団鬼六という作家を知っていますか ・前編


 あなたは「団鬼六」という名前を聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
 
 私が「好きな作家は、団鬼六」と名を挙げると、時折、戸惑い困惑した表情を浮かべられることが少なくない。
団鬼六」その名を聞くと、やはり大抵の人は、「ポルノ小説家」「SM作家」と思い浮かべるであろう。映画化もされた「花と蛇」の原作者である、SMの大家であると。

 「団鬼六が好き」と聞いて、困惑はせずとも「やっぱりあなたはエロが好きなのね」と、大抵の人は捉える。 
 確かに、団鬼六は、最も淫猥なSM小説を書く作家であり、今までどれほどの人がその小説で自慰をしたのだろう、どれだけの精液が放出され、どれだけの愛液を滴らせたのであろう。

 あなたはSですか、Mですかと聞かれると、「両方です」と私は答える。大抵のSM行為は経験し、自分の性癖を自覚することも出来たけれど、被虐心と嗜虐心が満たされたことなど一度もない。
 けれど私は団鬼六のSM小説を読むと、苛むサディストになり、いたぶられるマゾヒストになり、その世界に没頭し、実際のSM行為よりも陶酔する。小説を読むことは快楽だ。団鬼六のSM小説はまさに麻薬である。

 だが、団鬼六の「SM作家」という顔は、あくまでたくさんある顔の一つに過ぎないことを知って欲しい。
 おそらく現代の作家の中で、最も人間のおかしくて哀しい本質を描き、「人間讃歌」を謡い続ける文学者であることを、あなたは知るべきだ。
 「好きな作家」を聞かれた時に、私が名を挙げる四人の作家がいる。山田風太郎司馬遼太郎坂口安吾、そして団鬼六。このうち、一番「知られていない」団鬼六の作品を前後編の二回に渡って紹介しようと思う。
 敢えて、「官能小説」は避けながら。





☆ 米長邦雄の運と謎 ―運命は性格の中にある―」

 

 歴代5位のタイトル獲得数を誇り、永世棋士の称号を持ち、日本将棋連盟会長であり、2007年12月までは東京都教育委員も勤め、かつては週刊誌上にて人生相談の連載を持ったり、ヌードにまでなったこともあり、広い交友とユーモアで将棋界という枠に囚われず注目を浴びた棋士である。
 その勝負師・米長邦雄が崇拝する「勝利の女神」について、米長邦雄という人物に惹かれた団鬼六が描く運命論である。

 人間には運気というものが真に到来しない限り、如何なる精神力も如何なる闘志も空振りに終わると米長邦雄は唱える。しかしただ待っているだけではその運気は到来しない、自分で呼び込まなければならない、それには女神を好かれるように心がけるのだと。
 女神に好かれる心がけとは何かという団鬼六の問いに、米長邦雄はこう答える。


勝利の女神は謙虚と笑いを好みます」

 と。そして勝利の女神が最も嫌うものは何かと問われればこう答える。


「卑です」

 と。

 米長名人の信奉する女神とは、ヒンドゥ教の戦士の守護神である神妃ドゥルガではないかと団鬼六の友人は言う。
 嫉妬深さ、意地悪さ、狡猾さ、冷静さ、そう言った悪徳的なものを有している「女」の神に好かれる性格を持つ人物である、と。

 芥川龍之介の「性格はその人の運命である」という言葉と、司馬遼太郎の「何事かを成し遂げるのはその人の才能ではなく性格である」という言葉が引用され、「性格」というものがどれだけ重要なのかも描かれている。
 また、米長邦雄の信奉する女神の話と、団鬼六自身の「女神に愛された」「女神に嫌われた」人生の浮き沈みのエピソード、そして渥美清篠山紀信立川談志など「笑いと謙虚」を備える人物の記述も面白い。

 あなたの周りの人を見渡して欲しい。勝利の女神に限らず、人に好かれる人は、どういう人か。人に嫌われる人は、どういう人か。
 全てこの女神論に集約されているのではないか。
 勝利の女神は「笑いと謙虚」を好み、「卑」を嫌うということに。

 どこに行っても人間関係というのはつきまとう。生きていこうと思えば人と接しなければならない。好かれる人には好かれる理由があり、嫌われる人には嫌われる理由がある。
 勝利の女神に好かれて生きていこうとするならば、自分という人間に足りないものは何か、過剰なものは何かを知ること。つまりは客観的に自分を見ることをしなければならない。
 知性とは、情報を貪ることでは決してない。
 ものごとを、よく「見る」こと、そして「知る」こと。
 笑う人が好きだ、媚や上層的な人をバカにした笑いではなく、いつも楽しそうにしている人が好きだ。辛いことや苦しいことを背負っていても卑屈にならず謙虚で笑いを好む人を女神ならずとも愛するだろう。

 あなたは女神に愛されていますか。
 愛される人になりたいですか。

 この本は、「卑」に陥り易い私のバイブルです。





 牡丹


 私は博打に興味が無い。何が面白いのか、なんでそんなもののために人生を滅ぼす人達がいるのか、全くわからない。そういう人達のことを、アホウだなぁと思うこともある。けれども、そういう自分の力が至らぬ勝負の世界を愛し、人生を賭ける人達がいることは知っている。
 
 博打とは、なんと刹那的な遊びなのだろうか。
 けれど、思えば人間の人生そのものが博打みたいなものだ。
 自分の思い通り、計算通りになんてならない。なったためしがない。清く正しく生きることが出来たなら、どれほどいいだろう。されどどうにもこうにも頭を使うより、いちかばちかの勘で人生を選択する人間がいる。
 身体のうちから湧き上がる人智を超えた血の熱さに揺り動かされる人間がいる。賢く生きられない血の熱いアホウの中には、おかしくも哀しくて愛さずにはいられない人間がいる。
 血の熱い、情で動く人間は、博打のような人生しかおくれない。上手な生き方ではない。けれども面白い、巧みに計算した誰にも誇れる人生よりも、遥かに面白い。

 
 中学生とアメリカ兵捕虜との将棋を通した交流と別離を描いた「ジャパニーズ・チェス」。
 酒場に現れた白塗りの不気味なサンドイッチマンと将棋を指し勝負することで、命が救われた運命の不思議を描く「頓死」。
 吉野家牛皿をつまみに酒をちびりちびりと飲み、そこに訪れる人々を眺めながら、子供に刺され不慮の死を遂げたある棋士の思い出を辿る「牛丼屋」など、おもろうて、やがて哀しき勝負師達への愛情が溢れんばかりに伝わる「博打」「勝負師」をテーマにした極上の人間讃歌のエッセイ集。

 牡丹という花は、ポロリと花ごと落ちるので、打ち首を連想させることから不吉な花とされていた。
 されどその大輪の花の朽ち方が、潔く美しいと思うのは、それも刹那的な物に惹かれる人間の業故なのだろうか。


牡丹 (幻冬舎アウトロー文庫)

牡丹 (幻冬舎アウトロー文庫)



不貞の季節(短編集「美少年」に収録)


 「妻が不貞を働いたのは今から二十年ばかり前だった。
 当時私は四十歳、妻は三十四歳で不貞を働いのである」



 不倫でも浮気でもなく、「不貞」である。映画化もされたこの作品は、実話として描かれている。
 海辺の中学校の教師の同僚として知り合った知的で貞淑で美しい妻。
 やがて夫が隠れてSM小説を書いていることを知り、涙汲みながら驚き嫌悪する潔癖な妻。
 そして主人公は教師の職を捨て上京し、ピンク映画の製作、SM小説の執筆など、妻の軽蔑する世界で成功し、若い愛人も作り「エログロ稼業」を謳歌する。
 
 そして、妻が自分が設立した会社に緊縛師として入社したSMマニアの若い男と妻が不貞を働いていることを知ってしまう。
 一流大学出で、明るく猥談が上手く、愛嬌がある、最も信頼していた青年が、気がつけば貞淑だった妻を「調教」していた。
 そのことを告白する青年に、主人公は、「セックスしたのか」と聞くと、彼は、


「はい、バッチリ、三発やらせてもらいました」


 と、答える。
 主人公は込み上げる嫉妬にマゾヒスティックな快感を覚え、青年に、妻とどんなセックスをやったのか聞き出そうとする。
 縄で縛られることを好み、フェラチオが巧みで、名器の持ち主だと青年は主人公の知らぬ妻の痴態を語る。



「君はあいつを名器の持ち主だと言ったが、本当かね」


「はあ、見事なキンチャクですわ。先生、気がつかなかったのですか。あら、ええおまんこしてはります」


 ええおまんことは、我が妻のことか、と唖然とする主人公。そして主人公は、青年に2人の営みを録音させるように命じる。そのテープを聞き、今まで聞いたことのない妻の歓喜の絶叫を聞き、妻が自分の知らぬ女になってしまったことを知りながら自慰にふける主人公。

 そして「性の極限の喜びを教えられた」妻は、夫の元から去っていった。その時に、ようやく夫は妻こそが自分が長年捜し求めていた理想の女であったことを知るのであった。

 男と女がいて、一対一でお互いだけを愛し求め、それで満足することが出来れば、誰もが平穏に暮らせるのに。だけどそれでは映画や小説は生まれなかったであろう。つくづく人間というのは欠陥動物なのだなぁと思う。どうにもこうにも歪んでいる。

 あなたはこの愚かな主人公と、若い男に調教され性の喜びを覚え自立して夫の元を立ち去った妻を、どう思うだろうか。
 この小説を読むと、主人公も、緊縛師の青年も、妻も、とてもとても愛おしくなる。セックスという得体の知れない渦に巻き込まれて右往左往している彼らが、どうしようもなく愛おしくなる。

 私はまだ、セックスというヤツがわからない。たくさんの男とやったし、恋愛感情を伴うセックス、全く伴わないセックス、好奇心だけが先行するセックス、憎しみ合いのようなセックス、お互いが愛おしむセックス、SMの延長のようなセックス、いろんなセックスをしたけれど、まだセックスというヤツが、わからない。わからなくて怖い。そしてそのうち怖がっていると、簡単にセックスが出来なくなった。身体だけの行為ならいいけれど、もれなく心を伴う行為だと思うと、怖くなった。
 私がSMを好きなのは、きっと普通のセックスより「相手に要求されていること」を感じることが出来るからだろうと思う。私だけに留まらず、「私、Mなんです!」と自ら主張する女のほとんどは、被虐趣味云々以前に、ただの「かまってちゃん女」だ。かまってくれる相手を探している依存心の強い困ったちゃん女だ。だけど、そんな求め方をする女を誰も嗤えない。

 そして、自分の女を寝取られマゾヒスティックな自慰に走る男を誰も嗤えない。滑稽な男を誰も嗤えない。
 妻を寝取られて、自らのプライドを守り「あんな女に未練は無い」とすぐさま忘れる男より、とことん滑稽な道化となりぐずぐずと泣く男はなんてかっこ悪くて愛おしいんだろう。

 私はこんな男が目の前にいて、泣いていたら、抱きしめずにはいられないだろう。そして、縛って好きにしてくれと両手首を差し出してしまうかもしれない。その男が望んでいるのは私ではないと知っていても差し出さずにはいられない。私も、この登場人物達も、どうにもこうにも歪んではみ出している。けれども私はそういう世界を愛おしいと思うのだ。
 だから私は、アダルトビデオを愛するのだと、思う。


 セックスを軸に、人間の愚かさや可愛さを描く作家・団鬼六の究極の恋愛小説。
 おもろうて、やがて哀しきまぐわいかな。
 そして、人間かな。


美少年 (新潮文庫)

美少年 (新潮文庫)