好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ
好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……(夜長姫と耳男より)
まっすぐ家に帰りたくない夜が、ときどきある。
何か帰りたくない明確な理由があるわけではない。帰ってみても、誰もいない。わずらわしいものなどいないのに、何となくまっすぐ帰りたくない夜がある。
夜がそうさせるのだろうか。普段忘れようとしている心の底の深い部分を、夜が闇と共に沸き起こすのだろうか。忘れたいことや、考えたくないことがありすぎて、だからこそ忙しく何かしていたいのだが、それでも隙を見つけ奴等はわさわさと目を覚まし、不安と悲しみと怒りを思い出させる。
まっすぐに家に帰りたくなかったある夜に、鬱屈とした気分で私はいつもと違う駅で降りて、ある本屋に向かった。駅前にあるショッピングセンターの中にある、小さな本屋。スペースはそんなに広くないのだけれども、手にとりたくなる本が入り口近くに並べてある。最初にこの本屋を見つけた時は、どれだけ嬉しかったことか。ベストセラーだけしか見つけやすい陳列をしていない大型書店にうんざりしていた時に、この本屋に迷い込んだ。
店内をぶらぶらとして、漫画コーナーで足を止めた。
「夜長姫と耳男 近藤ようこ」と、書かれた表紙の本を迷わず手にした。
「夜長姫と耳男」は、作家・坂口安吾の傑作短編小説で、今まで何度も何度も読んだ。
うつくしくてかなしくてくるしくなる物語。それが、近藤ようこの手により漫画化されていることをここで初めて知った。あの物語を他の誰かが絵にしていたら、買うことは無く、ただ忌々しく思っただけだろう。
あの、美しく哀しく残酷な物語を。
「桜の森の満開の下」と並び、坂口安吾が自身の心をノミで切り刻むように血の涙を流しながら描き、そうすることによって、1人の女を自分の中から殺してしまおうとした物語を。
自分の心に巣食い続ける苦しみの根源のような1人の女を殺すために描かざるを得なかった物語を。
安吾の小説だけしか読んでいなかった今までは、これは絶望的な片思いを描いた物語だということしか思わなかった。けれども、この原作に忠実な漫画を読むと、それだけではなく、芸術を「仕事」とする者の心の在り様、在るべき様を描いた物語だと思った。
夜長姫の持仏・ミロクボサツを造るように招かれた飛騨のタクミ・耳男は、自分の心を捕らえ支配する姫を呪いながら蛇の生き血を啜り、獣の血を浴びさせたバケモノの像を造る。
憎しみ呪い恋い慕い念じ魂から血を流しながらモノを造ること、それがヒメの言う「すばらしいバケモノ」をこの世に生み出したのだ。
世の中の人すべてが死ぬことを願い、人が死ぬたびに嬉しそうに笑顔になるヒメは、耳男のミューズだった。今更ながら、「夜長姫と耳男」のヒメ、「桜の森の満開の下」の女は、坂口安吾が狂おしいほど焦がれたある女流作家の影であろう。
そして、男は、女を殺した。物語の中で、つまりは自分の心の中で、殺さざるを得なかったのだ。
苦しいから。
想い続けることが。
絶望的な想いを抱きながら生き続けていくことが苦しいから殺すしかなかったのだ。
そうして物語の中で殺しても、決して生涯その想いから逃れることは出来ないであろうことは知っていただろうけれども、それでも呪って殺さざるを得なかったのだ。
好きなものを呪い殺し争い生まれた物語は、作者亡き後も後世に残り、想いの熱さが閃光を放ち、人の心を焼き尽くし焦がし続ける、永遠に。
苦しい苦しい苦しい苦しい想うことは苦しい。自分の手に絶対に手に入らない人のことを想うことは地獄の業火に焼かれているかのようだ。それがただ一度だけでも手に入った人なら尚の事苦しい。自分を苦しめる「想い」が悪魔にも思える。もう二度と、こんなことはごめんだ。誰も好きにならない誰のことも欲しいと思わないそうして人との関わりを避けて生きていけたならば。もう二度と、こんな絶望的な喪失感を味わうのは、焦がれ死にそうなほど悶える夜を繰り返すのはごめんだ。
だけど想いは夜の闇と共に静かに忍び寄り、背後にすっくと立ち手を広げ苦しむ者を抱きかかえる。人の寂しさにつけこむように心に入り込む。もう二度と、こんなことはごめんだと思うのに。
闇に抱きかかえられながら、殺してしまうしかこの苦しみから逃げる術はないと考える。
安吾が切なる想いを描いた物語は、きっと安吾自身の「バケモノ」なのだ。
オレは山にわけこんで兎や狸や鹿をとり、胸をさいて生き血をしぼり、ハラワタをまきちらした。クビを斬り落して、その血を像にしたたらせた。
「血を吸え。そして、ヒメの十六の正月にイノチが宿って生きものになれ。人を殺して生き血を吸う鬼となれ」
それは耳の長い何ものかの顔であるが、モノノケだか、魔神だか、死神だか、鬼だか、怨霊だか、オレにも得体が知れなかった。オレはただヒメの笑顔を押し返すだけの力のこもった怖ろしい物でありさえすれば満足だった。 (夜長姫と耳男より)
そうして、作家は物語を作った。
ヒメに「すばらしいバケモノ」と絶賛された、バケモノを。
「夜長姫と耳男」「桜の森の満開の下」「私は海を抱きしめていたい」「青鬼の褌を洗う女」などを読むと、私は今はもう会うことの出来ない人達のことや、会うけれど二度と触れてはいけない人のことを思い出す。どうして触れられないのだろう、どうして触れてはいけないのだろう。なぜならそれが過去の存在であるからだ。過去の存在であるはずなのに、いつのまにか自分の一部分となってしまって、離れない。
恋愛なんてするヤツはマゾだ。
恋愛をして傷を負った人間を、何人も知っている。恋愛をして人生が狂った人間を何人も知っている。恋愛をして幸福と絶望と天国と地獄を知った人間を何人も知っている。
簡単にくっついて、はいさようならと簡単に別れてそれを繰り返す人間もたくさん知っているがそんな簡単にくっつき離れるような関係など、人に何も齎さない。天国も地獄も齎さない。地獄を知らない人間は幸福だが、それは同時に天国も知らない不幸な人間なのだ。恋愛なんぞする人間はマゾだ。大馬鹿者のマゾヒストだ。これだけ苦しんでも坂口安吾はこう書いてるではないか。
恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、このほかに花はない。(恋愛論より)
あたしも負けず劣らず大バカ者のマゾヒストだ。
サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに。 (夜長姫と耳男より)
早くサヨナラの挨拶をして、殺してしまわねば。いっそあの時、あの扉を開けて私を招き入れたあなたの腕の中で息絶えてしまっていたならば、よかったのに。
できるなら、殺すより殺される側でいたいと、願う。
どちらがより幸福なのかは、わからないけれども。
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