「癒しとイヤラシ エロスの文化人類学」 田中雅一・著


 私は時折、切に、切に、セックスがしたくてたまらなくなる。
 泣きたいほど、恋しくなる、セックスが。
 触れたい、触れられたい、抱きしめられたい、繋がりたい。
 けれど、この「セックスしたい」という気持ちが、性欲と言う言葉で片付けられるものなのか、それともそうじゃない、寂しいから人を求める、つまりは癒されたいのか、わからないのだ。
 ただ、性器と性器を繋がらせ摩擦したいだけならば、誰でもいいわけで、そうじゃないというのは、性欲という言葉で片付けられるものじゃないのではないか。
 
 セックスが無いと、生きていけない。
 セックスにより齎されるものは、性器の充足だけではなく、もっと、もっと、心も身体をも包み込み母の手に導かれ安眠へいざなうようなもので、だから、セックスが無いと、生きていけない。

 寂しいわたしは、癒される、セックスで。
 いやらしい行為に、癒される。




 「癒しとイヤラシ エロスの文化人類学」(田中雅一・著)を読みました。田中雅一教授は、本のカバーに書かれたプロフィールによると、「ロンドン大学経済政治学院博士課程学位取得。国立民族博物館助手を経て、現在、京都大学人文科学研究所教授」詳しくはこちら、田中教授のHPをご覧ください→http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~shakti/

 もともと私が田中教授と知り合ったきっかけは、代々木忠監督作品です。田中教授はロンドンより帰国して、偶然、劇場で、代々木監督の「ドキュメント ザ・オナニー」をご覧になり、それから研究を始められ、2007年に「癒しとイヤラシのポルノグラフィー――代々木忠監督作品をめぐって」という論文を発表されております。今更ながら、私は代々木監督ファンですので、人を通じて、田中教授とお知り合いになりました。

 そして、この新刊「癒しとイヤラシ エロスの文化人類学」では、上記の代々木作品への考察を含めて、多様な側面で「エロスの文化人類学」を語られています。

 タイトルにもある「癒しとイヤラシ」ですが、今話題の東京都青少年健全育成条例改正案の問題にも関わりますが、ポルノグラフィーとは何でしょうか? 男達の欲望の為に存在するそれらのもの、それは非難されるべき存在なんでしょうか?
 「いやらしい、暴力的、女が商品になっているから駄目だ」そう捉える人もいるけれど、ちょっと考える能力のある人間ならば、そこで切り捨ててしまうのはあまりにも安易だということはわかりますよね。私かて、子供が居たら、過激なポルノは見せたくないとは思う。
 けれど、人間には間違いなく、不条理で暴力的で底知れない性の欲望というものがあり、それを自分自身でも飼いならし手なずけて、尚且つ他人のそういう欲望を認め共存して生きていかねばならないということは、教えたい。

 AVというメディアの一つを見ていても思うが、ポルノグラフィーの奥深さ、つまりは人間の欲望の幅広さ底知れなさには感嘆し、時には感動する。外国のポルノについての知識が無くて比較論は述べられないのだけれども、日本のAVの多様さは、この国の「宗教の不在」が生み出したものではないかと、つくづく思う。何事もそうだが、ポルノも、それのみでは生まれず、存在しない。環境があり条件が備わり生まれてくるものだ。そこに大いに影響を与えるのが思想であり、その根底には宗教がある。
 本題とそれますので、この話はここまでにしますけれど、誰か「日本におけるAV」を宗教&歴史と関連づけて研究してくれないかなぁ。AVそのもの自体は様々な人が書いてるし本も出てますけれど、何故に日本のアダルトビデオは、このような特性を持つのか、宗教や歴史をベースに考察して本出す人とかいませんか・・・え? お前がやれよって・・・? 淫語魔さんとかどうでしょうか? 


 さて、本題に戻ります。
 この本の、「はじめに」の中で、こう書かれています。

「本書ではエロスを、自他の変容や融合を可能にする人間関係を否定するような動きや表現への対抗」 と。

 では、反エロスとは何なのか。

「意識が身体の虜と感じられるような状況」「体が痛いのではなく、体までもが私を痛めます」 

 ポルノグラフィー=エロスではありません。それはむしろ、「反エロス」に満ちていると書かれています。
 
 本書は、第四部に渡って書かれています。


 第一部は「性のエスノグラフィー」

 戦後に米兵相手に体を売っていた売春婦、所謂パンパンの話。犠牲者として、あるいは誘惑者として語られた女性達について。売春婦という存在は今も、人の心をかき乱す。例えば私が知人が集まる場所で「私は売春していました」と公表すれば、人々は平気で流しはしないだろう。嫌悪する者もいれば、同情するものもいるだろう、面と向かってはしなくても、見えぬところで嘲笑するものもいるだろう。以前、「女の人は体売れるからいいよね。気持ち良くてお金を貰っていいよね」と言う男の人に出会ったことがあるが、その中には蔑みのみならず羨みを感じた。男だって体を売れる市場はあり、「売春は女の特権」では無いのだが。ただし男が体を売る市場は主に同性相手なので、その辺の違いはあるだろう。
 嫌悪にしても同情にしても(同情というのは憐れみであり慈悲では無い)嘲笑にしても羨望にしても、どれもこれも「得体の知れない者に対する恐怖」を私はそこに感じ取る。そこが面白くもあり、悲しい断絶でもあるのだけれども。
 そして「体を売ることは可哀想なこと」とも勿論言い切れない。性を売るには、それぞれの理由があり、好きで売り楽しい想いをする女もいれば、自傷行為の延長もいるし、お金に困ってやむ終えずという場合もあるし、結果的に性を売り精神的にも経済的にも満たされ幸福になる者もいるのだから。

 ただ、普段人と話したり、人が書いたものを読んで、「売春」というのは一つのリトマス試験紙になるのが、面白い。「売春」に対する考え、言動により、偏見、差別意識、偽善、様々な物が炙り出るからだ。

 この章では、パンパンと、もう一つ、故・永沢光雄さんの著書「AV女優」が取り上げられている。1996年に発売されて話題になったAV女優のインタビュー集である。
 AVに人は何を求めるのか――それを田中教授は「2つの変貌」だと述べる。1つは「なんで彼女みたいな可愛い女の子がこんなビデオに出演してるの?」という問いであり、もう1つは「あんなに可愛い女の子がこんなに淫乱だなんて、どうして?」とう問いであると。そして「オーガズムを通じて明らかになるのは、彼女自身が知らない表情であり、声であり、痴態なのです。本人自身が知らないもの、本人が統御できない世界を体験することで、視聴者は彼女をわがものにしてしまいます」とも述べられている。
 そして「AV女優」という本は、更なる変貌、それは「素顔」と言われるものを導き出しているのだと。

 中村淳彦さんの著書「名前のない女たち 最終章」のあとがきにも書いてるけれど、私は男性誌、AV情報誌のAV女優のインタビューを読んで、特に喉に何かが詰まったような違和感を覚えることが、よくある。ビデオの中の「エッチな女の娘」そのものの、男性の欲望を体現したかのようなインタビューが苦手で、けれど、それこそがそういう媒体に相応しく望まれた内容でもあることはわかっている。
 男と女の間には、深くて暗い川がある――だからこそ勃起には幻想が必要で、ポルノはその幻想を具現化したものであり、作り手は基本的に幻想を守らないといけないのだということも。だからこそ、時には勃起を阻むような重くて暗い現実を突きつける永沢さんの「AV女優」や、中村さんの「名前のない女たち」は、AVの作り手、あるいはAVファン達に非難されるのだということも当然のことだ。
 この本では「名前のない女たち」のことについては触れていないけれど、永沢さんの「AV女優」についての、

「永沢は多様で時に悲惨な人生の到達点にアダルト・ビデオ出演を位置づけています。それらは落下地点ではなく、むしろそれまでの虐待やいじめ、孤立などから救い出してくれる癒しの現場なのです。そしてこの『基本構造』が、読者にカタルシスを与えてくれます」

 という記述を読んで、私は上記の一文に、「AV女優」と「名前のない女」たちの違いが、自分の中で明確になった。
 永沢さんが、AV出演を「癒しの現場」として位置づけているのならば、中村さんは、そこで癒され救われることがあると知りながらも、「そうじゃないんだ、そこから抜け出ろ」というもどかしさを抱え自身の矛盾も含めて、生きることの難しさと社会に対する怒りを滾らせて、無力さ故に「絶望」という言葉を使用しているように見受けられる。




 第二部は「エロスと反エロスの攻防」 

 女性の性的快楽――その性器と、自慰(オナニー)について、まず述べられている。「女性」の自慰が描かれてきた歴史・・・昔のオナニー有害説とか、あんまりにもで笑うしかないですね。
 AVに見る「女のオナニー」は、「男の望む女のオナニー」で、女性の性的快楽の次に述べられている男性の性的快楽の項に書かれている勃起・射精の話とも繋がるのだが、「男の望む女のオナニー」でしばし登場する性具は、あくまで現実の男の代用品である。
 「快楽を与え続けるペニスを具現化したものがバイブだ」と書かれているのは、まさにそのとおりだ。
 そして男性の性的快楽――勃起、射精へのこだわり。すなわち性器そのものを、それらが果たす役目についての男性のこだわりに、私はしばし、うんざりしてきた。性器の大きさ、形、勃起の具合、射精の有無や早さ遅さ、それらにこだわりが強い男性ほど、エロスとは遠く、融合からほど遠いというもどかしさを感じる。
 「男の思う女のオナニー」そして「勃起、射精、性器へのこだわり」を目の当たりにする度に、私は、セックスというものは、男と女を近づけるものではなく、遠ざけるものではないかと、たまに感じる。
 けれど、そうじゃないのだ――それを模索して、第三部に繋がる。


 第三部は、「癒しとイヤラシのポルノグラフィー」 

 ここで、代々木忠監督とその作品群について語られる。
 
 代々木忠という人の生い立ち、そしてどのような人生を送り、どういった作品を作り続けてきたかということは、この本を読んで、そして来年公開の石岡正人監督の映画「YOYOCHU SEXと代々木忠の世界」を観て欲しい。
 あなたがもしも、AVを知らない、あるいは「AVって、男優と女優が仕事で裸になりセックスしてるだけのものだ」「AVはつまらない」「不愉快なもの」「男が観るもの」だと思っているならばこそ、読んで、観て欲しい。
 そこには、もしかしたら、あなたが驚愕するものが映っているかもしれないから。

 この章に書かれている代々木監督の強い「家族愛」での飢餓感――そもそも、セックスとはそういう側面と切り離せないのではないだろうか。
 セックスがしたいという欲望の中には、人肌に触れたい、抱きしめられたいという想いがある。そして、許されたい、自分を捕らえている鎖をかなぐり捨てたい、と。子供になって、母の胸の中で泣きたい、と。
 寂しい私は抱きしめられたくて、ここにいていいよと、お前が必要だと言われたくて、セックスをしたくなる。
 「家族愛」それを求めているのは代々木監督だけではなく、男優達も、女優達も――それが「代々木学校」と言われるゆえんなのか。
 「ザ・面接」シリーズなどは、まさに「仲の良い家族の団欒」を思わせることがある。男優達は兄弟で、審査員、女優達は母であり姉であり、代々木監督自身は一見その家族の父のように見えるが、実は一番甘えん坊の末っ子にも思えるのだ。


 第四部「グローバル・エロスを求めて

 まず、この本の冒頭に、田中教授が衝撃を受けたAV「裸の大陸」(ナチュラルハイ)について書かれている。日本からスタッフと女優がアフリカやアマゾンに向かい、「未開」とされる現地の男性とセックスを繰り広げるというシリーズである。性産業の最前線では予想もつかないことが生じている、と。
 そしてこの章でまず掲げられているのが、「すし売春」。シアトルでの日本レストランで評判を呼んだ「女体盛り」にアジア系の女性団体が、女性の尊厳を傷つける行為であり虐待だと非難し、「すし売春」と題する集会を行ったという記事についてである。このレストランの韓国人オーナーが、「これは芸術だ」とその非難に答えています。果たしてそれが芸術なのか――
 その他、ここでは性器を御神体として祀る「性の祭り」のことも書かれている。「性の祭り」は、エロスを喚起させるだろうか。勃起して、濡れるだろうか。
 私は奈良県明日香村での「おんだ祭」に行ったことがあり、性器の形のお守りを購入もしたが、興奮はしない。ただ、おかしさとバカバカしさに笑うだけだ。それを田中教授は「笑いもまた越境的なコミュニケーションで、エロスの探求のついて無視できない」と書かれている。
 そのことで思い出すのが、古事記である。古事記にはイザナギイザナミの「国生み」を初め、性器描写が多いのだが、笑いと直接結びついているのが、天岩戸の物語である。弟・スサノオに怒り、天岩戸に閉じこもったアマテラスオオミカミの元に神々が集い宴を行い、アマノウズメが踊り、服が乱れ「ホト」つまりは女性器が見えて神々が大爆笑したという話だ。
 例えばストリップ劇場で、女性が性器を客席に見せたとしても「大爆笑」は起こらないだろう。それは淫靡で厳粛な物だからだ。
 性器と笑い――それこそ何故にそんな「文化」がありうるのだろうか。

 第四章は、「問題は性的な能力や技巧ではなく、あなたが相手を信頼し、エロスの世界へと誘う勇気があるかどうかなのです」という言葉で締められている。
 


 「本来まったく脈絡のないこれらの欲情の記憶を編集したのが本書です」と、あとがきで田中教授は語る。まさにその通りで、こうして列挙して、その範囲が手が届かないところまで広がり、疑問を投げかけられて、答えを託されたままの読後感がある。
 ただ、あなたは知っているだろうか、知っているはずだろう、「イヤラシ」が、「癒し」と無関係ではないことを。
 性とは何か――それを問いかけることは、果ての無い旅路であり、永遠と見紛うほどに深い井戸に手を伸ばすことであり、探究心を揺り動かすけれど、「わからないまま」で宙に揺れ続けることではないが。
 AVの世界でまさにそれを未だにやり続けているのが、代々木忠監督である。

 どうにもこうにも人間というのは強欲で業が深く、それが象徴されているのが、性的なもの――性癖であったり性欲であったり探究心であったり、また時に「恋愛」という心を揺さぶられるものを、伴いながら――それらに動かされ、時にはがんじがらめになり、時には心地よく流されていく。

 可笑しくもあり、悲しくもあり、不思議で、怖くもある、多様なる「性」という幾つもの支流が1つの川になり、海へと流れていく。私はその流れに身を任せ、水の温かさに抱かれながら、流れていく、海へ。寂しい私は求め、与えられ、癒される、セックスで。

 この本を手にとって、あなたの知らない世界に触れることにより、自分自身の「性」はどこから、どうして来るのか、考えても探っても答えが出ないことに身を浸してみればいい。あなたが今、信じているものをこの本で覆されることもあるかもしれない。

 わたしは、セックスそのものも好きだけれども、セックスに纏わる様々なことに惹かれてやまないのです。


癒しとイヤラシ エロスの文化人類学(双書Zero)

癒しとイヤラシ エロスの文化人類学(双書Zero)