〜わたしはセックスがわからない〜 「YOYOCHU SEXと代々木忠の世界」について、その1


 私は、セックスがわからない。何もわかっちゃいないんだな――「YOYOCHU SEXと代々木忠の世界」を、試写室で観ながら、ずっと頭の中ではそのことがぐるぐるとまわっていた。


「AVのセックスで感じるはずがない。愛がないから」

 みたいなことを、以前飲み会の席で言われて、カチンときた。それを言ってきた相手は30歳ぐらいの女。勿論、私がAV関係の物書きをしていることを承知で、そういうことを言ってきたのだから、「喧嘩売ってんのか?」と、思った。私は穏やかに、

「そんなことないとですよ。本当に感じている娘もいますよ」

 と、返したら、そいつは、

「私は愛の無いセックスもしたことあるけど、感じなかった。だからAVのセックスで感じるわけがない」

 と反論してきたので、内心「それはあんたがたまたまそうやったんやろ、乏しい経験で一般論みたいな言い方すんなボケ」と思ったが、めんどくさいので、話をそらした。
 愛のあるセックスって、なんだよ。愛のあるセックスがそんなにえらいのか。で、あんたが愛って思っているものって、果たして本当に愛なのか。AVには愛がないのか。カメラの前で仕事としてするセックスには愛がないのか。愛のないセックスは感じないのか。それならば我々は随分乾いたものを見せられていることになる。

 アダルトビデオって、何だろう。男がオナニーする為に作られた裸、セックスの映像。男優と女優がギャラを貰い、セックスをする映像。
 AVは演技だからつまらない――かつて、私もそう思っていたことがある。観たこともないくせに。そもそも、セックスをしたこともない、知らない頃に。
 ところが、初めて見たAVに度肝を抜かれた。今でもそのAVを観た時の衝撃と興奮を思い出すと鳥肌が立つ。処女でキスもしたことがない20歳を少し過ぎた私が最初に観たAVは、代々木忠監督の「ザ・面接」だった。

 「面接」に訪れる女性。ソファーで応答するその女性の傍に座る黒いタキシード姿の複数の男達。ある時は、急に獣に豹変して、ある時は笑いながら女性に触れ、戸惑い叫ぶ女性をオフィスの片隅で犯す! 犯す! 犯す! 
 女は犯されるうちに快楽の声を挙げ、状況を享受する。こんなのが演技である筈がない。犯され恍惚となり喘ぐ女達――画面の中で何が起こっているのか、わからない、理解出来ない、ただ、ただ、すごい。
 私は映像に犯された――狂いそうな興奮と混乱、込み上げてくる性的な欲求――叫びだしそうになった。
 その後、「ザ・面接」以外にも、ビデオ屋の「代々木忠コーナー」の「性感Xテクニック」「淫女隊」シリーズを借りてみた。どれもこれも、「本物」だった。
 セックスなんてしらない。けれど、それは「本物」だった。

 セックスは愛する人とするものだと、捧げるものだと想っていた。そして初めてセックスした人と自分は結婚するものだと――そう思っていたのに、何故私は画面の中で起こっているこの狂った破廉恥な出来事を否定できないのだろう、眼が離せないのだろう。


 あの時に「ザ・面接」を観なければ、AVに惹かれる事など無かったし、そうなればAVについて書くこともなかっただろう。AVについて書かなければライターになることもなかったので(もともとライターを志したことは無かった)すなわち、文章書いて生きていこうとする私は、居なかった。
 

 あれから、十数年が経ち、私はもう処女ではないし、処女では無いどころか、愛の無いセックスも、不倫も、変態と呼ばれる行為も、吐き気を催すような嫌なセックスも経験し、気がつけば官能小説を書いていた。
 でも、わからない。わたしはまだ、セックスがわからない。だけど、きっと、みんなわからないのだ。わかったようなことを言う奴は男でも女でもうさんくさく、バカっぽい。セックスの自慢話をするヤツでセックスが上手いヤツは居ないということは経験上、身に染みている。セックスの情報は溢れて、昔より今は皆が当たり前にセックスの話をするようになった。けれども、きっと誰も彼もわかっちゃいないんだ。

 愛、とか言うけれど。
 それだってわかっちゃいない。けれど、「愛の無いセックスはつまらない」「感じない」というヤツには思い切り反論したい。愛が無くても感じることはある。AVのセックスに愛があるかどうかはわかんないよ。そもそも恋人同士だって愛の無いセックスすることあるじゃないか。心がそこにない、おざなりの嘘だらけのセックスを。愛がセックスの邪魔になることもある。私のように、「セックスは好きだけど男が嫌い」な女もいて、そういう女は愛の無いセックスの方に救われ満たされることもあるのだ。それを寂しいというならば、言えばいい。私は寂しいのだから。じゃあ、でもあんたは寂しくないのか。自分は寂しくないからと、寂しい人間を嘲笑する人間は傲慢で愚かだ。

 アダルトビデオって、何なんだろう。
 男が「ヌく」為に作られたセックスが描かれた映像。
 
 ただ、男と女が絡むだけの、作られた、演技の映像。
 本当にアダルトビデオがそれだけのものならば、何故、72歳になる「代々木忠」という人は、今まで、未だに、カメラを持ってセックスを撮っているのだろうか。

 私はセックスのことなんて、何にもわかっちゃいない。

 「代々木忠」という人の生涯、そして、この国で「アダルトビデオ」をいう、ある時、最も自由で、最も先鋭的で、人々を驚愕させてメディアが生まれたことが語られているこの映画を観ながら、私の頭をぐるぐるまわっていたのは、そのことだった。

 私は、セックスのことなんて、何もわかっちゃいない。けれど、あんた達だってわかっちゃいないし、本当は誰一人わかっている人なんていないんだ。
 おそらく、この、72歳でカメラを担いでいる「代々木忠」という人も――

 わかっちゃいないけれど、それ無しでは生きてはいけない。セックスが無くては、生きていけない。そしてわかっちゃいないけれど、描かずには、探らずにはいられない。だから私は、代々木忠という人の作品に出会って、十数年を経て、「官能」という道に、流され辿り着いた。私は今、朝から晩まで、「わからない、わからない」と唱えながら、いやらしいことを考えたり、書いたり、読んだりしている。

 あんただって、わかっちゃいないんだよ。
「AVのセックスで感じるわけがない、愛がないから」と私に言ってきた、あんただって。わかってるつもりになるその傲慢さを打ち砕きたいから、代々木作品を観ろと、言ってやりたい。

 映画「YOYOCHU SEXと代々木忠の世界」は、私個人としては、是非、女性に劇場に足を運んで観に来て欲しい作品なのです。
 AVを観たことがない、AVを軽蔑する、彼氏や夫がAVを観ることが嫌だ、AVのセックスなんて演技だ、AVなんてつまらない――そう思っている女性こそが、見て何か心の中のざわめきを感じられる映画です。

 そしてそんな「つまらないはず」のアダルトビデオに、命をかけてと言っていいほどに真剣に携わっている様々な人々の姿を垣間見て欲しいのです。

 私はセックスがわからない。わからないままだ。けれど、それ無しでは生きていけないし、とても気持ちがいい。セックスして泣いたことが何度かある。例えばセックスがただの快楽だけの行為なら、涙など出ない。心を揺り動かす行為だからこそ、泣いたのだ。AVのセックスだって、同じだ。代々木忠という人が、何故、アダルトビデオを撮り続けているのか、セックスを撮り続けているのか、それは、多分、私達と同じで、「わからない」からだ。ただの身体の摩擦、快楽ではないからだ。本当のところは、誰も彼もわかっちゃいない。たかがセックス、されどセックス。

 セックスなんて、簡単に出来る。
 でもね、優越感を得る為だとか、他人を使っての自己肯定の為だとか、寂しさを埋める為だとか、それのみの為のセックスばかりしていると、あんまりにも簡単に出来るセックスだからこそ、セックスをバカにして、異性もバカにしてしまう。そうなった時に、きっとセックスと、異性に復讐されてしまうよ。

 女は男みたいに射精が出来ないから、セックスという行為に求めるものがより多いのだ。貪欲なのだ。だから、なおさら、私は、わからないまま、こうして文章で探り求め続けているのだなのだ。

 私も、あなたも、わからないもの、得体のしれないもの、けれど、人が避けて生きてはいけないもの――「性」の世界――その渦中にいて、未だに手探りで探検と冒険を繰り返している、「生涯AV監督」代々木忠という人を、劇場で観に来て欲しい。

 セックスなんて、わからない。愛なんて、わからない。
 けれど、恋人に抱かれるとき、私は確かに幸福を感じている。だからセックスが、幸福と、繋がっている行為だということぐらいは、わかる。
 
 あなたは、どうなんだろう?
 恋人と、愛する男と肌を合わせ、抱かれている時、幸せだと感じますか。恋人じゃない男とセックスして感じたことありますか。私は、あります。寂しい身体と心に触れられて泣いたことがあります。だから、セックスって、わからなくて怖くて、探らずにはいられないものなんです。
 
 セックスって、あなたにとって、なんでしょう。
 きっと、それは、生涯、わからないものだろうけれど、そのわからないものを「生涯の仕事」として探求し続けている一人の人間の人生を通して、「SEXの世界」を、観て欲しい。