奇妙な果実 ― 「まり子 ファイナル」 カンパニー松尾監督作品 ―



「ところで、性愛の快楽よりも大きくて激しい快楽を、君は何か挙げることができるかね?」

「できません」と彼は言った、

「またそれ以上に気違いじみた快楽も」


                       ―プラトン『国家』第三巻より―



 カンパニー松尾監督の「まり子 ファイナル」、年末年始東西墓巡りばかりしていたわたくしが紅白も見ずに大晦日に「ヌキ納め」しておりましたAVです。皆様すいませんって、謝ることやないんやけど一応謝っておきます。松尾監督の「セックスフレンド」淫乱素人「まり子Gカップ」とのハメまくり三部作のラストです。

 「東北在住で病院関係に勤める素人」のまり子は終始大きめのサングラスで目を隠しております。きっと美人なんだろうけれども、顔の三分の一、しかも最も重要なパーツである目が隠されている、ほぼ「顔がわからない女」と松尾監督とのセックス。何が凄いってカラダが凄い、括れたウエストと張った腰と、たわわな乳。「顔がわからない」からこそ、その分そのカラダに目がいく。女の視線の先がわからないからこそ、観る側はその闇に蠢く奇妙な果実のような女のカラダに魅せられる。


 何かを隠すことにより、他の「見せたいもの」を、いつもの倍以上に見せつける。その隠す「何か」が、実は観る側が1番見たいもの(表情、顔)であるなら尚更想像力を掻き立てられジレンマを感じるが故に、視線を逸らすことができない、早送りすることもできない。
 「顔が見えないのに、こんなにエロい」のではなく「顔が見えないからこそ、こんなにもエロい」のだ。

 何もかも曝け出して見せればいいってもんじゃない。何かを隠すことにより「欠如」「穴」を敢えて作り出し、さらにその欠如が神秘性を帯びているなら尚更のこと幻想を生み出し欲情をそそらせる。秘すれば花。何もかも曝け出した完璧な物質よりも、何らかの欠如を持っている物質の方が我々は愛せるからだ。
 わからないものにそそられる。見えないものにそそられる。わからないものに惹かれる。見えないものに惹かれる。わかりたいから、見たいから、知りたいから。


 「まり子」はその「目」だけではなく、その存在そのものが神秘性を帯びている。会えばいきなりむしゃぶりつきセックスを求めるほどの淫乱女のハズなのに、彼女の小声で自然な敬語からは、彼女の品の良さと普段の「オカタイ仕事」ぶりと、監督との微妙な距離感が伺われて、尚一層観る側はそそられる。

 完璧なぐらい欲情をそそる材料が備わる女、しかも「淫乱」。


 カンパニー松尾監督のビデオは、毎度毎度そのセックスが展開されている場面の「唯一無比の空気」にむせ返りそうになる。セックスなんてそんなバリエーションがある行為ではないし、出てくる女だって全部が全部勿論エロいわけがないんやけど、じゃあ「エロいAV」って何なのかって言うと、女優でもなく性行為そのものでもなく「場面」やと思う。濃厚な、息苦しくなりそうな空気が充満した「場面」。

 それもいろんなパターンがあるから、松尾作品のような緊張感漂う良い意味での閉塞感がある「場面」だけがエロだと言ってるわけやない。代々木忠監督の「ザ・面接」シリーズなどは、代々木監督と面接軍団が「素人女が開放される」場面作りをしていて、そういった開放感という種類のエロもあるから私はヌケるし。ま、そんなことは、それぞれだ。


 ただ、松尾監督の作品に充満する空気は「逃げ場のない空間」で、カメラだけが、やっとこさ息が出来るぐらいの出口と繋がる細いパイプのようだ。


 その「逃げ場のない空間」に充満する空気に、あなたは身に覚えはありませんか。

 一対一で、男と女が対峙する「逃げ場のない空間」。セックスをする前でも、してる最中でも、した後でも、漂うことがある「逃げ場のない空間」の、あの空気。
 ああ、もう、私は本当に逃げ場がない、自分から望んだことの筈なのに、私はこの空気を怖がっている。こんなはずではなかったのに。私はもっと上手くやれるはずだった、思い通りにやれるはずだった。つまりは相手を支配できるんじゃないかと無意識に企んでいたのだ。どうにもこうにもかなわないこの空気に身を置いて、初めて自分のそんなしたたかな傲慢さに気付かされた。そんな私の傲慢さは打ち砕かれて壊れてしまった。そして壊れたことが気持ちいい。この空間はどこにも逃げ場がない。逃げ場がないから、目の前にいる相手に身を委ねるしかできない。
 ああ、そうか、これが、「セックス」。
 この「逃げ場のない空間」が、セックス。


 セックスをする前の、あの「空気」
 セックスをしてる最中の、あの「空気」
 セックスが終わった後の、あの、けだるく、やるせなく、胸の痛みが心地よい、寂しい、あの「空気」。


 カンパニー松尾は、「セックスするともれなくついてくる全ての感情が漂う空気」が充満する場面を、カメラに収め、我々に提供してくれる。

 
 本当に「カラダだけ」の関係でいられるのならいいけれども、セックスというヤツは快感とか排泄だけではなく、いろんな副作用を持っているので、「カラダだけ」でいるつもりでも、あるいは「たかがセックス」ってなつもりでいても、時には重症に至るほどの破壊力を持っていやがる。

 セックスしてカラダで繋がるということは、残酷なぐらい自分でも思いもよらなかった感情を呼び起こされたりすることもあって、そういう時に、やっぱりカラダと心は繋がってるのだなぁと驚嘆する。だけどいつからか、「セックスするともれなくついてくる感情」の中でも、切なさとか、諦めとか、悲しみとか、そういった苦しくなる種類の厄介なヤツの方が、よりたくさん溢れるようになった。
 そのことが苦しくてたまらないこともあるけれども、エロの神様とはそう相性悪くもないようで、「セックスにまつわる感情」というパンドラの箱の中には、最後に甘い果実が芳香を漂わせ寝そべっているので、幸いにもセックスを嫌いにはならない。


 「あの空気」を描く松尾監督の作品は、時にはチクチクと胸を刺す。だけどそれは、セックスという料理に振り掛ける刺激のあるスパイスのようなものだ。スパイスの効いていない料理の方が好きで、それで「ヌく」人もいるだろうけれども、私はスパイスが効いてる料理の方が美味しいと思う。
 身に覚えのある、「あの空気」。時には痛い、「あの空気」。スパイスにより料理が引き立つ。いや、スパイスって料理の味を引き立てるもので、本来はこういう味なんだってことを思い出させる。

 
 バックで突かれまくる「まり子」の括れたウエストから続く尻は、うごめく果実のようだ。突かれて揺れて、もみしだかれる乳も、果実のようだ。ペニスを挿入され広げられる性器も果実のようだ。乳首だってクリトリスだって、何かの実に似てる。女のカラダはどこもかしこも奇妙な果実。

 お前が手にするその果実、蜜の溢れそうなたわわな果実。その果実を頬張って口にするがいい。果実の甘さと触感を思う存分味わってみるがいい。お前がその果実を丁寧に愛でるように味わえば、その果実は蜜を垂らし音を奏で声をあげるだろう。蜜が垂れてきたならその蜜を味わえばいい。お前の舌と指とペニスの愛撫でじゅくじゅくと中から流れ落ちてきたその蜜を味わえばいい。時には歯を立ててこぼれそうなたわわな乳房にかじりつきお前の痕を残すといい。お前が手にするその奇妙な果実を、お前は存分に全身を使って味わえばいい。お前の舌で、ペニスで、指で、カラダのあらゆるところを使い、その奇妙な果実が熟れて融けて崩れてしまうほどに味わえばいい。
 その果実は、お前のために、そこにあるのだから。
 お前に食われる為に、そこにあるのだから。


 「淫乱な女」とは、どういうことなんだろうと時折考える。不特定多数の男と寝る女が「淫乱」なんだろうか。不特定多数の男と寝て、優越感を得たり支配欲を満足させている女に私は羨望しない。私が羨望する「淫乱」な女は、特定の男の前で淫らになることのできる女だ。


 「あなたの前では淫らになる」女こそ、本物の淫乱女だ。支配欲を持って構えているうちは淫乱女にはなれない。
 昔、「素人の淫乱女」を演じていた時があった。その方が男に喜ばれると思っていたからだ。男を喜ばせることしか、男に求められる術はないと思っていた。必要とされたかった。必要とされたかったから、男を求めて喜ばす「淫乱女」を演じていた。演じているうちに、自分は本物の淫乱女じゃないかと錯覚もした。
 こんなにアタマは、冷めているのに。
 カラダも、冷め切っているのに。

 
 淫乱な女になりたい。男を支配して喜ばすことにより必要とされるために淫乱女を演じるのではなくて、目の前の人に心もカラダも委ねて感じる幸福な淫乱女に。
 だから、やっぱり心とカラダは繋がっている。心が委ねることができないと、体も委ねることはできない。たとえそれが「カラダだけの関係」だとしても、愛とか恋なんかじゃなくっても、淫らになれる果実と果実の擦れ合い、それが、多分、「セックス」。


 どんなに肌を合わせても、淫らに絡み合っても、必ず朝が来てしまうので、服を着て、その「場面」から退場せねばなりません。ほんの数時間前まで隙間を埋めるように肌を合わせていても、ずっとそこに居られるはずはないから、退場する為に服を着て、もと居た世界に戻らねばいけません。
 そのことが、とても哀しい。ものすごく哀しい。
 
 「セックスするともれなくついてくる全ての感情」を映像化した松尾監督の作品には、そういうスパイスが効いた「猥雑さ」がある。


 お前が手にしたその果実。闇に揺れるたわわな果実。淫靡で芳醇な芳香が漂うその場面で、性器と性器が擦れ合い蜜の溢れる音がする。女がお前を貪り、お前が果実を味わい、やがて来る別れの時間までは男も女も誰に遠慮することもなく淫乱になればいい。夜に見せつけて、恥ずかしいとこいっぱい見せつけて、いやらしいものを見せ合って、どうか見て下さいスケベな私の果実を見て下さい、あなたのいやらしい言葉と指で私は感じます、だからどうか男も女ももっともっと淫らに、淫乱になってしまえ。


 結局のところ、我々が見たいものは、何か。
 
 セックスだ。
 
 セックスするともれなくついてくる全ての感情、あの空気。

 そしていい女のカラダ。

 見たいのは、それだ。





 そうやって、いい女とのセックスを見せつけられて、カンパニー松尾に羨望したなら、目の前の扉を開けてその部屋から出ろ。扉が開かないなら、足で蹴り破ったらいい、とにかくその部屋から出ろ。ちくしょういい女とハメやがって、俺も私もせんずりばっかじゃなくってハメてぇよと羨望しながら、とにかく考えてぐちゃぐちゃになったり、逃げ場を探すことに労力と時間くったり、世界に自分だけしかいない相手不在のオナニーみたいなセックスしたり、そんなことする暇があるなら外に出ろ、外に。そして世界と対峙しろ。世界と、人と対峙して、戦って、時には痛い目にあったりしながらも、したたかで優しい大人になって、男は女を抱いて女は男に抱かれて、淫らに、もっと淫らに、奇妙な果実の虜になってみせろ。


 観たいのは、セックス。
 セックスと、もれなくそれについてくる、あの空気。

 そして、奇妙な果実。

 もみしだくと、指がのめり込む、思わず爪を立てて痕を残したくなる、たわわな果実。
 これは俺のものだからと歯型を残したくなるあの果実。
 出したり入れたりすると、蜜が淫猥な音を奏でるあの果実。

 指を入れると、温かく白い液と襞がまとわりつく、あの果実。

 あの、奇妙な果実。









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 ありがとうございます。