お前も私も女という醜悪な怪物だ ―「グロテスク」 桐野夏生―


 

 『娼婦になりたいと思ったことのある女は、大勢いるはずだ。自分に商品価値があるのなら、せめて高いうちに売って金を儲けたいと考える者。性なんて何の意味もないのだということを、自分の肉体で確かめたい者。自分なんかちっぽけでつまらない存在だと卑下するあまり、男の役に立つことで自己を確認したいと思う者。荒々しい自己破壊衝動に駆られる者。あるいは人助けの精神。その理由は女の数だけ存在するのだろう。』 (ユリコの章ー「生まれついての娼婦」より引用)




 大阪の地下街のその場所は、ラブホテル街に近いこともあり、「出会い系」の待ち合わせ場所としても有名だ。また、そこには「出会い系」ですっぽかされた男達に声をかけられる為に佇む素人娼婦の徘徊する場所でもある。私も、そこで友人と待ち合わの為に一人で立っていると「援助?」と声をかけられた事がある。私は娼婦に見えたのだろうか。

 ネットでその場所が心霊スポットとして以前一部で話題になっていたことがあることを知った。あんな明るい場所が?と意外だった。ネットの掲示板によると、その場所に出るのは赤い服を着た女の霊だそうだ。私には霊感が皆無なので、その場所で何も感じたことはないけれども、あんな連日素人娼婦、出会いを求めて見知らぬ男と会う女達、得体の知れぬ素人娼婦を買う男達が何食わぬ顔をして集う場所に黒い魂の残骸のような物が集まっていても不思議ではないだろう。その場所で自縛霊となってしまった赤い服の女は自分を買った男に殺された娼婦の霊なのだろうか。


 「グロテスク」 週刊文春に連載されたこの小説は八章で構成されている。主な登場人物は、主人公である「わたし」。「わたし」の妹である怪物的な美貌を持つ淫乱の娼婦、後に歳をとり醜くなり客に殺される「ユリコ」。そして「わたし」の同級生で高校時代常に成績がトップで東大医学部に入学するが、大量殺人事件を引き起こすカルト教団に入信する優等生「ミツル」。貧しさの余り娼婦となった妹を愛しながら憎み、妹を殺した後に日本にやってきて、「ユリコ」を殺した「チャン」。そして昼間はゼネコンの総合職年収一千万のエリートOL、夜はホテル街に佇む娼婦「和恵」。

 「和恵」と「ミツル」と「わたし」は、「偏差値の高い」「初等部から大学まである」「その大学を出た有名人は数知れず」「その名前を聞けば誰もが感心する」「生徒達の心に選民意識が培養されている」女子高の同級生だった。お金持ちで、容貌も優れた、生まれながらにして「勝ち組」の少女達が集う世界で、外部から異種混入された者達は、どうすればいいか。


『大人になっていないわたしたちは傷付けられるのを何かで防御し、それには攻撃にまで転じなくてはならないのです。(中略)だから、わたしは悪意を、ミツルは頭脳を磨くのです。そしてユリコは幸か不幸か最初から怪物的な美貌を与えられました。でも和恵は何もないし磨かない。つまり、この厳しい現実というものに対して無知で無神経で無防備で無策なのです。』 (「わたし」の章ー裸子植物群より引用)


 あらゆる差別が存在する世界で出会った女達は、やがて歳をとり、それぞれが「モンスター」になる。頭脳を磨き東大医学部に入学した「ミツル」は修行をすれば高いステージに上がれる「努力が実る」教団に入信し犯罪を犯す。「ユリコ」は売春が発覚し、高校を退学した後、そのまま美貌を生かしモデル業やクラブ勤めをして生きるが、歳と共に美貌も衰え街娼となる。「わたし」は、「ユリコ」の影に脅えながら悪意を磨き続け男を知らぬまま地味な中年女となり生き続ける。

 そして「エリートOL」という社会的地位は手にしたけれども「男を知らない」つまりは「女としては劣等生」の「和恵」は、30歳を過ぎて狂い始める。「痩せてるあたしはカッコいい」とギスギスで気持ち悪いと言われる身体で、「お化けさん」と仇名されるような厚化粧で夜の街に立つようになる。


『痩せてスタイルがいいこと、男にもてること、一流会社の総合職であること。すべてを持っていることが一番かっこいいと思う。昼間は仕事のできる一流会社の会社員で、夜は男にもてる娼婦。スーパーマンみたい。』

『光輝く夜のあたしを見てくれ、と叫びたかった。』 (和恵の章ー「肉体地蔵」より引用)



 和恵の中には、ざわざわと黒い虫がどこからか沸いて出てきて「すべてを持っているかっこいいあたし」のはずの彼女を支配する。


『勝ちたい。勝ちたい。勝ちたい。
 一番になりたい。尊敬されたい。
 誰からも一目おかれる存在になりたい。

 誰か声をかけて。あたしを誘ってください。お願いだからあたしに優しい言葉をかけてください。綺麗だって言って、可愛いって言って、いい女だって言って。』

 和恵の中の「黒い虫」に心当たりが全くない女は、生まれつき劣等感の無い女か、あるいは「勝ち続けていることに気付かない」女か、あるいはただ単に鈍感な女か。いずれにせよ幸せな女であることは間違いない。

 仕事が出来る女と言われたい、もてる女と言われたい、羨ましがられたい、すごいって言われたい、仕事が出来ても容貌が悪ければ「どうせブスじゃん」って言われちゃうから負けなのよ、逆に綺麗で男にもてても「でも馬鹿じゃん」って言われたら負けなのよ、世の中は人をやっかんで人の足を引っ張ろうとしているヤツが溢れてる、いくら勉強が出来て高い収入があっても「女として駄目」だったらそれは負けなのよ。勝ちたい勝ちたい人が羨ましい勝っている人が羨ましい勝ちたい勝ちたい勝ちたいあさましいあさましいあさましいなんて女はあさましい女やっていくって何てあさましくて不条理なことなんだろう。


 あるいは、最初から「わたし」のように勝ち負けの舞台を降りたフリをして悪意を磨き「勝ったつもり」になるか。



  
 登場人物の中で、ただ一人「生まれながらの娼婦」ユリコだけが黒い虫を自分の中に飼ってはいない。「人に勝つこと」ではなく、「男に欲されること」にのみ、自分の価値を見出すユリコは、自分の容貌が衰え男に欲されることがなくなった時、「殺される」為に、街娼をする。娼婦を憎み、殺してくれる男に出会う為に身体を売り続ける。ユリコだけは歳をとることにも容貌が衰えることにも脅えていない。ただ、殺されることだけを待っている。「生まれながらの娼婦」ユリコの中には滅びる事を待つ悟りに似た虚無しかない。だから、黒い虫など存在しない。おそらくこの物語の中で一番自由で幸せな女だ。


『あなたもあたしも同じ。和恵さんも同じ。皆で虚しいことに心を囚われていたのよ。他人からどう見られるかってこと。その意味で言えば誰よりも一番自由だったあのは、ユリコさんよ。(中略)あなたがユリコさんに劣等感を抱いて止まなかったのは、ユリコさんの美しさだけではなく、あの人の自由さが、あなたにはどうしても得られなかったものだったせいかもしれない。』 ミツルは、「わたし」に、そう告げる。


 『ユリコは少女の頃から自分の肉体を使って世界を手にいれていたのだ。ありとあらゆる男の欲望を処理することは男の数だけの世界を得ることだ。』 (和恵の章ー「肉体地蔵」より)



 私はかって、金の為だけに複数の男と関係を続けたことがある。恋愛感情と性欲を利用されて私から金を搾取した最初の男、退屈しのぎに甘い言葉で私の心を捉え、自分の望んでいたものと違うと気付いた時に身の毛もよだつような言葉で私を捨てた二番目の男。彼らへの、いや、男への復讐だったのだろうか。私を捨てた二番目の男は、最後に会った時に財布から一万円札を取り出した。サラ金に追われて男にもまともに相手にされない「可哀想な女」を捨てる自分の罪滅ぼしの為か、同情か。私はその一万円札を受け取った。例え同情だとしても罪滅ぼしだとしても私はお金が欲しかったのだ。サラ金への返済に追われ家賃も滞納していたし本もCDも少しでも金になりそうなモノは売ってしまった。昼も夜も働いていた。プライドなんてなかった。

 私は「男」に搾取された金を、自分が「男」から搾取してやろうと考えた。しかし若くも美しくもない私は水商売の面接に行っても断られた。SMクラブの面接にも行ったことがあるが、やはり若くも美しくも、そして「女王様」の経験も無い私は稼げそうになかった。風俗の面接でも断られたことがある。そういう知識が全くない私が電話した店で「25歳以上はキツイ」と言われた。AVに出る女や風俗をする女を「金の為にリスクの大きいことをして不特定多数の男に股を開く馬鹿女」と言いきる人間に反論は出来ないけれども、私もその馬鹿女とたいして違わないのだ。もし私が若くて美しくて東京にでも住んでいて、少しでも自分という人間に商品価値を見出していればAVにだって出ていただろう。金の為に股を開くく馬鹿女、キスすらしてくれない男の為にサラ金に手を出した馬鹿女、男のいうことを何でも聞いて奴隷のフリしてついには呆れられて嫌われた馬鹿女、その金を逆に男から搾取してやろうと目論んだ馬鹿女。
 私は娼婦を嘲笑できない。




 私は男に復讐しようと考えて金を持っている男に近づいた。頭の中は金、金、金、それしかなかった。金の為に媚態を演じることも覚えた。男の精を放つことで私は復讐したかったのだ。昔は和恵のように同性に対して「勝ちたい勝ちたい勝ちたい」と思い続けて劣等感を増幅させていたのかもしれない。だけど男に復讐しはじめた時から私の敵は同性ではないことに気付いた。私を苦しめた男が憎い憎い憎い殺してやりたい殺してやりたい殺してやりたい、いいや、違う、本当は、違う、殺されたい殺されたい殺されたい自分を殺せない私を誰かに殺して欲しくてしょうがなかった。


 憎みながら復讐するセックス。それは「支配欲」と「征服欲」という名の快楽だった。「好きな男に貢いで借金した可哀想な女」に同情する男達は、私に美味しいものを食べさせてくれた。時には二番目の男のように少しだけ「お小遣い」をくれる人もいた。昔読んだ漫画の中の「同情という餌で男は釣れる」という台詞を思い出した。男達は「可哀想な物語」に同情して「助けてあげたいけれども僕には何もできない」と言いながら私の「物語」に欲情して私と寝た。男達が現実には何もできないし助けになんかならないことは、わかっていた。男は嘘をつく口だけの生き物だと私は思っていて信用なんてしてなかったから期待なんてしていなかった。


 どうしてこんな生き物が怖かったのか。どうして男に相手にされないとか、そんなことが怖かったのか。男にもてない女は価値がないとか、そんなことをあんなに脅えて劣等感を増幅させていたのか、今は、もう思い出せない。私は男を憎んで哀れみ哀れまれながら精を放つことで男が怖くなくなった。それと同時に悟りに似た虚無を手にいれた。絶望と諦めという名の「虚無」を。



 私が好きになった男達に、あんなふうに扱われたのは、私の中の何かが男に私を憎ませたのだろうかと考えることがある。お前はセックスが好きだから身体を売れと言われたことは複数あって、どうしていつも「恋人」に「娼婦」扱いされてしまうのだろうと考えると、それはやはり憎まれてるからではないかと思うのだ。憎まれてしまうのは、私が未だどこかで男を憎んでいるからなのだろうか。

 「復讐」「支配」「征服」、そんなセックスをしていた頃は、とにかく殺されたかった。私には未来は無い。男に貢いでサラ金に手を出した性欲に滅ぼされた誰からも愛されないキチガイ娘に未来などない。「勝ちたい勝ちたい勝ちたい」とぶんぶんと飛び回る黒い虫の代わりに「殺して殺して殺して」と常に顔の周りを嫌な羽音をたてて飛び回りとりついている蠅が一匹離れなくなっただけだ。


『体を売る女を、男は実は憎んでいるのよ。そして体を売る女も買う男を憎んでいるのよ。だから、お互いに憎しみが沸騰した時に殺し合いになるのよ。あたしはその日が来るのを待っているから、その時は抵抗せずに殺されるわ』

『ユリコは間違っています。身を売る女の理由はひとつ。この世への憎しみです。それは確かに、愚かで哀しいことですが、男もまた、そういう女の感情を受け止めざるを得ない時もあるのです。その瞬間が性交にしかないのだとしたら、男も女も愚かで悲しいのでしょうか』


 私は、かって、男を買った。最初の男を自分のところに引き止める為に、金を出し続けた。男は娼婦で、私は娼婦を買ったのだ。唇を許さない娼婦を、何も魅力らしき物を持たない私は、金で引きとめたのだ。私は金を出して女を買う男も、身体を売る娼婦も、笑えない。どちらも、私だ。


 いや、私だけじゃない。気付いている人は、たくさんいるだろう。社会の中で「女」であること。そのことそのものが「娼婦」であることだということも。「女」だからおごってもらう、「女」だから女にしかできない仕事をして高い収入を得る、「女」だから男に養ってもらえる、「女」だからこそ得ることのできる特権は、たくさんあって、それは男の欲望の対象である「女という商品」だから故の特権だ。


 本当は誰も娼婦を笑えない。娼婦を憎む男や娼婦を蔑む女は、「自由であること」「解放されていること」へ嫉妬しているのではないかと思うことは傲慢すぎるだろうか。
 娼婦を蔑む女へ、あんたは自分のおまんこを使って何かを得たことはないのかと聞いてみたい。
 娼婦を憎む男へ、あんたは本当は性行為に「男」という価値が必要がないことを気付かせる娼婦という存在が怖いんじゃないのかと聞いてみたい。
 いや、気付かせてやりたい。「性を売る女」を、完全に悪だとか、自分と関係ない存在だと非難して蔑む人間の胸倉を掴んで耳元で笑いながら怒鳴りつけて気付かせてやりたい。



 「グロテスク」の中には、「愛」らしきものが全くと言っていいほど登場してこない。「自我」に囚われて不自由な人間達の悲鳴のような叫びと、「虚無」しかなくて自分を殺してくれる男を求める為に身体を売り続ける女達の声明しか聞こえてこない。しかしこの「愛無き世界」の何とリアルなことか。


 私が、あのまま「和恵」にも「ユリコ」にもならなかったのは、果たして幸福な事なのだろうか。私は幸いにも幾つかの自分を救う出来事と遭遇して街娼にはならなかった。自分を殺してくれる男を待つ為に身体を売る街娼には。だけど、それは、本当に少しの偶然が存在しただけの話で、街に佇む街娼達は、自分と全く縁もゆかりも無いものではないのだ。


 だから、あのホテル街に近い待ち合わせ場所に佇む赤い服を着た幽霊というのは、もしかして、もう一人の私かもしれないと思うこともある。

 
 しかしこの「グロテスク」のラストの爽快さは、なんだろう。「堕ちていく」はずなのに、「堕ちるとこまで堕ちた」解放された自由な女達に羨望じみた感情を抱くのは何故なのだろうか。「堕ちた」女達は、私達の手の届かない高みに昇り天上の至福を得たかのように笑みを湛える。




 時折、未だに私の中の黒い虫がぶんぶんと騒ぐ時があるのです。
 「殺されたい殺されたい殺されたいお前は生きる価値などないから早く殺されるべきだ殺されなさい」と。
 堕ちて解放されることが出来なかった私の中には黒い虫が飛び回り続けるのです。その黒い虫に支配されて絶望しないように、私はこうして自分の傷を書き続けるのです。


 「グロテスク」は、読む度に苦しい。自分の傷をえぐる為に読み返しているようなものだ。それでも女に生まれて女として生きることについてまわる原罪から目を逸らしながら生きていくことの方よりも、傷をえぐりだし刺青のように肌に刻んだまま生きることの方が、これからも生き続けていく為の道標を与えてくれるような気がする。それはきっと、私が「女を売る」「セックスを売る」アダルトビデオを時には痛みを感じながらも見続けて惹かれていることと、多分、根源は同じだ。


 きっと、傷をえぐり続ける私も「グロテスク」な「モンスター」なのだろう。
 けれども、「モンスター」になることは、「不幸」なこととは限らないのですよ。

 私はまったくのところ、自分のことを「不幸」だと思ってはいなのですから。
 



 「グロテスク」(上・下)  桐野夏生 文春文庫http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4167602091/ref=s9_asin_title_1/503-6381156-7475142