濫読主義

「消された一家」 ―北九州・連続監禁殺人事件― 豊田正義・著


 息苦しいこの空間を、助けを求めようとも声を挙げられぬほどの閉塞感を、いっそ発狂してしまいたいほどの絶望を。
 ここに描かれている地獄の感触に、私は何故か覚えがある。

 2002年に発覚した松永太と緒方純子による、当時誰もが「理解不能」だった凄惨な事件。
 マンションの一室に男性とその娘を監禁し、虐待を加え、男性が衰弱死した後、七人家族を監禁し、松永の「心理操作」により一家は殺し合い、遺体は解体され「消えて」いった。
 消えた家族は、松永の内縁の妻・緒方純子の両親、妹夫婦、そして甥と姪だった。松永は内縁の妻の実の母親、そして妹とも関係を持っていたという。
 一家に通電をほどこし、排泄、食事の制限をして、排泄物を食わせていた。
 事件のあまりもの凄惨さに、報道も制限されていたという。だから、あの事件が発覚した当時、誰もが「理解不能」だった。
 ごくごく平凡な一家が、何故1人の男にそこまで搾取され支配され消えてしまったのか。どうして逃げられなかったのか。
 その謎が、この本を読めば解ける。しかし解けると同時に、人間の脆さと、ある種の人間の支配力の凄まじさに驚愕するのだ。

 松永太という男は、天才だった。
 人を支配し、操る天才。
 私は、この松永と同じ力を持っている人間を、何人も知っている。言葉で、暴力で、人を支配し破壊することの出来る能力を持つ人間を。そしてそういう人間は、何よりも嗅覚に優れている。自分が支配できる、支配されたがっている依存心の強い人間を嗅ぎわけ、その心の隙間に入り込み同一化する。
 
 それはある種の「神」と「信者」との関係と同じだ。友人が以前言っていたが、失恋したと同時に、某宗教の勧誘が家にやってきたと。あるタレントも言っていた、離婚したらワイドショーより先に宗教の勧誘が家に来たと。驚くほどの嗅覚で、人の心の弱さにつけこもうとする人達がいる。
 オウム真理教の事件を例に挙げるまでも無く、「病気」「事故」に遭遇した時に、人は縋るものを探し始めがちだ。そこで真に自分の精神を律し支えるものに出会えればいいが、そこに付け込む狡猾な輩の手に落ちる人間も少なくない。

 松永は、その「能力」を自覚し、臆することなく「才能」を発揮した男だった。
 そして緒方純子というごくごく平凡な優等生が運悪く出会った「最初の男」が、松永太だった。

 本によると、緒方純子は逮捕されて始めて「精神的に解放されて」「松永の呪縛から逃れることができた」「感情を出せるようになった」と述べる。
 塀の中でやっと、人間らしくなれた、と。

 私はこの閉塞感と絶望と、水底から遥か天上に太陽を仰ぎ、あの太陽は自分には決して手に入るものではないと諦めながらも手を伸ばさずにはいられない苦しさを知っている。
 支配することでしか人と関係を結べない輩に頭を押さえつけられて、死なぬように水底に沈められている人間を、その支配から逃れた後も恐怖に執りつかれながら生きようとしている人間を何人も、知っている。


消された一家―北九州・連続監禁殺人事件 (新潮文庫)

消された一家―北九州・連続監禁殺人事件 (新潮文庫)





ただ栄光のために ―堀内恒夫物語― 海老沢泰久・著



 かつて、ジャイアンツが「栄光の巨人軍」だった頃、その真っ只中に居て、喝采と罵声を浴びエースだった男の物語。
 傲慢で、正直で、鼻っ柱が強く、「悪太郎」「甲府の小天狗」と呼ばれたエースの光と影の物語。
 長嶋茂雄に「坊や」と呼ばれた若きエースは、「神様」川上哲治の下で、スーパースター長嶋、王、高田、柴田、黒江らを背に、後の西武ライオンズの黄金時代を築いた森捕手とバッテリーを組み、日本中の喝采を受け「巨人軍のエース」となる。
 
 しかし大衆は残酷で、鼻っ柱の強いエースが故障すると叩き罵倒する。他の球団の選手達の何倍もの喝采と罵声を受けなければいけないのは「栄光の巨人軍のエース」たる者の宿命だった。

 それでも一軍で、常にテレビ中継され、満員の観客達の中で、



「緊張してエキサイトした雰囲気に包まれるのは、何とも言えない気分だった。デッドボールで一塁に歩いた時、堀内は自分の中にムラムラ闘争心が湧いてくるのを感じて、ゾクゾクしないではいられなかった。それは二軍では絶対得られないもので、彼はそれがなければ野球をしている気分になれなかった」(本文より)


 そんな堀内は、栄光の巨人軍のエース以外の何者でもなかった。


「俺は弱いということはなにごとにおいても嫌いなんだよ。ところがそのわりには弱いんだよ。(中略)若い頃から投げるのはいつも怖かったし、先発前の夜に布団の中でピッチングの組み立てを考えていると、必ずノックアウトされて立ち往生する自分の姿が浮かんでくる。自分のおかれた状況を認めて、その中で生きていこうとすることが、弱いことかどうかはわからんけどね。しかし、不本意なことだったけど、そうしようと決めたんだ」(本文より)


 現・シアトルマリナーズの選手、城島健司が、大リーグ行きを発表した時の会見で、「プレッシャーは感じるか」という記者の質問に対して、こう答えたことが印象に残った。

「プレッシャーを楽しんでます」

 と。

 彼らは決して超人ではない。人の弱さを持つ人間である。だからこそ泣き、怒り、悔しがり、笑い、過酷な世界で人間の力の可能性を見せて我々に感動を与えてくれる。

 やがて川上哲治が去り、王も長嶋も去り、エース堀内にも決して逃れられない衰えが訪れる。
 17年間の選手生活最後を飾る引退試合には、「栄光の巨人軍のエース」に相応しく、最後の打席をホームランで飾り、マウンドを去る。
 
 かつて、「栄光の巨人軍」という、日本中を湧かせた強く輝かしいチームが存在した。その真っ只中にいて、最も喝采と罵声を浴びた男の物語。

 いつもいつも、球場という場所は美しい。
 そこには人々を沸かせる無数の物語が存在するからだ。








隠された十字架 ―法隆寺論― 梅原猛・著

 哲学者・梅原猛が1972年に出版し、論争を巻き起こした奈良斑鳩法隆寺論。漫画家・山岸涼子がこの本を読み「日出処の天子」を描いたことは有名である。「日出処の天子」ファンなら、是非一読を勧める。

 あなたは法隆寺という寺を、どれほど知っているだろうか。
 私は仕事柄、何度も足を運んでいる。一年に数十回は間違いなく行っている。だけど法隆寺という寺を知らないに等しい。この寺はあまりにも謎と奇妙な符号が多いからだ。
 初めてこの本を読んだのは、19歳の頃だった。その頃にはまだここに描かれていることの本当の面白さはわかってはいなかったが、年を経て、何度も法隆寺に足を運び再読すると、興奮するほど面白い本だった。

 冒頭で梅原氏は語る。



「この本を読むにさいして、読者はたった一つのことを要求されるのである。それは、ものごとを常識ではなく、理性でもって判断することである」




 法隆寺聖徳太子の怨霊鎮めの寺であるという結論付けの元に、この本にはその「証拠」「根拠」が丹念に描かれている。
 藤原氏が己の一族を正当化するために作り上げた「日本の歴史」が、「古事記」「日本書紀」である。
 そして更には己の一族を正当化するために蘇我氏を悪者にしたてあげ、そのために聖徳太子という人物を聖人化して祀り上げたことは今更ながらの話ではあるが、この本では何故その人物が怨霊と化したか、人々は何に脅えていたのかが描かれる。

 京都にかつてあった平安京という都は、ところどころに怨霊鎮めの装置がエキセントリックなほどに丹念に備えられえいる。
 平安京を造営した桓武天皇は、何にそこまで脅えていたのか。自らが追い詰め、無実を訴え食を断ち憤死した弟の早良親王の怨霊か、奈良を捨てることにより新しい都を呪った平城京の魑魅魍魎か、山城の国の先住民族達の呪いか。
 そしてその平城京という都を藤原京より移させ、「古事記」「日本書紀」という書物により「歴史を作った」のが、藤原不比等である。


 不比等の父が、藤原鎌足。もともと後の天智天皇中大兄皇子と手を組み蘇我入鹿を暗殺し、蘇我氏を滅亡に追い込んだ中臣鎌足である。
 「歴史」では、蘇我氏聖徳太子亡き後に、聖徳太子の一族を滅亡させたとある。そうして蘇我氏は徹底的に悪者に祀り上げられた。それには聖徳太子を聖人化せねばならぬ。

 なんのために。
 中臣鎌足と、天智天皇が「大化の改新」というクーデターを正当化するために。

 今更だが、「歴史」というものは、その折々の権力者が自分達の都合の良いように作り上げたものだ。かつて、「反逆者」である足利尊氏が大悪人とされ、後醍醐天皇に忠誠を誓った楠木正成が神とされたように。
 何故か。天皇に反逆する者は「大悪人」で無ければいけなかった「天皇陛下万歳」の時代だったからだ。

 それを思うと、我々は歴史に限らず、何事にも懐疑的で居なければならない。懐疑的で居なければ、真実を見誤る。真実というものが果たして存在するのかしないのかは、別にして。
 常識なんてモノは、誰かが作り上げたものだ。それを疑わずに信じ込み根拠の無い価値観を振りかざす人間には時折反吐が出そうになる。
 
 「えらい人」の言うことを鵜呑みにして、そのまんま自分の言葉であるかのように語る人間がいる、「えらい人」にインスパイアされて思考能力を失っている人間がいる。そこには知性は存在しない。どれだけ本を読もうとも、懐疑的な思考をしない人間には知性は存在しない。

 そのためにも、「教科書の歴史」だけではなく、サイドストーリーを知るべきだ。それは歴史に限らず、だ。

 「隠された十字架」には批判も少なくないというが、確かに相当、梅原論は、強引である。梅原氏の語りは熱い。自らの発見が齎した熱が漂ってくる。
 かなり、強引で、ここに描かれていることをそのまま鵜呑みには出来ないが、その強引さを含めて、敢えて読むべき本だと断言する。

 あなたは法隆寺を知っていますか。
 この国の「歴史」は、どんな小説よりも心を揺さぶるミステリーだ。
 そして歴史を読み、歴史の現場に来るといい。
 私は仕事で、趣味で、それを体感している。
 これほど面白い、娯楽はない。


隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)

隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫)