心を救え

 テレビを見てツイッターで情報を追い続けるとどんどんとどうしようもなく暗い気持ちに陥ってしまった。拡大する被害情報の波に呑みこまれて沈んでしまいそうになる。だけどツイッターで何人かの知人の安否を確認できた。そして知人達が食べて寝て普通に暮らしている様子を見るとホッとした。
 細かすぎる情報RT、同じ内容のRT、繰り返されるデマRT、感情的で悲壮感溢れるツイート、怒りをぶつけるツイート、シニカルを気取って政府や有名人批判をするツイート、中途半端な不安を煽るようなツイートをする人はアンフォローした。励ましや明るいRTの波も罪悪感を齎し気持ちを重くさせた。阪神淡路大震災のあと、教員採用試験の面接で「ボランティアには行きましたか」と聞かれる度に交通費すらなくバイトに追われ神戸には行かなかった自分が責められているようにも思えたことがぶりかえした。
 呑み込まれたくないけれど、安心も欲しい。だからネットを離せない。さっきもネット上だけの付き合いで本名もしらない、当日に東北に行っていた可能性の強い知人の無事をツイッターで確認出来て安心して力が抜けた。
 知人がご飯を食べている、そんなツイートが今は見たい。自分も情報や励ましRTを繰り返したらいいんだろうか、けれど弱いと言われても波の流れの中にすっくと立ち自らの手で海を動かす力が今の私には無い。ただひらすらこちらの重くなる気分を保つのに精一杯だ。

 だからブログにもツイッターにもなるべくもう地震のことは書かない。ブログにはこれが最初で最後。誰でもが持ちうる情報を拡散するのは私の役目ではない。追悼の言葉や励ましの言葉を並べることもたくさんの人がやっているから敢えてしない。ただ阪神淡路大震災で「もう終わりだ」と思うしかなかった廃墟と化した神戸の町が傷を背負ったまま蘇りゆくその姿を見て伝えてきたから、司馬遼太郎竜馬がゆく」の中の「世に絶望というものは無い」という言葉が目の前にある。ただ生きるしかない。残された者は、生きるしか。


 仕事で広島の原爆資料館や神戸や淡路島の震災関係の施設に行くと、学生達に、

「なんで修学旅行でこういうところ来るかわかる? これは、ひとごとじゃないからなんです。私達にもみんなにも、明日起こりうる可能性が十分にある出来事なんです。明日、いきなり死ぬかもしれない、だから生きていることは価値があることなんだと知るために、こういうところに来るんです」

 と、いう。
 正直、「そんなこと知らねーよ」と無関心そうにダルそうにする学生も多いのだけれども、つまりはそういうことだ。わかってもらえなくても、言い続けてきた。それがわたしの仕事だから。原爆や震災の施設が君達にとっておもしろくもない、時には怖いものだということはよく知っている。そんなところより買物や遊園地の方が楽しいだろう。けれど学校行事でそういう場所に行くことの意味ぐらいは言わせてくれ。聞いてなくても、無視されても、しょっちゅう「そんなこと関係ねぇ、行きたくねぇ」という態度に腹を立ててもいるが、この際だから耳をかっぽじって聞きやがれ。お前らも明日、何が起こるかわからねーんだよ、ひとごとやアニメや映画だけの出来事じゃないということを、受け入れるアタマを持ちやがれ。


 東北地方には、私が案内した一般のお客さんも学生達もたくさんいて。本当にたくさんいて。1日だけ、あるいは数日だけの短い間だけだったけれど確かに顔を合わせ一緒に過ごしていた人達のうちの確実に何人かが、あそこにいるのだと思うと、いたたまれない。


 情報の波に呑み込まれそうになり不安になり重くなりいたたまれなくもなり罪悪感や自分の冷たさに嫌気もさし、だけど所詮自分は安全なところにいるんだという安心と申し訳なさにくらくらと眩暈を起こし――

 猛烈に、映画が観たくなった。
 映画館に行きたくなった。映画館の暗闇に飲み込まれてスクリーンに写される世界に触れたくなった。

 前売り券を買っていたので京都シネマにて「堀川中立売」柴田剛監督)を観た。

 京都の狂気を描いた映画。明るく悲惨でポップで歪んだ世界。結界の中の箱庭のような京都の町の路地裏には時空のひずみがあり、そこには時の流れに無頓着な妖怪達が未だに潜んで時折私達の前に顔を出す。京都でしか撮れない映画。「古都」「はんなり」「伝統」「歴史」そんな顔は京都の一面に過ぎない。この街は君達が知るよりももっともっと狂気が潜む。そしてこの街は、「現代」や「社会」から零れ落ちた「ダメな人」が多くて、そしてそういう人達でも生きていける街。悲壮感の無いダメな人の多い街。歴史があるということは欲の吹き溜まりってことだ。
 ダメな人でも生きていける街。だから私もここに無理やり戻ってきた。
 京都は狂ってて、時空がズレてて、おばけや妖怪があたりまえのように人間と共存している、おかしなおかしな街。

 京都の歪んだ時空の路地裏にどっぷりと身を浸し、映画館から出ると気がだいぶ楽になっていた。楽になっていたということは、まいっていたのだろうなということに気付いた。

 「そんな場合じゃない」「それどころじゃない」確かにそうだろうけれど、自分が今まで最悪な状態の時に心を救ったのは小説であり、映画であり、音楽だった。ネット上で繰り返されているが、議論は批判は人を救わない。何かを生み出すではあるだろうけれど、今はとにかく「人を救う」ことが優先だ。そして、自分の心を救わなければ、病んで何も出来なくなってしまう。
 人の心を救うことが出来るやもしれぬ職業に関わろうとしていることを、私は、何よりも誇りに思わねばならぬのかもしれぬ。
 救え、自分の心を。そうしないと、何もできない。人のためになるようなことも。

 不安が齎す、泣き叫びたい衝動に駆られるかのような絶望の気配を感じる人に、この2冊を薦めたい。
 生き残り必死に瓦礫の中から立ち上がり傷だらけになりながら放たれる青年達の絶唱のような文学を。

戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)

戦中派不戦日記 山田風太郎ベストコレクション (角川文庫)

堕落論 (新潮文庫)

堕落論 (新潮文庫)

 


 そして働け。
 心を救い元気で真面目に働け。
 働いてゼニを稼がな、己のメンテに支出せなあかんハメになるし、義捐金も出せん。