京都繁華街の映画看板 〜タケマツ画房の仕事〜


 As Time Goes Bay 〜時の過ぎ行くままに〜

 あの時のキスはただのキス
 あの時の溜め息はただの溜め息


 新京極通りから、東西の筋を少し入ったところにあったポルノ映画館の「八千代館」が去年閉館した。「八千代館」の前にはハンフリー・ボガートイングリッド・バーグマンの「カサブランカ」の絵看板が掲げられたいた。
 どうしてポルノ映画館の前に「カサブランカ」なのか不思議だったけれども、あとになって、八千代館が「瀬戸内少年野球団」の撮影に使われた時に作られたものがそのまま残されたのだと知った。
 先日、久々に八千代館があった所を通ったが、建物は全く変貌を遂げテナントが入り、「カサブランカ」の看板も影も形も無くなっていた。
 
 今年に入ってから、河原町三条東入るの「東宝公楽」の閉館を知った。これで、かつて存在した「映画館」が全て無くなってしまった。
 
 京都の繁華街・新京極の歴史はそんなに古くない。明治時代に後に第二代京都府知事となった槇村正直が参事だった頃、街の繁栄の為に整備し、芝居小屋などを集めたのが新京極だった。
 明治28年に大谷竹次郎白井松次郎の兄弟が、京都阪井座の興行主となったのが「松竹」の創業起源とされている。1920年に松竹キネマ設立。松竹が映画製作を始める。それより以前、1906年に松竹は日本最古の劇場・南座を買い取る。
 南座で現在でも師走に行われている行事が、「顔見世」である。この時期には南座に出演する歌舞伎役者の名前、が勘亭流で描かれた「まねき」が上る。この「まねき」を書く為に、竹次郎・松次郎の弟である白井信二郎が大阪から京都に連れてきたのが23歳の青年・竹田猪八郎だった。
 明治時代の終わり、四国丸亀から「字書き」になることを夢見て大阪へ来た青年は、京都に住むこととなった。しかし「まねき」の仕事は十二月だけであるので、松竹系の劇場の看板を描く仕事を始めたのである。
 
 昭和2年に、猪八郎に長男・耕作が生まれる。新京極界隈に生まれ育ち、映画に囲まれて育った耕作は、絵の才能を持ちながらもリンドバーグに憧れ飛行士になる夢を見た。そしだ第二次世界大戦が始まり、耕作は少年航空兵に採用されたが、戦争は集結し耕作は京都に戻ってきた。
 紆余曲札ありながらも耕作は絵で生きていくことを決意する。そして昭和23年、竹田猪八郎を社長とした有限会社が発足した。それから永く京都市内の映画館の看板描きを一手に引き受けていた「タケマツ画房」の始まりである。
 昭和51年、猪八郎が亡くなった。二代目社長・耕作率いる「タケマツ画房」は、京都市内の映画館の看板、そして南座の「まねき」は描き続けられ、それらは京都の街にはなくてはならない光景だった。何故なら、新京極という街自体が、映画と共に歴史を歩んできた場所だったから。
 インターネットも、情報誌も、無かった時代。人々は街をそぞろに歩いて、看板に惹かれ映画館に導かれていった。工夫を凝らした大きな看板が、街を彩っていた。映画館の建物をはみ出した看板が人目をひいた。
 「松竹座」「京都ロキシー」「美松」「菊映」「京都ピカデリー」「松竹京映」「宝塚劇場」「東宝公楽」「京都スカラ座」など・・・
 「八千代館」の前に永くあった「カサブランカ」の看板もタケマツ画房が製作したものだった。
 「タケマツ画房」は、2007年に解散するまで、新京極の光景の一つを創り続けた。


 十数年前、私は大学を中退して、途方に暮れていた。やりたいことなんて、何もなかった。だけど、とにかく嘆き悲しむ親を何とか安心させようと、就職だけはしようとした。職安に行き、見つけたのが映画館の仕事だった。指定の年齢を超えてはいたけれど、何とか面接をしてくれることになった。

 映画館で面接してくれた次長が、偶然同郷の人だった。

「映画、好きですか」

 と聞かれて、

「好きです」

 と、答えた。

 大嘘だった。それまで十本も観ていなかったし、興味も無かったのだ。ハッタリで、どうにか私は就職にこぎつけた。

 映画の上映最終日のことを、「看板替え」と言う。
 最終上映が始まった頃に、看板屋の御一行が訪れ作業が始まる。私達は場内のポスターなどを張り替える作業をする。看板替えが終わると、皆で飲みに行くのが恒例だった。
 私の上司である人が、看板屋の「タケマツ先生」と仲が良く、私も何度かご相伴を預からせて貰った。請求書を持って行ったり、上司に連れられて、実際に看板が描かれている場所にも何度も行った。
 毎年、正月には飲み会が開かれて、各劇場の人間がかわるがわる、その年の興行の成功を祈り、タケマツ先生の元を訪れて酒を酌み交わした。正月というのは、興行の世界において最も重要な日であった。

 私は、2つの映画館が亡くなるのを看取った。
 最初に居た映画館が取り壊されシネコンになることが決定し、近くの別の映画館に移った。やがてそこも閉館が決まるり、従業員は皆ちりぢりバラバラとなっていった。私は興行の世界を離れた。
 あの後、一度だけ街で偶然、タケマツ先生と会った。映画館を離れてから連絡が取れなくなった元上司の話などをした。

 それから私は興行の世界だけでなく、京都を離れることになった。田舎で数年過ごし、3年前に再び京都に戻ったのだが、すっかり新京極は様変わりしていた。あの頃、映画館で働いていると市内の映画館は殆ど無料だったので、休日は映画を見まくったものだが、当時通った映画館は殆ど無くなってしまった。シネコンという無機質な箱に何作もの映画が縦割りで組み込まれたような建物だけが増えていた。

 映画館にしか行き場が無かったような人達は、どこへ行ってしまったんだろうか。あの頃、映画館に来ていたのは「映画を見たい人」だけではなかった。老人、営業中らしきサラリーマン、あてもなく暮らす若者などの逃げ場だった。私もその一人だったかもしれない。シネコンのように入れ替え制ではない「映画館」は、フラっとやってきて、フラっと立ち去る流離う人達が訪れる場所だった。

 「映画館」が、無くなり、「タケマツ先生」は、どうされているのだろうと、そのことは少し気になっていた。しかし昔の仲間に伝手も無く、その世界を離れてしまった私の耳には消息は届いてこなかった。

 先日、「あんにょん由美香」の松江哲明監督のブログを見て、気になる記事があった。
http://d.hatena.ne.jp/matsue/20090530
http://d.hatena.ne.jp/matsue/20090607
「京都繁華街の映画看板」

 って、もしかして、タケマツ画房のこと? と、気になって検索すると、まぎれもなくこの本のサブタイトルは「タケマツ画房の仕事」となっていた。
 さっそく購入して読んだ。

 そこには、私が知ってる少しばかりの懐かしい京都の映画館の姿と、私が知らないたくさんの素晴らしい京都の映画館の姿があった。
 私があそこに来る前より、ずっと昔から、永い間、あの街は映画を愛する人達の街で、それを作り続けてきたのが、映画会社の人々、映画人、俳優、そして映画を広く人に伝えようとし続けてきた「タケマツ画房」だった。

 タケマツ先生こと、竹田耕作先生の消息をこの本で知ることが出来たのも、感激だったけれど、失われてしまったはずの新京極の光景がこうして残されていることに感謝する。
 タケマツ先生が、映画が終わると同時に消えてしまう自分の作品を、カメラで撮り続けておられたそうだ。

 そうして、御縁があり、タケマツ先生とお電話で話すことが出来た。お元気そうな声だった。
 この本は、あの頃の京都の映画館を愛した人達に、もの凄く喜ばれているらしい。そりゃそうですよ、と言った。私だって、失われたはずの時間と場所がこうして残り、本となり出版されていることに感激して、読む度に涙が出てくるもの。もっと、もっと、この本を手にとって感激する人はいるはずだ。
 
 例えあの頃の京都を、映画館を知らなくても、映画館という場所を愛した人ならば、懐かしさが込み上げてくるはず。
 映画に焦がれ、映画を愛し、映画で人生が変わった、全ての人に手にとって欲しい素晴らしい本です。
 映画を愛する全ての人に捧げられた本です。

 時の過ぎ行くままに。
 
 あの時代は二度と帰らないけれども、確かにここに存在する。
 
 時の過ぎ行くままに。

 失われた時代は、こんなにも優しい。まるで幸せな時間を共有したかつての恋人との再会にように。今はもう抱きしめられることの出来ないあなたの手は、どうしてこんなにも暖かく優しくいのでしょうか。あなたの手があんまりにも優しいから、私の胸は切なさに満たされて、悲しみを帯びた幸福な気持ちで、溢れる涙を抑えることが出来ないのです。

京都繁華街の映画看板/タケマツ画房の仕事

京都繁華街の映画看板/タケマツ画房の仕事