AV女優・森下くるみ『すべては「裸になる」から始まって』

hankinren2007-04-15




 画面の向こうで裸になり、セックスをする女達。彼女達の仕事は、「AV女優」。

 
 私はAVを見る。「男の欲望」の為に作られたアダルトビデオを見る女だ。誰かに頼まれて見ているわけでもない。仕事で見ているわけでもない。自分の意思で見ている。お金を出して購入し、アダルトビデオを見ている。


 女がAVに何を求めるか、何を見ているか。それは人それぞれだろう。男優に欲情しながら見ている人もいるだろう。性的幻想を映像化する創り手である監督に焦がれて見る人もいるだろう。女優に自分を投影して見る人もいるだろう。ただただ、そこで繰り広げられる性の世界に羨望しながら見る人もいるだろう。
 女がAVを見ているというと、女優に自分を投影して男優に「AVのようなことをされたい」から見ているのだろうと捉えられて戸惑うことがある。それを否定はしないけれども、私はどちらかというと男優になり、女優とセックスしたいという欲望の方が強い。


 私は、画面の向こうでセックスする女の人達が見たい。正直、男優さんとかは、あまり気にしていなくて顔も覚えられないし、身体がどうのこうのとかも相当どうでもいい。私は女であるけれども、女性にも欲情する種類の女だ。性的な事を抜きにしたら、男より女の方が遥かに好きだし、女という生き物の美しさに焦がれる。
 そう、女は美しい。裸になりセックスをする女は、美しい。性という羽衣を纏う天女に魅せられて、私はAVを見る。


 羨望しているわけでもない。嫉妬しているわけでもない。ただただ、欲情して美しくなる女達を見ている。羨望しているとしたら、女優にではなく、女優から欲情という美しさを引き出すことのできる男優や監督、「男」に羨望している。私は男になり、女の滑らかな肌を撫で回して声をあげさせたい。


 そうやって、AVを見ているけれども、女である自分がAVを見る事に、後ろめたさが拭えない。普段は忘れていても、ふと罪悪感が湧き上がり暗い気持ちになることが、たまにある。肌を晒し、セックスをして金を得る女達。男の欲望の対象である「女という商品」になる女達。
 肌を晒し、セックスをして金を得ることを、「素晴らしいこと」「良いこと」だと何の躊躇いも無く賞賛できるだろうか。裸身を曝すことで輝く光の裏には、必ず影がある。男の欲望の対象の『女という商品』になり金を得ることには、リスクがある。光の輝きが眩しければ眩しいほど、リスクは大きくなる。


 AV女優が好きだ。だけど、もし自分の肉親や友人が「AVに出る」と言いだしたなら、私は「とってもいい仕事だね! 頑張れ! 」と諸手を挙げて応援することは出来ない。止めることはしないだろうけれども、きっとこう言うだろう。あなたが肌を晒しセックスをした映像が残されることによって、それをあなたの弱味にして、そこを攻撃して傷つける人間が、きっと出てくるだろう。あるいは、あなたのことを好きな人間が、あなたが複数の人間の欲望の対象になることに傷ついて、時には去っていくこともあるだろう。そういうリスクを背負う覚悟があって、それでもやりたいと思うなら、やりなさい、と。



 私がAV女優に抱く後ろめたさは、自分は安全な場所に居ながら、(本人達が自覚しているか無自覚でいるかどちらにせよ)リスクを背負い商品になる同性を「買っている」ことだ。そのことに私自身は無自覚でいられない。例えばドグマのD-1のオーディションのDVDを見ていて、面白いと思うし、今年も楽しみにしているのだけれども、ふと暗い気持ちになることがある。AVに対して「やる気」が溢れることをアピールしている女性ほど、その熱い想いの光の裏にある暗い影を「余計なお世話」であることはわかっていながらも感じてしまのだ。勿論こんなことを突き詰めて考えてしまうとAVなんて見られなくなる。だから、それをそんなに深刻に捉えているわけではないし、どんな職業にも光と影は必ずあることは間違いない。ただ、それを「無かったこと」に私は出来ないだけだ。


 女がAVを見ることを嫌がる男の人もいる。それは女が男の想う以上の欲望を持つことや知ることに対して恐怖を抱くからというのもあるだろうが、「男の欲望である女という商品」をリスクを背負わぬ女が見たり語ることに対してのどこか高みにたったかのようなポジションに嫌悪感を抱くのもあるのではないだろうか。



 AV女優達がAVに出る理由は様々だろう。一瞬の輝きを、お金を、非日常を、何かに求めて。誰だって、輝きやお金や非日常という快楽は欲しい。 
 だけど、誰も彼もがAVに出るわけではない。AVに出る女には様々な動機があるだろうが、AVに焦がれながらも出ない理由を全て突き詰めると、「自分の商品価値を下げたくないから」「自分を守る為」だと思う。勿論「自分を守る」ということは必要なことだから、悪いことではない。だけど、「自分を守る」「自分の商品価値を下げたくない」女が、例え無自覚にせよリスクを背負いながらもAVに出る女性を、「女という商品」を見たり、買ったりすることに、私は自分の中の欺瞞を、どこかいつも感じている。



 男の欲望の為の「女という商品」に対しての距離感に戸惑う。AVを見て、AV女優に欲情し、こんなふうにAVについて語ることが、どこか傲慢な行為のように思うこともある。

 
 だけどAVが見たい。そして、書かずにいられなくて、こうしてAVについて書いている。時折うしろめたさを感じ、そういう自分に矛盾を感じながらも、見て書き連ねている。

 
 性に関することは「秘め事」であるからこそ淫靡ではあるが、だからこそ「秘め事」を公にすることに嫌悪感を抱く人達がいる。セックスなんて誰でもやっていることなのに、それを公に、更に仕事にする人達を非難する人達がいる。非難を口にしなくても嘲笑したり侮蔑する人も少なくない。私はこうして顔の見えないネットの世界だからこそ自身の性経験やAVについて語ることはできるけれども、現実に働く世界では自身の性について語ることには慎重だ。性的な事を語る女だから、簡単にやらしてくれるだろうと思われることも過去にはあったし、あの人は好きものなのだと同性に嘲笑されたこともあった。特に私は自分の性欲で身を滅ぼし生活を破綻させた人間だからこそ、自身の性に葛藤を続けている。



 我が身を滅ぼした「性」は、自分の最大の傷であるのに、「性」を描くアダルトビデオで欲情する女達を見続けている自分がいる。これは傷を広げる行為ではない。傷を肯定する行為だ。そうしないと私は、生きていけない。私を滅ぼした「性」を肯定しないと、私は私を許せない。だから、葛藤しながらアダルトビデオを見続けている。
 


 森下くるみというAV女優がいる。今年でAV女優としてのキャリアは9年目。私の押入れには昔のAV情報誌が何十冊もあるのだけれども、(一番古いのは1990年のですよ。さすがにリアルタイムで購入したんじゃないけれども)それを古いモノから順にパラパラと見ていくと、淀みに浮かぶ泡沫のように現れ消えていく星の数ほどの「AV女優」の中で、ただ一人彼女だけが天上の花のように一人咲き続けているのがわかる。極楽という光と、涅槃という影の狭間にある混沌とした世界で、咲き続けている。


 以前、二村ヒトシ監督について書いた時に「AV女優が菩薩に見える時がある」と書いたけれども、こうやって、デビュー当時から今に至るまでの森下くるみという人の顔こそが、まさに菩薩に見える。例え、どんな行為をしても決して穢れない、自らを欲望の対象とする全ての男達を柔らかく受け入れてしまうかのような菩薩に見える。



 「菩薩」には様々な種類がある。地蔵菩薩文殊菩薩弥勒菩薩など。だが、私達が菩薩と聞いてまず思い浮かべるのは「観音菩薩」ではないだろうか。菩薩の中でも、衆生へ慈悲を齎す観音菩薩への信仰は深い。


 浄土真宗の開祖である親鸞上人は、それまで表向きはタブーであった出家者の妻帯を公にした。
 親鸞は、往生を体験する為に、お堂に篭り、その時に観世音菩薩の声を聞いた。


 「行者 宿報により たとえ女犯すとも
 われは玉女の身となりて犯せられむ
 一生の間 よく荘厳し
 臨終引導して 極楽に生ぜしめむ」



 『前世の因縁により、お前が戒めを犯して女を抱くことがあっても、観世音菩薩自身が美しい女となって抱かれよう。そして、一生の間、お前の飾りとなり助けになり添い遂げ、臨終の際には極楽浄土に案内しよう』



 そうして、親鸞は女を抱き、妻にした。観音菩薩の化身である女を抱き、抱かれた。



 男の欲望の対象である「女という商品」のAV女優は、見ている人間の何かを救う為に現れた観音菩薩の化身ではないのだろうかと思うことがある。裸になり性という羽衣を纏う天女のように思えることがある。



 性には、快楽だけではなく、苦しみや悲しみが付き纏う。裸になって全てを曝し鎧を脱ぎ捨て泣くように射精する男も、男を導いて受け入れる女もどこか悲しい。
 何故、性が哀しいのか。それは、果てが無いから、求めても求めても満たされない、満たされたと思っても、また欲望が吹き出て、求め続けなければいけない人間の業の最たるものだから、哀しい。



 私は自分がセックスを好きだということは自覚していたけれども、楽しいとか気持ち良いとか思えるようになったのなんて、つい数年前のことだ。性欲を餌に搾取され、お金を渡した時にだけ「ご褒美」に少し挿入されるだけだったのが、二十代の頃の私のセックスの全てて、楽しくも気持ちよくもないし、ただ、哀しく痛いだけのものだった。哀しくて自分で自分を傷つけるものだったのに、それを求めていた。どうしようもなく求めていた。求める自分が嫌いだった。求めることは苦しむことだから、楽しくも気持ちよくもないセックスを求める自分が嫌いだった。
 今だって、セックスして哀しくなる時がある。求めても得られないものを求め続ける、果ての無い欲望の哀しさを感じるから、好きな人とセックスすることが一番哀しい。哀しいけれども求めてしまう。それでも、昔とは違って、楽しい、気持ち良いと感じるようになれたことは、とても幸福だと思う。


 森下くるみさんは、『すべては「裸になる」から始まって』というエッセイ集の前書きに、「AVの世界」に自分が入った理由は、「多分、人と自分を好きになるために」と書いている。そして、本の中には「セックスとは気持ちを求め合う行為なんだなぁと思う」という記述もある。



 セックスが、ただの排泄なら、私はこんなに哀しくならない。オナニーだけじゃなくセックスを求める自分は、やっぱり誰かと繋がりたい、身体だけじゃなくて心で、気持ちを求め合いたい、そうやって、自分じゃない誰かと繋がることによって人と自分を好きになりたいのだと、この本を読んで思った。

 森下さんのこの本は、出版社が倒産した関係で、後日他社で出版されるという形になるらしく、ここでお勧めしてもすぐに読めるかどうかわかんないんだけど、寂しさや人間不信という殻に入っていた一人の女の子がAV女優になって、自分に与えられた一つ一つの物事を、そのまま臆することなくただ受け入れ続けて、成長(この言葉が相応しいかどうかわかりませんが)していく物語です。彼女が永く、良い意味で何かに染まらずにここまでこれたのは、身を守る余計な鎧が無いこと、嘘が無いこと、自分の目で何が正しいか見極める感覚と、それに信じ従うことの出来る強さを持っているからではないだろうか。


 釈迦の説く「八正道」という教えがある。


 「人の世には苦しいことや悲しいことがたくさんあるが、それをなくして喜びにあふれた幸せな毎日をおくろうと思えば、八つの正しい道を守り行っていけばよい。その道とは、自分本位を捨てて、正しく見、正しく思い、正しく語り、正しく行い、正しく暮らし、正しく努力し、正しい理想を持ち、正しいおちつきをえることである」


 ここで説かれる「正しさ」は、世間の目とかを基準とする「正しさ」ではなく、「自分自身にとっての、正しいこと」だと私は解釈する。世の中には、人の足を引っ張ろうとするものや、暗い気持ちにさせるようなものや、馴れ合いや甘えあいで自分の弱さや卑怯さから目を眩ませる何かなど、マイナスの方向へ人を引きずり込もうとするものが溢れている。それに惑わされず、自分の中の「正しさ」を持ち続けることが幸福になる一番の道だと思う。


 「AV女優」、それはリスクを伴い、ある種の人からは酷い言葉を投げつけられ、決して割りのいい仕事ではない。だけど、自分で自分の中の正しさを信じていけば、決して「不幸」にはならない、それは多分、どんな仕事、そしてどんな生き方にも通じるものじゃないかという希望が見える。
 あとがきの中で、森下さんはこう書いている。


「あたしには夢も希望もなく、その在りかさえもわからなかったくらいなのですが、自信を持っているものが唯一あるならば、それは自分の中の『感覚』というやつだけです。嗅覚。直感。自分の求めているものを探し当てる能力。何だかんだ言っていつもそれだけが頼りでした」



 多分、その彼女の「感覚」が、彼女の「正しさ」なのだろう。


 最近、私が思うこと。人の人生に「勝ち負け」は無く、そんなものを追い求めていくと、あまり良い方向にはいかない。ただ、「勝ち負け」は無いけど、「幸福」と「不幸」は存在する。そして、「幸福」な人間というのは、幸福になろうと思っている人間だ。そんなの当たり前やんかと言われそうだけど、世の中には余計な「勝ち負け」にこだわり過ぎてマイナスの方向へ足を引っ張るものに乗せられて「不幸」になりたがる人間も少なくない。どうしてか。楽だからだよ。自分の中の「正しさ」から目を背けて弱さや卑怯さを肯定してくれる外的なモノに乗っかる方が楽だからだよ。逃げてる方が楽だからだよ。人のせいにしたり、世の中のせいにする方が楽だからだよ。人に何かを与えるより求める方が楽だからだよ。そうやって、人間は楽な方へ楽な方へと流れて、人を惑わす悪魔の声に耳を傾け自分自身から目を背け、「正しく生きること」を忘れる。



 幸福になること。それは実は簡単なことで、正しく生きればいい。余計なことに惑わされず、自分にとって何が正しいのか、自分自身で判断し、自分を信じて「自分の感覚」を大事にして生きること。そして自分に与えられた全てのものに感謝すること。
 生きているということだけでも、本当は、ものすごく幸福なことなのだから。


 そうやって、「正しく」生きることが出来たなら、人は誰でも菩薩になり誰かを救い、そうすることで自分自身も、もっともっと幸福になることができる。「菩薩」っていうのは、実は仏じゃないのですよ。「仏になる為に修行している」のが菩薩。完全に悟ってはいないんですよ、仏じゃないので。慈悲の心を持ち人を救うことによって、仏になろうとしているのが「菩薩」なのです。
 「菩薩」は、人間なのです。悩みも苦しみも持ったままで、前を向いて生きていこうとする人間なのです。



 私は、きっと一生、自分の性についてもAVに対しても葛藤し続けるだろう。ついふらふらと、余計な事に惑わされてマイナスの方向へ行きそうになることも、しょっちゅうだ。だけど、今までいろんなことがあったけれども、自分の「感覚」を信じるようになって初めて自分は幸福だと思えることが出きるようになった。自分の「感覚」を信じること。そして、自分の力ではどうにもならない何かに遭遇した時は、祈ること。
 信じることと、祈ること、そして幸福になろうという想いを常に忘れずにいて、やるべきことを精一杯やっていったら、間違いはないと思う、多分。



 先にも述べましたが、森下くるみさんのこの本「すべては『裸になる』から始まって」、出版社倒産の関係から、今現在は手に入りにくいかもしれませんが、別の出版社から再発売された際には、機会がありましたら、読んでいただきたい本です。

 AV女優・森下くるみという、一人の女性の物語。
 元気の出る本です。



 他の誰でもない、自分自身の人生を、自分の中の「正しさ」を信じ、自分に与えられたものに感謝し、生きていくこと。
 非常にシンプルだけど、一番の幸福への近道が、確かにそこには存在する。







 上記の事情により、手に入らないかも知れませんが、参考までに、こういった本です
http://www.bk1.co.jp/product/2773240

 森下くるみさんのブログ「くるみの間」
http://blog.livedoor.jp/morisitakurumi/

出演作はこちらから買えます
http://omproadmin.kir.jp/shop/

 
 彼女の「エロさ」については、長くなるから書けませんでしたが、「正しくエロい」つまり非常にいやらしいと私は思います。