煩悩欣求の灯火


 夏らしいことを、全くといっていいほどしていない。
 海にも行かない、山にもいかない、今年は旅行も行っていない。近場でうろうろしているだけ。夏らしいこと・・・と、いえば、心霊スポットや怪談イベント行くぐらい? それもどーかって話だ。
 お盆に帰省して同窓会に出席した際に、先輩に「心霊スポットとか行ってるから変なもんとりついて男運悪いんだ」と言われて、周辺を見回しても心当たりありすぎ! と思ったけれど、よく考えてみれば心霊スポットとか行く前から男運悪いわ。なんせ、筋金入りだから、あたしときたら。
 浴衣も結局、一度も着ていないし、このまま、夏が終わってゆく。浴衣だけじゃない、一度も男と寝ずに。

 夏は終わるけれど、せめて、その終わりを見届けてみようかと、今年は久々に「五山の送り火」に行くことにした。
 毎年8月16日に、京都の五つの山に浮かぶ文字に火が灯される。「大」「妙」「法」「船形」「鳥居」そして、も一つ「大」の字が。
 この行事は、いつ、誰が何故始めたのか、諸説あり、はっきりしない。弘法大師空海が始めたという説もあれば、室町幕府八代将軍足利義政説もあるし、浄土寺の本尊が火災を大の字になり守ったとか、いろんな話がある。また、以前は上記以外にも「蛇」だとか、他の文字が焼かれた山もあったらしい。戦時中、この行事が中止された際には、白い服で山に登り「白い大文字」を作ったことなどの話もある。
 ただ、お盆に此の岸に帰ってきた精霊達を、彼の岸へ送る火であることは、確かであろう。そのために、先祖を乗せる馬になれと、茄子や胡瓜に竹棒で足を作ったりもする。

 高見まこいとしのエリー」という漫画に、主人公達が京都旅行にでかけ、この送り火に見とれながらプロポーズする場面があるが、そういうような衝動的に愛の告白に駆られることも頷ける、鮮やかで儚い夏の終わりの行事である。

 今まで、京都御所、嵐山などでは何度も見たが、今回は初めて今出川通りにかかる橋、賀茂川と高野川が合流し一本の鴨川となる賀茂大橋にでかけた。地下鉄の今出川駅を降りると、人々が一斉に東へ向かう。浴衣姿の女性がちらほらと、手を繋ぎ導かれながら。わたしはその中をかいくぐり、ひとり、賀茂の流れの傍へ歩む。
 昼間なら、ここからは比叡山がよく見える。空にすっくと立ち都の鬼門に聳える比叡の山が。夜も闇の中に影のように比叡の輪郭が浮かぶ、魔王の如く。霊峰は何を思い見下すか、千年の王城の地に人が集う景色を。賀茂の流れに蠢く夥しき人間を。
 人の中をすり抜け、私は鴨川の河川敷に降りた。無数の人々が座り込み、東山三十六峰連なる蒼龍の方を眺める。
 八時になり、人々が拍手して声を挙げた。東山如意ヶ岳に「大」の字が灯った。そこから、円を描くように、順に火が灯される。


 松ヶ崎大黒天の「法」も見えた。のりのともしびが。


 近くにいた若い男が「すげーすげー感動した!」と声を挙げていた。

 闇に浮かぶ、「大」の字。この日ばかりは、京都市内は照明を落とすのだ。送り火が映えるように、と。
 「大」の字は、人間の形だと言われている。「大の字になって寝る」という言葉もあるように。人間に火を灯すことにより、人を蝕む煩悩を焼き尽くすという意味もあるのではないかとも言われる。

 昔、男に、送り火を見に行こうと誘うと、断られた。
「あれを見ると、寂しくなるから、嫌なんだ」
 と、言われた。

 私は寂しくも、悲しくも、切なくもならない。身体に蠢く煩悩も、送り火に焼き尽くされることは無い。むしろ、油を注がれ尚更に燃え上がるばかりだ。私の身体を蝕む、煩悩は。
 私が送り火を見ながら何を思うていたか、昨夜のことなのに思い出せない。ただ、身体の、心の奥底から湧き上がる何かを感じていた。激しい性衝動に似た、抗いがたき欲望が湧き上がるのを。その欲望の矛先が何なのか、わからない。ただ確かなのは、私はその衝動にとりつかれ、ブレーキの無い車を暴走させるようにしか生きられない。
 私は、まるごと女なのだけれども、そのように、射精せずにはいられない勃起した性器のような暴力的な欲望で動く。男と寝たがる、男の肌を乞うる、うんざりするほどに、女なのに。