「由美香」  平野勝之監督作品


 10年前。1996年、あなたは何をしていましたか。



 私は10年前は25歳で未来の無い出口の無い恋のようなモノをしたり将来と言うものが何も見えなくて早く死んでしまいたいと願ってみたりしながら闇の中でもがいてはいたけれども、それなりに日々ぼちぼち楽しいこともあって、先のことなんて考えたくもないし考えたら嫌になるし、だからと言ってあがいても時は過ぎて移ろう景色は季節と共に変化して、ただその中で流されるように生きていました。


 1996年、夏。一人のAV監督と不倫相手のAV女優が北の果てを目指して自転車で北海道に旅をして翌年その奇妙な旅が一つの映像になりました。
 今回、その作品「由美香」(平野勝之監督作品)が、やっとDVD化されて再度世に出ることになって私は嬉しい。いや、嬉しいという言葉は適切ではない。どう表現したらいいのか自分の気持ちを上手く表現する言葉が見つからない。でも、ずっと、何年も思っていた。「由美香」は絶対にもっと世に出て、たくさんの人に見て欲しい、見られるべき作品だと。
 AVとして作られたとか、そういう枠を超えて、自分にとって一番好きで大切な映像作品です。



 二人はひたすら自転車で北の果てを目指す。難しい理屈付けなんて無い。

「おもしろそうだから」



「目的は、彼女と北の果てを見ることだ」



 北海道は、広い。

 まるで日本じゃないみたいだと思う。いや、まるでこの世ではないような気がする時もある。地平線が見える。行っても行ってもひたすら先が見えない。どこまでもどこまでもまっすぐな道。いったいいつまでこの道は続くのか本当にこの道の先にゴールはあるのだろうか。どこまで行ってもどこまで行っても、めまいがするほど果てしなく続く道。





まっすぐな道でさみしい                     種田山頭火





 ゴールを夢見てひたすら北の果てを目指す。その道行の長さにうんざりして戻ってしまおうかと思って後ろを振り向けば自分が今まで進んで来た筈の道はもう見えなくなってしまって引き返すことも出来ない。


 本当は北の果てなんて無いことには薄々感づいているのに。どこに行ってもこの道は続く。例え道が無くなっても、その先には今度は延々と続く海が見える。この海の先には果てがあるのだろうか、いや、この海の先にもゴールは無い。続く、ひたすら続く。果ての無いこの道を果てを目指して進むしか出来ない。


 生きるということは、そういうことだ。
 ひたすらまっすぐな道を先の見えない道を進むことだ。この先には何があるかわからない、いや、多分何も無いだろう。好きこのんで生まれてきたわけでもないのに、嫌なことや辛いことも多いのに、それでも目の前にある道を果てを目指して進まなければいけない。なんて不条理な話だろうか。やりきれない、そして虚しい。

 自分が立ち止まっていても時間は容赦なく過ぎて景色は変わり、結局追いたてられるように進まざるを得ない。何も無いのに、確かなものなど何も無いのに、それでもゴールを目指して何かを求めて進むしかない。


 この世に確かな物など何もない。時代は変わる。人も変わる。人の気持ちなんて呆れるほと容易く簡単に変わる。

 未来の無い恋と言うけれど全ての恋には未来が無い。「好き」という感情は蜻蛉のように曖昧で儚い。例え今好きだと思っていても好きだと言われても明日になれば変わるかも知れない。確かなモノなど何もないのに、それに縋ってしまったり泣いたり笑ったり馬鹿みたいに振り回されたり。ああ、本当に馬鹿みたいだ。でも好き。大好き。今はすごく好き。先のことはわかんないけど、今この瞬間は、あなたのことがとても好き。愛してるという言葉を使ってもいいぐらいに、好き。




「幸せですか?」
「幸せだよ。」
「ホント?」
「ホントだよ。」



 果てを目指してまっすぐな道を進む。進むことしか出来ないもの。立ち止まろうとしても引き返そうとしても時の流れという逆らうことの出来ない大きな波に流されるように生きるしかないんだもの。


 果てを目指して果ての無いことを知る。

 本当は北の果てなんて無いし、このまっすぐな道をひたすら進んで行っても未来とか将来なんて存在しない。

 そして、いつか全ての恋は終わる。あるいは形を変える。けれど結局は消えてしまい何も残らない。


 人の命も、いつか必ず消える。果てを目指して進んで行って果てにたどり着くことなく、ある日、消える。誰でも平等に容赦なく全ての人間の人生は必ず終わる。


 まっすぐな道でさみしい。例え誰かの温もりが側にあっても寂しい。寂しくなることはわかっていても温もりが欲しい。自分以外の誰かの温もりが、存在が欲しい。だから人は恋をする。人を好きになってしまう。


 けれども人を求めても恋をしても決してその存在が自分の手に入ることはない。融合することはない。だって別々の人間なのだから。違う個が完全に一つになることは有りえない。

 それでも一つになりたくて。

 自分の寂しさを誰かに埋めて欲しくて人を求める。完全に溶け合うことは出来ないけれども、せめて身体の一部分でも繋がりたくてセックスをする。その小さな一部分だけでも埋められたくて埋めたくて繋がりたくて、セックスしたい。

 だからセックスは切なくて哀しい。繋がりたくて繋がれなくて本当はもっともっと溶け合いたいのに溶け合えなくて、でも肌が触れ合うと時には涙が出るほど嬉しい。瞬間の儚い繋がりなのに嬉しい。

 別々の個である限り完全に溶け合うことなんて出来ない。そして人の気持ちほど移ろいやすいものはない。全ての恋には未来が無い。




 さびしい。このまっすぐな道が、寂しい。


 さびしい。


 生きていくことは、さびしい。


 誰も、さびしい。


 恋をしてもしなくても、ただ生きているだけでも、寂しい。






 生きてくことは旅をすることだ。北の果てに、そこに何があるかわからないのに何も無いことを知っているのに、それでもそこを目指してひたすら進む。流れ流れて流されて時間という波に追い立てられるように。

 笑ったり泣いたり怒ったり喧嘩したり落ち込んだりしながらまっすぐな道を進む。嫌なこともあるけど良いこともあるから大変だなぁとは思うけれど、これから先に何があるかわからないけど、とりあえず「おもしろそうだから」前へ進む。

 先のことなんて、わかんないんだし、どうせ思い通りになんてならないんだから、それならば何も考えずに目の前にある出来事と一つ一つ対峙しながら自分の足で自分の力で地べたを這いずり回るように進むしかない。

 くだらない。馬鹿みたい。明日のことなんて、わかんない。確かなものなんて何もない。いつかは必ず消えてしまう。本当は何もそこには存在しないかも知れない。それでも北の果てを目指して前へ進む。


 グダグダしてる暇は無い。いつ世界が終わってしまうかも、わからないのに。明日世界が終わってしまわないと誰が断言できるのだろうか。本当は世界の終わりから逃げる為に走り続けるのかも知れない。




 ゴダールの「気狂いピエロ」のラストシーンで、アンナ・カリーナの声でランボーの詩が映像に被る。


「見つかった」
「何が?」
「永遠が」


 作品の中に人の「想い」が残された時、そこで「永遠」に我々は遭遇することができる。存在する筈のない「永遠」に。


 北の果てには何も無いけれども。
 それでも、こうして映像作品として「想い」を残せる人間と残される人間が存在している。
 どんな形であれ、いつかは消える儚い「想い」を残せる人間を、それを捧げられた人間も私は羨望せずにはいられない。


 自分の「想い」を何か形として残す。それは「至福」以外の何であろうか。例え一瞬の感情であっても宇宙に無限に存在する銀河の中の小さな星の一つに過ぎなくても、その閃光煌く一瞬の輝きを残すことのできる人間と、それを捧げられた人間を私は激しく羨望する。だから、ずっとその煌きに囚われている。



 


 10年前、1996年。

 あなたは何をしていましたか。あなたの側には誰が居ましたか。

 そして、2006年。
 あなたは何をしていますか。


 私は、とりあえず笑ったり泣いたり怒ったり落ち込んだりしながら、なんとか今のところ、ぼちぼち生きています。これから先はどうなるかわかりませんけれども余計なことに惑わされずに楽しくやってたらいいんじゃないかと思います。難しいことは考えずに。考えても仕方がないし駄目なら駄目で、そこで方向転換したらいいだけの話だし。
 相変わらず先は見えないけれども北の果てには何か楽しいことがあるんじゃないかと思って進むしかないでしょう。後ろを振り返ることは出来ても後戻りすることなんか出来ないのだから。



 先の見えない旅をする全ての人へ。
 北の果てを目指してまっすぐな道を寂しさを抱えながら進む全ての人へ。
 未来の無い恋をする全ての人へ。



 見て下さい、「由美香」。





 「由美香 コレクターズ・エディション」http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000JMJX6Q

 「女優 林由美香」という本も出てます。
http://www.amazon.co.jp/dp/4862480721/

 林由美香さんについて東良美季さんの書かれた名文http://d.hatena.ne.jp/tohramiki/20051230