愛人犬アリス


「私が死ぬとき、お願いです、そばにいてください。そしてどうか覚えていてください、私がずっとあなたを愛していたことを」


 「愛人犬アリス」(著・団鬼六)という本が出ました。
 上記のセリフは、この本に度々出てくる言葉です。

 団鬼六先生のブログにもたびたび登場していた「アリス」という犬と、団鬼六先生の日常が、写真と文章で綴られた本です。
 亡くなる直前の団先生、そして「本妻」の安紀子さん、娘さんの由起子さんにより書かれています。
 団先生が亡くなられた後のご様子や、家族の写真も掲載されています。


 私は情が深いので、動物を飼うことはない。
 自分も他人をも切り刻んでしまうほど、情が深いから。
 いつか来る別れに耐え切れないので、傍にいるのは家族だけでいい。
 悲しみは少ない方がいい。 別離なんて、少ない方がいい。

 情を持つことは怖い。
 人を好きになる度に、思う。
 かけがえのない人が出来ると、その人とのいつか来る別れを思ってしまう。
 永遠に、一緒にいられるなんてことはないのだから。


 これから歳をとって、「別れ」が増えるんだろうなと思うと、
 本当に、本当に怖い。 そう思うと、人と仲良くなんかしない方がいいかなとも思っている。
 「さよなら」は、少ない方がいい。

 人との出会いより、別れというものをこのところ考えざるを得なくなってきた。
 それは自分が生きようとしているからなのかもしれない。


 数年前、死ぬほど好きになった人がいた。その人には、家庭があった。
 それまでは、既婚者と関係を持つことなんて、好きになることなんて平気だった。
 けれど、この時に、今まで平気だったのは私が相手のことを本当に好きじゃなかったからなんだと、気づいた。
 本当に好きになったら、別れの苦しみを想わざるをえない。
 さよならの時のことを。
 その人に何かあっても、私は傍に行くことも連絡をとることも出来ないのだ。
 その人が病んでいることや、命が尽きること自体を、知ることが出来ないかもしれないのだ。
 自分が変わりない日常を送っている間に、「わかれ」が突然襲ってきても、さよならを告げることが出来ないのだ。
 家庭のある人を好きになるということは、どうあがいても、どう転んでも、そういうことだ。
 それに気づいた時に、恐怖に襲われた。そんな想いをするぐらいならば、死ぬまで後悔するならば、離れた方がいい。
 そう思って、逃げた。その人を好きだったことは後悔していないし、それぐらい好きだったことは自分だけでも誇りに思いたいけれど、傍にいられない人を好きになることは、よくないことだったとは思っている。傍にいられなくても「好き」を貫くことが出来たら「愛人」になれたのかもしれないけれど、私にはそこまでの覚悟も根性も無かった。

 あれから、家庭のある人を好きになることはない。


 そして、私は結婚して「家族」を持った。出来るならば同時に死にたいと願う。夫を残すのも、残されるのも嫌だ。耐えられない。
 けれど、家族ならば、傍にいられる。一番近くにいられる。手を握ることが出来る。帰ってきてくれる。そのことは、まぎれもなく、「幸せ」なことだと思う。別れは相変わらず怖いけれど、それまで一緒にいられるのが、うれしい。


 「愛人犬アリス」この本を通して、改めて、団鬼六先生の「家族」についていろいろ思った。
 団先生のご家族には面識がある。仲がいいというか、みなさんが団先生のことが好きなんだなぁという印象を受けた。
 由起子さんは、「父は家族を大切にする人であった」と、この本に書かれている。 この本には、由起子さんの父・団鬼六への愛情がこぼれんばかりに溢れている。
 それはきっと、団先生が「愛人犬アリス」を愛していたように、家族を愛してこられたからなのだ。

 愛していたから、愛されるのだ。
 「家族」は、仲がいい方がいい。それは血のつながりとかそういうことではなく、一緒に生きていく者達がお互いを大事にしていこうということだ。
 死ぬことはさびしい。死にゆくものも、残されたものも。それならば、いっそ、誰かに愛されて傍にいて手を握られて死ぬ方が、いい。

 この本の最後に、集合写真が載っています。
 4月、自力で歩くことも呼吸も出来ない状態の団先生が決行された花見の際に、皆で撮った写真です。


「自分の周りには、こんなに自分をしたって集まってくれる仲間がいる」


 そういう想いがこめられていると、由起子さんは書いておられます。


 この写真の中に、私も写っています。

 この写真を撮ったあと、「今日はありがとうございました」と挨拶をして、「頑張って」と声をかけてくださって、それが、今生の別れとなりました。



 いい本です。
 老人と老犬の、暮れゆく優しい日々が描かれています。


愛人犬アリス

愛人犬アリス