けしからんこと」と廃止されたらしい。ただ、日本という国は元々性に開放的な国だったことは周知の事実だろう。「雑魚寝」「夜這い」などの風習は日本のあちこちで存在した風習であるし、江戸時代に外国人が日本に来て、銭湯で男女が混浴していることに非常に驚いたという記録もある。外国ではタブーとされることが多い同性愛も江戸時代まではごくごく当たり前のことであった。
「ザ・面接」の中で、素人女達は、非日常空間の中で発情し、開放される。それを引きながら見る「その場でセックスできない」女達は、開放されていない不自由な女に見える。代々木監督のカメラは、「開放されて自由になった女」を讃え、「開放されない不自由な女」に、お前を開放しないものは何か、不自由なままでいいのか、と問いかけるようだ。
「発情して開放されて自由になる女」の姿を映すように見せかけて、その場にいる「開放されない女」と、そして画面の向こうで見ている人間に向けて、「何故お前は開放されないのか? お前を捕らえている鎖の正体は何だ? お前は自由になりたくないのか? 自我という名の鎧を脱ぎ捨て、社会という鎖を外し、お前はお前というただ一人の人間として、自由になりたくないのか? お前は誰だ? お前という人間の正体を暴きたくないのか? 壊れろ! 壊れて見せろ! 身も心も裸になって見せろ! 身も心も裸になって、愛したい、愛されたい、裸の欲望を見せろ! 魂を開放して、自由になれ! 」と、叫んでいるかのようだ。
社会という窮屈な空間の中で私達は生きている。社会の中で我が身を守る為に、食っていく為に、重い鎧を来て、様々な鎖に囚われて日常を生きている。それが、生きていくということだ。そうやって秩序を作り、人は生きなければいけない。ただ、セックスする時、好きな人の前で裸になり獣のような声をあげることが許される時間だけは、身体だけではなく心も裸になり、甘えて自分を許して開放して自由になるべきだ、それが出きる行為だからこそ、セックスは、楽しくて、切実に必要なことなのだ。
私がセックスを好きなのは、甘えられるからです開放されるからです自由になれるからですアホウになれるからですそれが許されるからセックスが好きで、だからこそ好きな人とセックスがしたいと思うし、誰とでもセックスしようと思えばできるけれどもあまりしたくないのは、青臭いかもしれないけれども、やっぱり身体だけじゃなく心を求めているのです。森下くるみ嬢の言う通り、「セックスとは、心を求め合う行為」だと思うからなんです。
だから、セックスが描かれている、「アダルトビデオ」を、見ている。
セックスは「人間」を出せる行為だからこそ、楽しい、気持ちが良い、だからこそ、時には哀しい。
混沌とした室町という時代に、実態を失った権威や、建前だけの仏教界に背を向けて、性を取り繕わずあるがままに歌い「悪魔」とも罵られ、自らを「狂雲」とした一休宗純という僧がいた。
一休64歳の時、「骸骨」を記している。全ての人間は生きながらにして骸骨である。一皮向けば皆骸骨である。これこそ無差別平等の姿である。だからこそ骸骨ほど目出度きものは無きと、元旦に骸骨を杖に掲げ都を練り歩いた。
「ザ・面接」の中で、重要なキーパーソンであるのが、面接隊長・市原克也(AV監督兼男優・敬称略)の存在だ。この頃には市原克也は、セックスはほとんどしない。ただ、その空間には絶対必要な存在で、独特の天才的センスのボキャブラリーを駆使し、セックスという「祭り」の中に佇む彼の姿は、性を肯定して謡い、骸骨、つまり全ての人間は皆裸なのだと人と都を練り歩いた一休狂雲和尚の姿と重なる。そしてその存在こそが、代々木忠監督の「性」を通した「人間讃歌」の舞台の中で、天(代々木監督)と、地(出演者)の境界線を混沌とさせ「至福のパラダイス」という「性的ファンタジー」を生み出すキーパーソンに思えてならない。
自由になること、開放されること。そのパラダイスに飛び交う迦陵頻迦は、性、すなわち「生」への讃歌を歌い上げる。自由になること、開放されること、それは、人からエネルギーを沸き起こす。混沌とした苦界を生きていこうとするエネルギーが、自由になり開放されることによって沸き起こされる。身体の奥の奥から、エネルギーが沸き起こる。生きていくためのエネルギーが。
いやらしくて、おかしくて、楽しくて、滑稽で、切なくて、そしてどこか哀しい「セックス」。
セックス、セックス、セックス。
セックスが、好き。
松尾芭蕉が長良川の鵜飼を見て詠んだ句に、「おもろうて やがて哀しき鵜飼かな」という句がある。私なら、こう言うよ、
おもろうて やがて哀しき セックスかな
って。
一期は夢よ ただ狂へ。
開放されよ、自由になれ。
人間の性、この素晴らしき物への讃歌。
人間に与えられた、快楽への讃歌。
それを、代々木忠は、謡い続けている。
アダルトビデオという、性を描くことが許される無限の宇宙の混沌とした世界で。
アテナ映像公式HP 「ザ・面接」シリーズは、こちらで購入できます。
http://www.athenaeizou.co.jp/html/index2.html
一休狂雲については以前書いております。この方の性を謡う詩は、必見。もちろんですが、テレビアニメの「一休さん」のモデルはこの方です。
http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20061224#p1
市原克也公式HP
http://www.ichiharakatsuya.com/index.htm
南智子様(素敵)については以前書いております。これも代々木監督作品。
http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070219#p1
* 先日書きました「空中奥さん」について
「ザ・面接大全」は、勿論立派なエロビデオなのですが、このおまけについている出演男優陣の副音声が、人生馬鹿らしくなるほど、おもしろくて素晴らしい。過去映像を見ながら男優陣が雑談しているのですが、くだらないっちゃあくだらないのですけど、客観的に眺めることによって、引き出される真理をついた言葉などもたまにあったり、何よりも市原隊長の比喩が笑えます。「空中奥さん」というのは、駅弁されながら自分で腰を動かしたり机の上でやり続ける女性のことです。駅弁されながら自分で腰動かす、その人の貪欲ぶりが素晴らしいです。ちなみに平本さんが、「この人、奥さんじゃないよ、独身じゃん」と言っても、市原さんが、「この年頃(三十代半ば)の女は、皆奥さんや!! 」と言ってきかないのです。
あと、濡れてそうな女性のことを、「ベタまん」、濡れてなさそうな女性のことを「ポテトチップ」って、、、
ノリの悪い状態を「現在の夕張市みたいな状況」、、、
「面接大全11」の中では、無表情で反応の悪いエキストラのことを「地方の信用金庫の職員」って、、、
とにかく、おもしろいです、副音声。だから、最初に普通に見て抜いて、それから副音声を見ることをお勧めします。娯楽というものは、生活していくために無駄なものだと言う人もいます。しかし、娯楽は、生きていく中で、時には柱になるものだと私は思います。苦しみから人を救うこともできるからです。素晴らしき「無駄話」、私は大爆笑させていただきました。ありがとうございます。