墓場唄


 このところブログが告知ばっかりになってなんかいやんとか思ってはいるが、「これでいいのだ!」という気もする。ブログは実験であり練習であり吐き出し口でもあった。恐ろしい勢いで更新していたこともあったし、いろいろ考えて策を練って書いていたこともあった。だけどそれも「プロ」つまりは文章でお金を貰える人になるまでのことだと思っていた。「ブロガー」になるつもりはない、文章でお金をもらう人になりたいんだ、と。「ブログが全て」の人にはなりたくなかった。ある時から、ブログにエネルギーを注ぎ込むのをやめた。ブログで満足いくものを書くと、実際の創作へのエネルギーが足りなくなるからだ。そもそも2年ほど前から小説を書き始めた頃に一番苦しんだのが、小説を書くはずがブログ記事のような「自分語り」になってしまうことだ。客観的な文章が、書けなかった。そこから脱するのに少し時間がかかったし、自分は小説がもう書けないんじゃないかと泣きもした。ブログに力を入れるのをやめよう、適当に何も考えずに書こうと思った。そしてエネルギーを小説に注ぎ込もうと。ブログという媒体で第三者に添削されない自分語りを続けていると、それはいつしか自己正当化になる。客観性を失い、危険だ。それにもう私は自分の自分語りにうんざりもしていた。

 けれど、過去のブログ記事を読むと、その時、その時の、いろんな想いが溢れている。数年ブログを書いていて、その間、何人かに恋もした。その折々の、嘘の無い想いを描いてきた。どれもこれも叶わなかった恋だけど、それを文章という形でここに残してきて良かった。今では絶対にかけない文章ばかりだ。その時のどうしようもないぐらい深く切ない想いは本物だけれども、過去のものだ。

 だからこのブログは、恋の墓場なのかもしれない。形を持たない「恋」の骸の墓場だと。
 「過去を忘れなさい」という人がいる。けれど忘れられるような過去なんてたいした過去じゃない。人間は過去で出来ている。過去の経験が血となり肉となり「私」の一部となっている。愛も憎悪も、全て。
 忘れることも消すことも出来ないし、無理やり「無かったこと」にしようとすると病んでしまいそうだ。けれど忘れることも消すことも出来ないが葬ることはできる。

 だから私はここに墓場を作った。