平野勝之「監督失格」を観た

 平野勝之監督の新作「監督失格」を、一足先に試写で観た。
 とても客観的な「批評」なんて出来ない。そもそも、私は自分に多大な影響を与えた平野監督の「由美香」に関しても、未だに語れないのだ。言葉を生業にする者として情けない話だが、言語化出来ないでいるのだ。何十回も観たのに。自分の中に入り込み過ぎて、突き放して「批評」なんて出来ない。
 だからただ、思うことだけを綴ってみようと思う。それしかできないのなら、できることを、言葉で。

 平野勝之については、以前ブログに書いているので、知らない方はまずその記事を読んでください。

「歌餓鬼抄」 ――全身映像作家・平野勝之――

 私と平野勝之監督「由美香」との出会いは26歳のときだった。
 20代初め、キスもしたこともない処女の女子大生時代に代々木忠のセックス・ドキュメンタリー作品に出会い強い衝撃を受けた。しかし当時はネットも無く、女の身で「AV」との接点はそこでいったん終わる。それから数年、大学を中退し、22歳上の傲慢で口だけは達者な働かないクズ男に劣等感故に自ら金を払い処女喪失をし、脇目もふらず「自分を相手にしてくれるのはその男しかいない」とサラ金に借金をして言われるがままに貢ぎ続けた。男には本命の大事な恋人がいた。いずれは結婚するであろう恋人が。私は愛されてもなかったし好かれてもいなかった。けれど「金づる」としてでも必要とされていることが当時は唯一の自分の存在意義だった。今は愚か過ぎる共依存関係だと、クズ男とバカ女の最低の組み合わせだったと言えるけれど、それでも当時は、好きで、その人のためなら死ねると思っていたのだ。そうじゃないと、そんなことはできない。

 本屋でふとタイトルに惹かれて手にしたのが「自転車不倫野宿ツアー」という本だった。妻の居るAV監督が恋人のAV女優を連れて北海道の北の果てまで旅をし、それをAV作品にする――その顛末を2人の日記で綴られた本だった。驚いたのは、本のあとがきを「妻」が書いていたことだ。この奇妙な本を購入して読んだ。何度も読んだ。
 その頃、私は上記のように、不倫に少し似た、未来の無い関係に陥り出口の見えない重く苦しい日々だった。その人のためになら死んでもいいと惚れた男にはもうじき結婚する女がいて、それでも甘えられると、愛されても好かれてもいないのはわかっていても金を渡してしまう。決して誰にも褒められることがない誰にも言えない最低最悪で恥ずかしい日々。そんな暗鬱な恋愛のようなものに足をずっぽりつかってしまっていた私は、その本の中の奇妙な3人の関係、そしてその明るさ、ユーモア、そしてそれらの極めて個人的な関係が本と映像という「作品」になっていることに驚き惹かれたのだ。
 その後、レンタルビデオ店で、その作品――「由美香」を見つけ、手にとった。最初、「わくわく不倫旅行」というタイトルでAVとして発表された本作品は改題され劇場公開されアダルトではないコーナーで出会うことが出来た。

 「由美香」を観て、泣いた。途中から、北海道の光景を自転車で走る2人の姿と近づいたり離れたりすれ違ったりする感情――悲しい場面ではないはずなのに泣けて泣けて仕方がなかった。北海道の景色が美しくて、林由美香が可愛くて、それが切なくて切なくて、泣いた。それから何度も観て、観る度に泣く。何十回も観てるのに、色褪せない。泣きたいときに観るようになった。外で出せない、人前で出せない感情をこぼれさせ心を浄化するために泣きたいときがある。そんな時に、観る。怒りの涙でもない、心地よい涙を流させてくれるのが、この映画だ。

 作品に惹かれながらもネットが無い時代、女である故にAVに疎く、AV故に「由美香」という作品のことは誰にも言えず、それ以上の情報も無かった。そんな時、ふと本屋で偶然手にした「アダルトビデオジェネレーション」という本に、「平野勝之」の名前を見つけ、狂喜する。著者は、東良美季という人。

 最初の男と切れたあと、妻子と愛人がいる鬱病のサディストの13歳上の男と知り合う。その男がくれたビデオテープにはダビングされた「熟れたボイン」というタイトルの作品が入っていた。切なく、青臭く、もどかしく、いとおしさのこめられた映像。その作品の監督・カンパニー松尾の名も、上記の「アダルトビデオジェネレーション」にあった。

 「東良美季」の文章が掲載されている雑誌を知った。ビデオメイトDX(現在は休刊)というAV情報誌だった。その文章を読むために購入し続けた。そこで語られていたのが、平野勝之であり、カンパニー松尾であり――やっと「つながった」と思った。彼らを知る人にやっと、出会えた、と。
 私が自分のパソコンを手にしたのが2004年の10月。そして東良さんがブログを始めたのが2005年の1月。 
 私はその頃は、田舎に居た。数年前に借金が膨れ上がり親にもバレて職も失って実家に帰らざるを得なかったのだ。いつか戻ってこよう、京都に帰ってこようと金を貯めるために工場などで働きまくっていた。戻られるあてなんて無かったけれど、このまま田舎にいたら自分は自殺するか誰かを殺すかするだろうと、それぐらい怒りと罪悪感に苛まれていた日々だった。
 2005年2月、私は東良さんにメールをした。それまでファンレターのようなものを書こうと思ったことは何度もあったけれど、アダルトビデオ関係の雑誌に手紙を送ることが怖かったのだ。けれどネットなら直接本人に繋がることが出来る。すぐに返事が来て、やりとりをはじめた。そして2005年7月に「林由美香ちゃんが亡くなりました」というメールがきた。
 「林由美香」が亡くなったのを、見つけたのは平野勝之だった――彼女が亡くなったときに報道でそのことを知って、「なんという運命的な結末なんだろう」と呆然とした。別れて何年も経った恋人が、たまたま、そこに居るなんて――小説にもならないほどの劇的な「偶然」過ぎる。だって、それは、もう――永遠という途方も無いものにとらわれてしまうってことだ――。

 翌月、2005年8月に私は知人の誘いでmixiを始める。そこで東良さんを見つけマイミクになる。せっかくだからと日記を書くと、東良さんが「おもしろい」と御自身のブログで紹介され、読者も増え、そして私はそのうちにそこに永年隠し続けていた「過去の傷」を晒すようになる。恥ずかしいから愚かだからと誰にも言わなかった男に貢いでた過去を、自身の性欲故に男に依存してしまったことを、そのせいで仕事も友人も失い田舎に帰ってきたことなどを。書くと、楽になった。重くのしかかっていた罪悪感から少し解放された。文章にして客観的に見ることにより、あの頃の自分のことが少しずつわかりだした。愚かで恥ずかしいことなのは変わらないけれど、それにも理由があるのだと、悪いのは自分だけじゃなかったんだ、と。毎日のように日記をそこに綴りながらも必死で早朝から深夜まで働いていた。早く田舎を出たかった。出なければ私は死んでしまう。ネットで知り合った人達――東良さんや、二村ヒトシさん、市原克也さん、その他にも一般の様々な人達に励まされ親に内緒で仕事を決め家を探し2006年8月に、京都に戻った。親には号泣された――お前は何をするかわからない子だ、これ以上、親を苦しめるつもりか、と。そう言われても仕方がないことをし続けてきた。
 京都で一人暮らしを始め、それまでmixiだけに書いていた日記を、はてなブログで書くようになった。それが2006年10月のことだった。ブログがきっかけでアダルトビデオの情報誌に書くようになったが、本当は私は小説家になりたかった、小説なんて書いたことは無かったけれど。小説どころか文章すら、私は十年書けなかったのだ。大学の卒論を放送作家である最初の男に「君には文章を書く力が無い」と嘲笑され否定され、それからずっと書けなかった。mixiで東良さんに日記を褒められるまで、ずっと。
 京都に戻って数ヵ月後に、私は15年ぶりぐらいに「旅」をした。20代はサラ金生活で余裕が無かったし30歳を過ぎて田舎に帰っても京都に戻るための資金の為に働き詰めで仕事以外で旅なんてする余裕は皆無だった。京都に戻って「やりたいこと」の一つが、「旅」だった。十数年ぶりの旅の行き先は北海道だった。休みが2日間しかなかったので遠くにはいけなかったけれど、クリスマスイブの前日の夜は雪が吹きすさぶ氷点下の北海道に居た。一人で雪に覆われた北の国にいて歓喜の表情を浮かべていた。
 目の前の雪山の向こうに、吹雪の中に、平野勝之が自転車で走っているような気がした。

 私という人間が創作をする際に影響を受けた人物を挙げるとするならば、団鬼六代々木忠カンパニー松尾平野勝之だ。彼らに、「自己表現」とは何かということを教わった。
 初めて「由美香」を観たときに芽生えた感情は、「羨望」だった。こんなふうに個人的な想いを「作品」として完成させ、人の心を揺るがすことが出来たなら――平野勝之が、羨ましかった。創り手としての至福を知っているであろう、平野勝之監督が。

 田舎に戻り、また京都に帰り、時を経て様々な出来事があり、私は小説家になった。やっと近づいたのだ。創作の至福を知っている人達に。
 けれど、私の心を揺るがした作品を創った平野勝之は、その間、映画を発表しなかった。何度か人づてに、「平野監督が映画をつくっている」「もうすぐ公開だ」などの噂を繰り返し聞いていた。けれど、劇場で「平野勝之監督作品」がかかることはなかった。「由美香」から、十年以上は経っていた。もう、映画館のスクリーンで平野勝之監督の新作を観ることは出来ないのだろうか――「天才」と呼ばれた男は、「伝説」のままで、消えてしまうのだろうか――そうなって欲しくはなかった。けれど諦めなければいけないのかとも思っていた。
 数年前、ある席で、別冊映画秘宝の編集長である田野辺さんとお話する機会があった。自主映画時代からの平野さんの友人でもある田野辺さんは、平野さんの才能と、その才能が作品として結実できないもどかしさを語ってくださった。私と同じ想いを持つ人は他にもいるのだと思った。
 2009年7月に、松江哲明監督の「あんにょん由美香」が公開される。林由美香を題材にしたこの作品は話題になり、多くの人に絶賛された――けれど。

 どうして、平野さんじゃないんだろう。由美香さんを撮るのは平野さんのはずだ。なんで平野さんは撮らないんだろう。平野さんじゃないといけないのに――その想いがむくむくとわきあがりいつまでたっても消えなかった。怒りとかもどかしさとか――私に多大な影響を与えて創作への道を歩ませた人なのに、あなたはいつまでも私の前を走っていて欲しいのに、と――。 
 
 林由美香の死から6年の歳月が過ぎた。何度も聞いた「平野勝之の新作が公開される」という噂が現実になった。平野勝之監督の「監督失格」は9月に、11年ぶりに劇場公開される。

 内容については、みなさん観てくださいとしか言えない。
 いろんな想いがよぎった。今まで好きになった幾人かの男のことを思い出した。忘れられなくて苦しんだ男のこと、愛していたこと、憎んでいたこと、楽しかったこと、悲しかったこと、いろんなことを。
 恋愛であれ友情であれ、人と人とが本気で関わることはお互いの存在が交じり合い侵食しあうことだ。ひとつにはなれないけれど、まじりあう。それが「別れる」ことは身体の一部を無理やり引きちぎられることだから、死にそうな痛みを伴うし周りを汚すほど血も噴出すし、離れたくない離れたくないと激しく抵抗もする。引きちぎることなんて出来ない。だってあなたをふくめてのわたしなんだもの。あなたはわたしであり、わたしはあなただ。「関係」に、ピリオドなんでうてるはずがない。ピリオドなんてうてるような生っちょろいもんじゃないんだ。わたしはあがく、痛みにあがく、身体を引き裂かれる痛みに、じたばたとみっともないくらい抵抗し暴れる。泣きながら痛い痛いと喉が枯れんばかりに叫び続ける。

 わたしの痛みなんか、誰にもわからない。わたしが誰の痛みも、わからないように。だからせめて泣かせて叫ばせて欲しい。誰も聞かなくていい、誰にも聞かれたくない。
 愛している、と。
 痛い苦しい寂しい悲しい痛い苦しい寂しい悲しい、と。こんなに苦しいのなら悲しいのなら寂しいのなら痛いのなら、いっそ殺してくれと。

 
 「監督失格」を観終わって、1日が経ち、まだ整理がつかない。
 ただ、自分が14年前に「由美香」という作品に出会い、そして、今、作家になったこの時に「監督失格」を観ることが出来て、背中を押されているような気にもなった。
 生半可な甘っちょろいことやるんじゃねぇぞ、と。中途半端なことするぐらいなら、「作家」なんてやめてしまえ、降りてしまえ、と。

 平野勝之は、まだまだ自転車に乗って私の前にいる。私はその後姿を見て、「負けるもんかっ!」と、追いかけていく――そうやって、小説を書き続けていこう。


 今日、久しぶりに、6年前に最初に東良さんにコンタクトをとって、その際にもらった返事のメールを読み返した。その最後には、こう書いてあった。


>>そうそう、平野勝之くんが新しい映画を完成させたそうです。


 「新しい映画」を、観る日が訪れて、よかった。
 あの苦しかったときに死ななくて京都に戻ってこれて作家になってこうしてまた、めぐり合うことができて、よかった。



 平野さん、この作品を撮ってくださって、ありがとうございます。
 私はやっぱりあなたを羨望したままです。14年前から、今にいたるまで。
 そしてこれからも。


   

 
 「監督失格」9月3日、TOHOシネマズ 六本木ヒルズにて先行公開です。
 公式サイトはこちら