AVとセックスと混乱と矛盾と

 私は時折、アダルトビデオが怖い。


 そして時には「痛い」。買うことや所有することだけではなく、「セックスが描かれているアダルトビデオというもの」がいろいろな意味で怖くてたまらなくなる時があります。

 AVを見て、そこに出演して裸でセックスする女性に対して「申し訳ない」って思う時があります。そしてそう思うことはあまりにも欺瞞に満ちている事を自覚しながら、その想いを拭えないし、罪悪感も感じるのです。

 
 私の中で、どこか「女の裸」「セックス」は、そんな安いものであってはいけない、そして「仕事のセックス」は良くないものだという意識が存在するからAVを見る時に「申し訳なさ」や「罪悪感」があるのだと思います。3000円ほどの金額で、ましてやタダで「セックス」を見させていただくなんて申し訳がない、と。セックスの映像を商品として買い所有することは良くないことだと。ハダカを、セックスを売る女の人に対しても、それを買って所有する自分に対しても、それは「良くないことだ」という意識が離れない。
 

 10代の頃の私はセックスは結婚相手としかしてはいけないものだと思っていました。そして結婚というものは恋愛の果てにあるものだと。だからセックスは好きな人とするもので、それ以外のセックスは「悪」だと思っていた。だから誰とでも簡単にセックスする人間は汚らわしいし頭がおかしいのだと思っていました。高校は田舎の保守的な進学校で断言していいけどセックスの経験のある子なんて本当に少なかった。大学に入ってからでも周りはそういう人が多くて現実に最初に付き合ってセックスした相手とそのまま結婚したという人は多いです。

 好きな人が出来て、その人も自分を好きになってくれてお互いの気持ちが高まりキスしてセックスして結婚するものだと、セックスは「愛」だと思っていました。だから私が恋愛やセックスに求めるものは重かったと思う。そのくせ男の人が苦手で怖くて身構えてしまい、ますます男性と付き合うことともセックスとも遠ざかって劣等感だけが増幅していきました。


 セックスは簡単にはしてはいけない、好きな人じゃないと。
 そういう少女じみたある種滑稽な価値観に縛られていたくせに、そのくせ興味や性欲は強くて、結局のところ初体験は好奇心に流されてという矛盾した形でした。ちなみに24歳の時です。自慰も初めてしたのは20歳ぐらいです。初キスより初フェラが先という、それまで私が長い間抱えてきた願望とは酷く矛盾した歪んだ初体験でした。

 その後、私はその相手を好きになったけれども相手の方はそうじゃなくて(と、ずっと私は思っていた)それでも自分から離れない相手と自分の少女じみた滑稽な価値観に縛られて私は長い間、他の男と関係することが出来なかったんです。自分の価値観を馬鹿だと思いました。セックスしたいという気持ちと、セックスをしてはいけないという気持ちと、好きな人とセックスしたいという気持ちと、好きな人とセックスできないという現実との狭間のブラックボックスに入り込んでいた20代でした。
 本当に、馬鹿みたいだけど。その男以外の男とセックスするなんて考えもしなかった。


 そのくせアダルトビデオに欲情していた。エロ本や官能小説にも欲情していた。団鬼六の小説の、やくざな男達に辱められる女に憧れてみたり、伊藤晴雨の絵の縛られる女の乱れた髪の美しさに憧れてみたり、アダルトビデオの中のレイプまがいに犯される女に欲情したり、セックスという仕事という前提においてそこで股を開き肌を晒す女の人を羨望したりしていた。


 そうして自分の少女じみた滑稽な価値観と現実に感じる性的渇望の矛盾の狭間で私は漂っていました。そうして「セックスは好きな人としかしてはいけない、それ以外のセックスは悪いことだ」という価値観に縛られすぎてその枠の中に安住しすぎた結果、私は男に貢いで生活が破綻した時に「自分は間違っていた」と思いました。
 「セックス=愛」などでは、決してない、と。セックスは道具だ、人の気持ちを利用する為の手段のなりえる道具だ。
 セックスは好きな人とするものだという価値観を捨てようと思いました。そうしないと私は生きられないと思いました。人を好きになってはいけないと思いました。
 人を好きになったり、セックスしたいという気持ち。未だにそのことに対する罪悪感があります。どうしていつまでもこんな罪悪感を背負い込んだまま生きなければならないのかと思っています。だいぶ、本当にだいぶマシになったけれども。とくに実家を出ることができて、本当に軽くなったけれども。


 だから私は人を好きになっても、人に好きだと言われてもいつも卑屈でした。自分の気持ちも相手の気持ちも信じることができなかった。信じるのが怖かった。弱くなるから、馬鹿になるから、それも怖かった。弱い自分は何よりも嫌いだった。誰よりも自分は弱い人間だと思うから。人を好きになると自分の中の弱い部分がポロポロと出てきてしまい作り上げた壁が崩れて「人に見せたくない本当の自分」が現れそうになり、それがとても怖いから、私は本当は好きな人に「好き」だと、ちゃんと言ったことがなかった。言葉にしてしまうとそれは揺ぎなくなってしまい逃げ場がなくなってしまうから言えなかった。だから嘘をつき続けてきた。自分に対しても相手に対しても嘘だらけで相手の気持ちを試してみたり誠実さの欠片も無い卑怯な恋愛しか出来なかった。


 ずるいから、卑怯だから、いつも逃げ場を作ってしまう。だから「好き」と言えなかった。セックスも同じで、欲情している相手の隙を狙って誘うことはできるけど、自分からしたいと言うことなんて出来ないし怖い。弱いから逃げたいから卑怯だから向き合うことが怖くてできないから。「好き」という事は、自分の大嫌いな弱い自分を曝け出すことだからどうしてもできなかった。


 馬鹿みたいだと思います。セックスに「余計なこと」を求める自分が。「好き」の無いセックスの中に快楽があることも知っているクセに。そういう世界に憧れているくせに。「好き」の在るセックスに散々痛めつけられたくせに。本当は誰とでもセックスしようと思えばできるクセに。いろんな男にも女にも欲情するくせに。


 だからこそアダルトビデオを見ることが「痛い」。
 ビデオの中でセックスをする女の人に欲情しながらも、あなたみたいに顔もスタイルも良い人なら、もっと上手な生き方があるんじゃないの?もっと器用で傷つかない楽な生き方があるんじゃないの?とか勝手に心配してしまうことがある。あなたが肉体に手を加え、セックスを「仕事」でする事によって、それが映像として残ることによって、それをあなたの弱味にしてあなたを攻撃するヤツが出てくるよ、とか、あなたに凄く好きになった人が居て、その人があなたの仕事の事を乗り越えられなくてあなたから離れてしまった時に、あなたはそれでも後悔しないのかとか、本当に「余計なお世話」なことをいろいろ考えてしまいます。どうして「セックスは楽しい」「気持ち良い」という視点だけで見て欲情して見て、それで終わりというふうにできないのか。AVの中で喘ぐ女性を見て、気持ち良さそうで羨ましいなぁと単純に欲情するだけで終われないのか。
 

 セックスを軸に生きることはどのような形であれ矛盾を抱え込んで苦しむようなことだと思っているから、だからセックスを仕事にする女の人達を見るのは時折苦しい。好きな人とのセックス、仕事のセックス、寂しさを埋めるためだけのセックス、排泄のようなセックス、それらをきちんと自分の中で区分してわりきることが出来るのですか?それが出来たならいいけれども、出来なければ抱えなくていい苦しみを抱えてしまうのではないのですかと余計な事を考えてしまうのです。わりきれたらいいと思うし、きちんと自分の中で矛盾の無い形で、どんな形であれ「セックス」を位置づけることが出来たら苦しまなくていいと思う。
 私の友人には「セックスは握手と同じ。ただの肉体の結合による快楽。恋愛感情なんて要らない。」と言う人もいます。そうしてその人はセックスを楽しんでいるように見える。私はそれが羨ましい。皮肉ではなく本当に羨ましい。



 余計な事と言ったら、本当に余計な事です。でもそういう「罪悪感」や「痛み」を、全く無かったことにしてAVを見ることは出来ない。


 私の中で「セックス」の占める位置が大きいからそういうことを考えるのだと思います。「セックス」に求めるものが大きいからなのだと。
 セックスなんて、誰とでも出来ます。穴に棒を入れたら済むことなのに。何も考えずにしたらいいんじゃないかと思います。したいのに。したくてたまらないときがあるのに。でも求めるものが快楽だけじゃないから、そして満たされないことにより悲しむことがあると知っているから、したくてもできない、したいと言えない、そしてそんな自分にうんざりすることが、度々あります。


 
 
 少女じみた滑稽な価値観に打ちのめされた後に、それをやっきになって否定するかのように他の人達ともセックスしてみれば、好きじゃない人とのセックスが思いもよらぬ快楽を齎したりすることも知ったし、その逆もあると思ったし、「楽しい」セックスがあることも、「セックスで相手を支配できる」ことも知って、セックスに定義付けなんかできないことだけはわかりました。そしてますますセックスがわからなくなった。


 セックスがわからない。ただの快楽だけのような気もするし恋愛の終着点のような気もする。「愛」があるセックスだけがいやらしい快楽だとは思わない。何故なら痴漢やレイプ物にだって興奮してしまう。凶暴で破壊的な人でなしのセックスでもいやらしくて興奮してしまう。自分自身も相手に恋愛感情など無くて征服欲と支配欲のみに突き動かされたエゴイスティックなセックスに快楽を感じてしまったことはあるもの。そして恋愛感情など無くても欲情してしまうことはあるもの。


 それなのに、やっぱり未だに私は少女じみた滑稽な価値観に未だに縛られています。「セックスは好きな人とするものだ」という価値観に。その価値観のおかげで、私は自分の恋愛感情と性欲を利用されて昔エライ目にあったというのに、だからこそその価値観を打破しようと誰とでも簡単にセックスできる女、セックスを利用する女になろうと思ったのに、その方が楽に生きられると思ったのに、それでもその馬鹿げた価値観が消えなくて、だからAVを見ることが時折「痛い」。
 

 そして「好きな人」に欲情することも、本当は「痛い」。そして「怖い」のです。好きな人だからこそ痛みが伴うのかも知れない。そして、どこか哀しい。好きになるのもセックスするのも怖くて哀しい。どうしてこんなに哀しいのか。果てが見えてしまうからなのか。どうしてこんなに痛くて哀しいのか。手に入れることは消失を約束されることだから哀しいのか。だからと言って愛情の存在しないセックスも哀しくて痛い。セックスを売る女も哀しいけれども、セックスを売ることが出来ない女も哀しい。セックスをたくさんしている女も哀しいけれども、セックスをしたくても出来ない女も哀しい。セックスをしたくてたまらない女も哀しいけれども、セックスをしたくない女も哀しい。昔の男とのセックスを思い出すとどうしようもなく哀しい。これから先に自分がするかも知れないセックスのことを考えても哀しい。どうしたって、セックスは哀しみを伴う。幸せなはずなのに哀しい。手に入れたはずなのに哀しい。セックスした翌朝は哀しい。セックスした夜も哀しい。昼間の光の中でのセックスは哀しい。夜の闇の中の手さぐりのセックスも哀しい。愛情が存在すると思えるセックスも哀しい。セックスして相手が自分のことを好きじゃないとわかってしまうのも哀しい。その逆も哀しい。どうしたって胸が痛む。セックスして後悔することも哀しい。セックスして、未来を求めてしまうことも哀しい。未来が無いことを知ってしまうのも哀しい。性器と性器が繋がるだけのことなのに、どうしてこんなに哀しいのか。
 どこに行っても袋小路で、全てのセックスは哀しい。


 哀しいけれども楽しい。セックスは楽しい。気持ちが良い。相手のおもちゃになることも、相手をおもちゃにすることも楽しい。声を聞くことも感じさせることも感じることもふれることもふれられることも嬉しい。時には涙が出るほと楽しく嬉しい。哀しみが伴いながらも楽しくて楽しくて楽しくて、だから生殖目的ではないセックスでも確かに必要で哀しいけれども痛いけれども確かに必要で、だから、したいと思う。セックスは楽しい。


 矛盾した感情の尖った針がチクチクと胸を刺す。けれどもその痛みの中には、どうしようもない快楽が潜むことを知っている。痛みを快楽にするなんてマゾだと思う。 
 けれどもセックスしたいと思うことも恋愛も結局のところ人を求めることであり、痛みを伴うことであり、それでも求めざるを得ない人間は全てマゾヒストだとしか思えない。
 

 哀しいけれども痛いけれども性欲も好きな人としたいという気持ちも全て確かに自分の中に存在している。アダルトビデオを見ることも自分がセックスをすることも同じで、そこに痛いものや哀しいものを見てしまい怖くて怖くて袋小路に迷い込みそうになりながらも進んでいってしまう。


 セックスは矛盾だらけで、わからなさすぎて、それでも楽しくて痛くて哀しくて、時にはどうしようもない気持ちに襲われて、怖くて辛くて、それでも気持ちがよくて楽しくて、そういういろんな感情を全て含んだ快楽で、それが無いと生きていけない人間もいるのです。


 

 だから私は、アダルトビデオを見る。そこに自分を含めた「女」の痛みや哀しみや矛盾を感じながらも「セックス」を見る。欺瞞と傲慢さと自己を卑下しながら羨望しながら欲情する。
 それは結局のところいろいろ矛盾した欲望を抱え込まざるを得ない自分という人間を肯定する為でもあるのかと思います。自己肯定しないと人は生きていけない。そうして自分を許していかないと生きていけない。欲望の海に溺れて沈んで息が出来なくなりそうになりながらも、その海の水の温かさに身を浸さずにはいられない。


 だから見ずにいられない。セックスを、アダルトビデオを求めずにはいられない。矛盾にまみれた「私」という人間を肯定する為に、私はアダルトビデオを見る。