恋の罪


  「援助交際」って、ロクでもない言葉だなぁと思う。「ニート」という言葉が、働かず親の脛を齧ることの罪悪感を軽減させたように、「援助交際」は売春をする人間と、買春をする人間に言い訳を与えた。私はセックスを売っていない、俺はセックスを買っていない、と。けれど罪を軽減する時点で、それは罪だと言っていることじゃないか。
 売春は、売春です。身体を売る女は売春婦、娼婦。
 私は女は女の身体を持って生まれてきた時から、女という商品であると思っている。商品であるから品定めをされ、何よりも容貌のことをとやかく言われ、当たり前に「美人は得」なのだ。容姿が優れていると、女としての値段が釣り上がるからだ。女は、この「女としての値段」に捕らわれることから逃れられない。あなたは自分には、値段は無いと思っているだろうか? 価値などないと? だったら、心配なんかすることがない。女は女の身体を持って生まれてきた時から、女という価値がついているのだ。穴さえあれば、女なのだ。穴さえあれば、男を受け入れることが出来る、セックスが出来る。穴なら何でもいいという男は、実はたくさんいる。金を払ってでも、穴を欲しがる男は、穴だけを欲しがる男は、確かにいる。とにかく穴に入れたいだけの男なんて、ごまんといる。穴さえあれば、あなたは女としての価値を持っている。穴さえあれば、女なんだ。その穴は、商品になりうる穴なのだから。
 穴を売る女――売春婦は、女という存在そのものなのだ。

 私の友人に中村淳彦という人がいて、彼は口癖のように「売春」と言う言葉をよく使う。セックスを売る仕事ではあるけれど、それに表現というものが付随するAVという世界の中にいる彼が、売春、売春と口にすると、そりゃあ嫌がる人もいるだろうなとも思う。私はセックスを売っているけれど、売春はしていないと思いたい人は、たくさんいるだろうから。
 でも、だって、それ、売春じゃん――その言葉を恐れる男も、女も。


 園子温監督の「恋の罪」を観た。
 1997年に起きた東電OL殺人事件を題材にした、3人の女の物語。

 この映画の舞台となった渋谷円山町には、つい最近行ったばかりだった。渋谷で用事があったので、ネットで駅に近い宿を探していたら、0時以降のチェックインなら安いプランがあったので予約した。宿は円山町の、昼間の「休憩タイム」があるようなホテル――おそらく、普段はラブホテルのような使い方もされているであろう宿で、悪くなかった。渋谷では、知人に東電OLが売春をしていた付近を案内して貰った。私は煙草と酔っぱらいが跋扈する飲み屋街は苦手なのに、風俗街とか遊郭とか、売春の匂いのする場所は妙に落ち着く。何故か、懐かしい。新しいものだらけのオフィス街なんかより、よっぽど、人間の匂いがする。

 映画を観ながら、時折涙がこぼれた。そして、欲情した。映画を観て欲情するのは、久しぶりかもしれない。男に命令され自慰をする女刑事に、後ろから突かれる売春婦に、男の上に乗り腰を振る人妻に、愛でもなく、恋でもなく、セックスをする女達の姿に欲情した。
 観終わった後、夜の街を歩いていて、誰かに縋り付いて泣きたくなった。けれど、そんなことを、私はしない。男なんかに、女のことをわかってたまるかと常々思っていて、じゃあ、もう、男なんていらないと言えばいいのに、それが言えない私は、身を委ねて泣けない。一人で笑い、一人で泣き、ほくそ笑みながら文章を書く。
 こうして、女であることの怖さ、悦び、哀しさ、痛みは、これからも一生ぐるぐると自分の中でまわっていくのだろうなと考えていた。それでも生まれ変わるなら、やっぱり女がいい。女って、おもしろい。醜くてグロテスクで、ドス黒くて、おもしろい。女であることの痛みをひりひりと感じていないと、生きていると思えないような気がする。






映画「恋の罪」公式サイト→http://www.koi-tumi.com/index.html