由美香ママ


 18日、日曜日。
 私はバスガイドの仕事で朝早くて、早々に寝てしまいました。
 翌朝起きると、平野勝之監督から留守電にメッセージが入っていました。

 由美香ママこと、小栗冨美代さん(野方ホープ社長)が亡くなったという知らせでした。
 平野さんに電話して、少し話をしました。
「京都だからお葬式とか来られないと思うけど、知らせておこうと――」
「お葬式、行きます」
「花房さんも、由美香に人生変えられた人だから――来てくれたら、ママ喜ぶと思うよ」



 ママとは2年前に、「監督失格」の公開前に六本木ヒルズで「由美香Night」と題されたオールナイトの林由美香さんの作品の上映会の翌日に、由美香さんのお墓でお会いしました。由美香さんの命日で、墓前にはママと由美香さんの愛犬・ガンモ、弟の栄行さん、平野さん、カンパニー松尾さん、井口昇さんはじめ関係者の方達がそこに集まり、ちょっとした宴会が行われました。
 私なんぞは生前の由美香さんにお会いしたこともない、ただの一ファンに過ぎないのですが、平野さんが、「由美香 Night」のために東京まで来てくれてるんだからと声をかけてくれたのです。
「京都からわざわざ来てくれたんだ、ありがとね」と、ママには御礼を言われました。



監督失格」が公開されて、私は初日の初回、六本木ヒルズで観ました。
 試写会で既に観てはいたのですが、自分の人生を変えた人である平野さん、由美香さんの映画が公開される瞬間を見たい、その場に居合わせたいと思って東京に行きました。
 京都でも1度観て、2011年のラストに、東京の渋谷で年末にまた観ました。


 私は26歳の時、一冊の本を手に取ったことがきっかけで「由美香」という映画を知り、衝撃を受けました。生まれてはじめて「創り手」に羨望した体験でした。個人的な想いをこうして作品にして、人の心を揺り動かすことができる――「選ばれた至福」だと思いました。平野勝之という人に強い羨望を覚えました。小説や映画を観て感動した体験はそれまでありましたけれど、創り手をここまで羨ましくて「作品をつくる幸福」を感じたことはなかった。
 いつか自分も、そんなふうに人の心を揺り動かし人生を変える「作品」をつくれたら――ぼんやりと、そう思い始めたのです。それまで漫画家になりたいとか、創作を志したことはあったけれど、「人の心を動かす」ことまで意識したことはなかったのです。
 それぐらい「由美香」という、平野さんがかつての恋人のためにつくった作品は、私の心に深く浸透しました。
 それから、平野さんのことを書いておられた東良美季さんというライターさんの存在を知り、東良さんの文章を追うようになりました。そしてブログをはじめられて、メールをしたことがきっかけで、私は「文章」というものを書きはじめました。
 10年間、何も書いていなかったのです。それは最初の男に「君には文章を書く力がない」と言われて嘲笑されたことにより、書けなかったのです。
 東良さんに褒めてもらったことがきっかけで私は文章を書きはじめ、そうなるとむくむくと欲が出てきました。人に褒められるだけではなくて、文章でお金をもらいたい、と。ブログで自分語りを垂れ流してはいたけれど、自分語りなんて限界があるし、『本当のこと』は書けない。じゃあ一番自由に書けるものは何か――小説でした。けれどそれまで小説どころか文章すらまともに書いていなかったので、決して楽ではなかったけれど小説を書いて、賞をいただき小説家になりました。
 小説家になる前ですが、東京に行ったときに、東良さんが平野さんを呼んでくださって、その時にはじめてお会いしました。
 憧れの人で、ずっと羨望し続けている人で、初めて会った時は気絶しそうでした。
 それ二年ほどして私は賞をもらって、本がもうすぐ出るという時に、平野さんの作品上映会が京都で行われるのを知って、行きました。平野さん自身も来られてて、再会しました。
 その直後に「監督失格」の試写が東京でありました。



「由美香」を観た時に私が羨望したものは「創作者の至福」でした。
 けれど「監督失格」を観た時には、「創作者の地獄」を叩きつけられたように感じました。
 気が遠くなるような、地獄です。
 映画監督であるが故に、背負った地獄。
 けれど、その苦しい地獄の果てにある光――それが「監督失格」という作品なのだと思いました。
 私は地獄を叩きつけれて「お前はどうなんだ」と強く追い詰められ問われているような気分になりながらも、やはり、平野勝之という人に、羨望しました。絶対に叶わない人だと思いました。



 11月11日に大阪で数年来の念願だった、平野作品の上映会を行いました。東京から来てくれた平野さんとトークをしました。
 打ち上げが終わり、電車に乗って京都で別れて、これでしばらく平野さんの顔を見ることもないんだろうなと思っていました。

 ただひとつひっかかることがありました。
 打ち上げの時に、平野さんに「由美香ママ、元気?」と聞いたら、平野さんが困ったような、苦しそうな顔をして「最近会ってないから」と答えました。
 その時に、ママはあんまり具合がよくないんじゃないかなと、思ったのです。

 そしてそれからちょうど一週間後の訃報でした。



 昨日、22日に告別式がありました。
 私は新幹線で東京に向かいました。
 遺影は「野方ホープ」の看板をバックに豪快に笑う姿でした。
 「監督失格」の主題歌、矢野顕子さんの歌う「しあわせなバカタレ」が流れていました。矢野さんからのお花もあり、そういえば矢野さんとママの2ショット写真を平野さんから見せてもらったことがあるなと思い出しました。
 ママは、本当に綺麗で、安らかな顔でした。

 平野さんは、今まで私が見たことがない表情をしていました。
 あの顔は、多分、一生忘れられないと思います。


 
 由美香さんのお墓参りの時に、平野さんはずっとママを労わっていて、本当の親子のようにも見えました。もう何年も前に別れた恋人の母に対して、これだけ尽すなんてと不思議に思ったこともあります。
監督失格」は当初、「由美香ママ」というタイトルになるはずだったそうです。
 あの映画は、由美香さんのためというよりは、ママのための映画だと私は思いました。
林由美香」という人が、確かに生きていた、愛されていた記憶だと、形にするために撮られたのではないか、と。それはもちろん平野さん自身のためでもあっただろうけれど、何よりもママのためだったんではないかと。
 そう思ったことが、あります。
 勝手な推測ですが、ママは「監督失格」という映画を見届けてから逝ったような気がします。



 下にリンクしましたが週刊女性の「人間ドキュメント」や、栄行さんのコメントなどを読むと、由美香さんとお母さんは長い間、ヤマアラシのジレンマのように、寄り添いたくても、お互いの心にある傷や棘のために抱き合えない、痛々しい葛藤を経て、やっと仲良くなれた矢先の訣別だったそうです。
 またお母さんは大変な苦労をして、女手ひとりで子供を育て、ラーメン屋を大きくし、熱く激しい人生だったそうです。
 私も今でこそ、離れて暮らしているからこそ母とは話せるようになりましたが、主に私が原因で、険悪で、絶縁状態だった時期もありました。数年前、京都に戻る時も母には号泣されました。本当に、仲良くなったのは最近です。
 離れた方がいい親がいることは知っているし、周りには親のことで苦しんでいる人も少なくないです。
 親子だって別々の人間なんだから、うまくいかないことはある。縁を切った方がいい場合もある。
 けれど、親子が仲がいい方が幸福なんだと、最近になって痛感しています。
 



 平野さんが由美香さんと北海道に旅に出た時に、ふたりで書いていた日記があります。
 それは大学ノートに記されていて、出版もされました。私はその本がきっかけで「由美香」を知ったのです。
 そのノートを、今年に入ってから見せてもらう機会がありました。
 大部分は本になっているけれど、そうじゃない記述も幾つかありました。


 そのノートの記述の最後のページは平野さんによって書かれた文章でした。
 読んだ時に、涙が溢れて止まりませんでした。
 そこには、由美香さんがこれから先の人生で男のことで泣かないように、自分とのことが自信につながるように――由美香が泣かないように、由美香が泣かないように――と、繰り返し綴られてました。
 これから先の彼女の人生で、「由美香が泣かないように――」と、切々に。


 平野さんにその記述のことを聞くと、「覚えてない。だって俺、あのノート、開いてないんだもん。開けないんだよ――由美香が死んでから――」と言われました。
 平野さんが17年前にそうやって恋人の未来を願った想いは叶わず――けれど、だからこそ残されたママを見守り続けていたんじゃないかと、私は思っています。


 由美香ママは、由美香さんと同じお墓に眠るそうです。
 亡くなった方について、勝手に予想したり願望を書くことはするべきではないと思っています。
 けれど、私は、今頃、由美香ママが、由美香さんと再会して、抱き合っていることを願わずにはいられません。
 
 



週刊女性「人間ドキュメント」

小栗栄行さん(由美香さんの弟)のコメント すごい文章です。