わたしの子供になりなさい ―「性感Xテクニック」 性感師・南智子 監督・代々木忠 ―

 「エロい」女とは、男を大いなる慈愛で包み込み愛する女、つまりは絶対的な「母性」で他者を抱くことのできる女ではないのだろうか。


 私がAVに興味を持つきっかけとなったのは、代々木監督の作品だった。代々木監督の「ザ・面接」シリーズを皮切りに、近所の小さなビデオ屋の「代々木監督コーナー」のビデオを借りまくった。二十歳ぐらいの頃だろうか。まだセックスどころかキスの経験も無い私は「セックス」を描く「AV」に衝撃を受けた。

 そしてビデオだけではなく、代々木監督の名著「プラトニック・アニマル」、この本は本当に世に広く読まれる本だ。クソみたいな恋愛・セックスマニュアル本を凌駕する名著だ。

 アテナ映像からは、ありがたいことに過去の「名作」が復刻してDVDとして発売されており、「消費されない名作」を愛蔵することが出来る。本当に、ありがたい。私がAVに関して時折猛烈に感じる「もどかしさ」は、AVが消費されてしまうメディアであること、そして「男が見る」「アダルト」というカテゴリーであるが故に「世の中に届きにくい」こと、この二つだ。
 「アダルト」というカテゴリーだからこそ描くことの出きる、セックスを通した「人間の姿」だけれども、それでも時折猛烈にもどかしい時がある。だからこういう形で「名作」が世に再び出ると、すごくありがたい。



 『ATHENA CENTURY Ⅲ ―性感Xテクニック―』は「セックスワーカー」「言葉攻めのカリスマ」と呼ばれる南智子(非常に恐れ多いのですが以下敬称略)が、言葉という武器で名だたる男優を、女性を昇天させる作品集である。

 以前、二村ヒトシ監督作品について述べた時http://d.hatena.ne.jp/hankinren/20070120#p1に、「画面の中でセックスする女性が菩薩に見える時がある」と私は書いたけれども、まさに、ここに登場する南智子は、菩薩以外の何者でもない。ただ彼女は挿入という意味でのセックスはしていないし性器を出してもいない。しかし、そんなことはこの中で何の意味も持たない。画面を見ずに音声だけ聞いても南智子の菩薩性と「エロさ」は損なわれることはない。

 菩薩とは何か。
 仏教用語としての「菩薩」という言葉をここで説明するのは趣旨と逸れてしまうので、私がここで使う「菩薩」という意は、「慈悲」であったり「絶対的な母性」であったり、私が「菩薩像」を見た際に、その表情から窺い知る印象だと捉えて欲しい。
 「慈悲」も「母性」も「我」すなわち「エゴ」を捨て「自分以外の他者」を自分以上に慈しむことのできる、「愛」の状態だと思う。そして自分の胸に手を当てて考えて見ても「我」を捨て、自分以上に他者を慈しむことの何と困難なことか。


 南智子は画面の中で対象に考える隙を与えず言葉をひっきりなしに繰り出す。

 「あ〜なんてスケベな身体なの、南のここも熱くなっちゃう、ほら、見て恥ずかしい格好!すっごいエッチな格好ね、あなたのオマンコ私の指を咥えて離さないわ、どう気持ちいいでしょ?ほぅらあなたのエッチなおまんこがヒクヒクしてる、私のクリトリスをあなたのオマンコにぶちこみたいの」

 言葉が頭に絶え間無く流れ込む、言葉の激流に抵抗する隙も与えずに言葉が頭から身体の芯から末端まで流れ込み肉体は言葉に支配される。言葉の激流に対象の「我」は飲み込まれやがて「我」という鎧は崩壊し「空」の状態となり昇天する。

 そして「言葉攻め」とは言うけれども南智子から発せられる言葉は対象者を「肯定」する言葉である。どうしようもなくスケベで、愛されたい可愛がられたい、子供のような対象を「言葉」で肯定していく。

 人は誰でも大人になるにつれ身を纏う鎧を固めて、「社会」という鎖に縛られる。鎧を脱いで鎖を解き放てばそこには「許されたい」「愛されたい」自分の全てを肯定してくれる「母」を求めて泣く裸の子供が佇んでいる。


 「許す」「肯定する」と、ただひたすら甘やかしたり欲しい物を何でも与えるのとは全く違う。ひたすら甘やかして欲しがる物を与えるのは、それは対象が自分の所有物だと思っているから、あるいは自分の所有物にしたいからに過ぎない。相手を一つの人格を持つ一人の人間として見ていないから、「欲しいものが何でも得られる」「世の中は自分を甘やかしてくれる」と勘違いして、社会の中で他者と共存することのできない愚者を生み出すのだ。

 自分の為に、自分の所有物だから「愛したフリ」をして「我を押し付ける」、そんなことが「愛」のわけがない。


 「我」を捨てて、相手を愛おしみ、相手の存在そのものを肯定し祝福する。宗教者達が説き続けた「愛」のようなものを私は南智子に強く感じるのだ。

 南智子の言葉の激流を聞いて、私は「声明」という仏教音楽を思い出した。絶え間なく繰り出される言葉の洪水が聞く側を「許されたい」「肯定されたい」「愛されたい」子供に戻してくれる。そして「子供」になった者達は、身体だけではなく脳の髄まで南智子に託して「すさまじくスケベなケダモノ」になるから、エロい。


 「プラトニック・アニマル」の中で代々木監督と対談している彼女の言葉も、ビデオの合間に時折挟まれる「性」についての言葉も非常にシンプルながら説得力がある。だから私は、この人は本当に「言葉の天才」だと思うのだ。


 想いの籠もる言葉には「言霊」が宿る。だから言葉は非常に重要で、時には人を救い、時には暴力になり、時には人を至福の境地に至らせ、人を揺り動かすのも救うのも、いつも「言葉」だ。だから怖い。でも、だからこそ必要で、大事にしないといけないものだ。人も自分をも許し愛して救うことが出来るのは言葉だし、傷つけて苦しめるのも言葉だ。
 だから「言葉」であなたはあなたを許しなさい肯定しなさい傷つけるのを止めなさい、あなたはあなたを愛しなさい許しなさい、あなたを救うのは「偽りではない言葉」だ。

 「偽りの言葉」と「偽りではない言葉」を見極める目を持ちなさい。「偽りの言葉」に惑わされて愚者の道に迷い込んで苦しむことを止めなさい。世の中には「偽りの言葉」が溢れている。「偽りではない言葉」で自分を愛して許しなさい。「偽りの言葉」を吐くと苦しくなるのは自分だ。偽りはどこまで行っても偽りにしかならないから、いつか自分を苦しめ出口の無い闇に追い込んで行く。


 ビデオの絡みの合間のトーク場面でも、「レズビアンでは無い」南智子は、さりげなく女の子の肩を抱いたり、母が子を抱くように自然に触れている。包み込むようにさりげなく女の子に触れている。ビデオの中で一度だけ出会い、おそらく二度と会うことはないであろう女の子達に向けて南智子は「愛してる」と言わんばかりの慈愛に満ちた笑顔を向けている。


 人は言葉で傷つきもするけれども、言葉によって救われる。南智子の天才的な言葉攻めを聞いて、私は、もう一人の「言葉の天才」の、この歌を思い出した。




 疲れているのなら だまって抱いていよう
 おそれているのなら いつまでも抱いていよう
 もう愛だとか恋だとかむずかしく言わないで
 わたしの子供になりなさい
 もう愛だとか恋だとかむずかしく言わないで
 わたしの子供になりなさい




       ―『わたしの子供になりなさい』 中島みゆき ―



 自分の大切な愛おしい人にこそ偽りの無い言葉を尽くせ。それによって偽りの言葉で苦しむことから人は解放される。

 この偽りだらけの世の中から人を救うのは、「言葉」だ。






『ATHENA CENTURY Ⅲ  ―性感Xテクニック―』 http://www.athenaeizou.com/default.asp

プラトニック・アニマル』 代々木忠・著 http://www.amazon.co.jp/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%83%AB%E2%80%95SEX%E3%81%AE%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E5%BF%AB%E6%84%9F%E5%9F%BA%E6%BA%96-%E4%BB%A3%E3%80%85%E6%9C%A8-%E5%BF%A0/dp/4877288287/sr=8-1/qid=1171885971/ref=pd_bbs_sr_1/503-6381156-7475142?ie=UTF8&s=books