雑誌の死


 永く愛読していたAV情報誌が終刊した。今まで一番永く購入し続けていた雑誌だ。バックナンバーは本棚に古い順から並べている。欠かさず購入していたのは11年ぐらいで、それより以前のは古本屋でバックナンバーを探して購入していたので、本棚にはそれこそ十数年前からの、古いのはその前身の違う雑誌名の頃からのがある。昔はそりゃあ隅から隅まで読んでいた。AVのレビューも女優のインタビューも全て読んでいた。読むだけではない、オナニーのオカズにもしていた、しまくった。おかげで大してAVを観ているわけでもないのにやたらと女優名などに詳しくなった。

 けれど、去年、購入することを止めにした。以前から、もやもやしていた気持ちが購入をしなくなることでスッキリした。そして購入しなくなって数ヵ月後に終刊されるということを聞いた。それからはまた購入を復活した。それは永く、本当に永く愛読していた雑誌の最期を見届けたいから、終わりが決まったならば再び購入してもいいという気持ちになったからだ。

 今更ながら世の中は不況で、私の現在の収入のメインである観光業界もその波を大いに被っているし、片足の指先ほど突っ込んでいるような出版業界の不況の話もよく聞くし、ここ数年、自分が書いていた雑誌、読んでいた雑誌も次々に終刊した。
 インターネットでも、雑誌でも、書き手作り手の出版不況への嘆き節を目にしない日はない。不況不況の大合唱。最大の原因は紙媒体からネットへの移行、広告収入の大幅な減益。AVだって売れなくなっている。エロは敢えてお金を出して買うものではなくなっているから。AVの批評なんて更にいらない。幾らでもネットで欲しい情報を提供してくれる一般ユーザーがいるからだ。不況不況の大合唱。誰が悪いのか、ネットのせいだ、不景気のせいだ、仕事が無くなる、さあどうすればいいんだの嘆き節の大合唱。

 以前から、ネットでそういう書き手と作り手の嘆き節と、雑誌不況はネットの存在だとかいう話を目にする度に、もやもやとした感情が込み上げてきて喉元に詰まっていた。だけどそれは敢えて書かないし言えなかった。それは自分が片足の指先ほどでも出版に関わっているのと、数年前からネットを通じてエロ業界、出版業界の人とも知り合ってしまったことから、純粋な「読者」では無くなってしまったことの躊躇いと遠慮からだった。だけどもう、いいや。どうせ自分はエロライターと便宜上とウケ狙いで名乗ることはあるけれど、失礼を承知で言うが目指していたわけでもないし、これから先もその方向には多分行かない。それよりも永く愛読していた雑誌の「死」が来たからこそ近年もやもやしていたことを「読者」として書こう。

 私が何故、十年以上愛読してきた雑誌を昨年購入するのを止めたのか。それは読者として止めるに値するまっとうな動機は「面白くなくなったから、値段が高いから」だ。
 千円近い値段だ。本の値段は中身に値するかどうかだ。200円でも「高い」本はあるし、2000円でも「安い」本はある。
 以前はその雑誌は、読み物は面白いし、相当「安い」雑誌だった筈で、今よりずっと貧乏な生活をしていた時代でも必ず購入していたのに。ネットなんて無かったから、田舎に帰っていた時は電車で1時間半かかる町まで行って購入していたし、それだけ価値がある中身だったのに。

 もともとAVを大して観ていない、見られる環境じゃなかった自分がそこまでしてその雑誌を買い続けていたのは、あるライターの存在だった。私は彼の本を読んで救われたし、AVと、その世界で生きる人達に興味を持って、その人の文章が掲載されているからその雑誌を買い続けた。その記事は興奮した、胸が沸き立った。そしてそれだけじゃない、その雑誌には他にも刺激的で斬新で驚愕させられる裸の、セックスの世界が描かれていた。
 その頃、私は初めての男に貢いで借金を作り、その返済に追われる最悪な状態の頃で、だけどやたらと活字に飢えていた。あの頃は、図書館や立ち読みでやたらと雑誌を読んでいた。週刊文春、朝日、新潮、ポスト、現代、毎日、そして月刊誌なども欠かさず読んでいた。雑誌は刺激的で新鮮な媒体だった。「今」を語る一番面白いメディアだった。雑誌をやたらと読み出したきっかけはオウム真理教事件で、あの頃の雑誌の記事をスクラップした物は、まだ保管している。
 雑誌は刺激的で新鮮で、それはAV情報誌でも例外では無かった。AVを見なくても知らなくても充分に面白かったのだ。

 時は経ち、昨年、購入を止めた。この内容でこの値段は高いのではないかと思い始め、そして以前ほど端から端まで熟読もしなくなっていた。具体的にどれがどうとは言わないが、全体から以前のような刺激を感じることが出来なくなった。自分がネットに慣れたせい、エロが簡単に手に入るようになったせい。そういうことを言ってごまかしてはいたけれど、やっぱり違う。以前と比べると、明らかに内容のクオリティが下がっているとしか思えないからだ。

 ネットでは以前から書き手達がエロ雑誌不況、倒産、廃刊を嘆き、ネットのせい、不況による広告収入の減益を嘆いているが、そういう記事を読む度に鼻じろんでいたのは、私だけだろうか? それらの嘆き節には、私が購入しなくなった、それ以前よりエロ雑誌に対して感じていたこと、おそらく一番大事なことが抜け落ちているからだ。「面白くないから」ということが。そして書き手作り手がそのことを置き去りにして、あるいは意識的に避けて出版不況を嘆くのは、ものすごく「ひとごと」にしているような気がしていた。だって面白くなくなったの、つまらなくなったのは、誰のせい? それはネットのせいでも不況のせいでもない、書き手の力不足、企画力不足、努力不足じゃないの? つまりは自業自得で、雑誌の死はネットや不況に殺されたのではない、「自殺」なのだ。

 それは私が今居る業界でもそうなのだ。観光業界、バス業界の不況は著しい。そしてその業界に居る人間は不況を嘆く、それを齎した法律を嘆く。けれど全ての業者が落ちていのではなく、企画力と宣伝能力で売り上げを伸ばしているところも確かにある。要するに勝ち組と負け組がはっきりしてきただけの話で、嘆くばかりで何もしなかった人達が生き残れなくなっている。それは当然の話だろう。だから私は今居る業界の嘆き節にはうんざりはするが同情など全くしない。だってそれは自ら選択した「死」なのだから。

 今回、永く愛読していた雑誌の終刊にあたって、何人かの書き手がネットや雑誌で終刊について書いていたのを読んだが、どれもこれも「悲しい」「残念」「いい雑誌だった」「愛している」「泣きました」「つたない文章を書く自分を守ってくれた」「ありがとう」と、悲しみと感謝の言葉を連ねていた。中には過剰な程の感情の吐露もあったが、やはり書き手は誰も触れていない、「面白くなくなったこと」そして、それは自分達の責任であることに。書き手が雑誌への愛着や賞賛や無念さを書くほどに、私は常連ばかりの飲み屋に、ついうっかり入ってしまった居心地の悪さと感じるのだ。ああ、なんかこの人達、すごく内輪で盛り上がっているけど、ついていけないなぁ、でも、私はお客なのに、というような。そしてやはり書く人達はプロであるので、一見説得力がある書き方をするから納得してしまいがちで、私達に「正しい読者」としての視点をくらませてしまいそうになる。でもさあ、プロなんだから、甘えはよしなよ。自分の力不足や努力不足を同情引くネタに転嫁して綺麗事のように見せかけるの、恥ずかしくないのかなぁ。

 雑誌は書き手、作り手のものじゃない、読者のものだ。書き手作り手のエゴを見せ付ける前に、嘆きの自己陶酔節を聞かせられる前に、もっと彼らはやるべきことがあったのではないか。そこを見て見ぬフリした結果、雑誌は死んでいった、読者をとり残して。頑張って作ったから、自分が書いていたからいい雑誌でした。業界の人に喜ばれる雑誌でした。じゃあ何故、雑誌は終わってしまったのか。全ての雑誌が終わっているわけじゃない、残っている雑誌もある。じゃあ何故その雑誌が終わったのか。最後だから、綺麗事で賞賛して悲しみで湛えて終わらせよう、それでいいのか。それで喜ぶ読者もいるだろうか、それで、いいのか。
 私はよくないよ。瀕死の重傷を負う前に、死ぬ前に、治療をするべきだったんだよ。死んだら元も子もない、だから死ぬべきではなかった。死に近づいていたのを感じていたのは私だけではなく、作り手書き手の方がもっと感じていたんじゃないのか? わかってなかったらアホだ。十年以上隅から隅まで読んでいた私という読者ですらここしばらくはわかっていたのだから。だけど読者だから、面白くなくなったら手放すだけだ。読者は書き手と違いドライで厳しいよ。だって安くないお金を払って購入しているのだから。
 面白くなくなってしまうのは、読者に対する裏切りなのだ。敢えて傲慢を承知な言い方するが、こっちは金払ってんだよ。

 何故雑誌がつまらくなったか。媚びてるからだ。読者を裏切らなくなってしまったからだ。読者と、そしてAV業界に媚びてしまったからだ。「面白いもの」というのは、いつの世の中でも人を裏切るものだ。小説でも映画でもそうだ、斬新なもの、人を驚かすものというのは、人を裏切るものだ。かつてのその雑誌にはそれがあった。だから読んでいて、毎月「発見」があり、驚かされた。雑誌が読者を裏切らずに何故媚始めたか。それは書き手が媚びているからだろ? 取材対象にね。仲良しこよしになりたくて。その時点でももう批評は出来ないんだよ。批評ってのは媚びちゃ出来ないけれど、それは今、AVに限らずどのジャンルでも履き違えている批評家もどきが多い。
 批評に必要なのは氷のように冷めた目であり、燃え上がる熱ではない。過剰な思い入れや賞賛ではない、大切なのは批評する対象への熱や親しみではなく、対象が表現しているものの意味を言語化することだ。雑誌は、本は、映画は、誰のためのものなのか。それを読む人、見る人だ。当たり前のことだが、金を払う側なのだ。

 雑誌が終わりました悲しいです残念です不況が悪いんですネットのせいです。それを例えば読者が嘆くのならいいけれど、書き手が嘆くのは責任転嫁と自己陶酔にしか思えない。そして嘆くほどに、あんたらは、かつて私がある1人のライターが書く文章に惹かれて購入し続けていたほどの「仕事」をしていたのだろうか? と問いかけたい。感情の吐露だけして嘆くのなら子供でも出来るのだ。と、いうかそれは子供のすることだ。いい大人が、しかも「プロ」と呼ばれる人達がすることなのだろうか。それよりもするべきことは、あった筈だ、媚びて仲良しこよしする前にね。その仲良しこよしが「営業」の一環でもあるってことも知ってるけどさ、だけど「仕事の場」は出会い系でも紹介所でもないからね。雑誌はライターを育てるものでも守るものでも可愛がるものでもない、取材対象と仲良くするための仲介をする道具でもない、ましてやライターを食わせる為に存在しているのではない。読者を喜ばす為のものだ。金を買って購入したいと思わせるほどの質の高さを追求していくべきものだ。
 批評家と批評対象は仲間ではない。好敵手だ。喜ばせるべきは批評対象じゃなくて読者だ。

 永年、愛読してきた雑誌は、一冊も捨てていないので、膨大な量になり本棚を占めている。何度も何度も読み返してきたし、これからも読み返す為に押入れにしまわず本棚に並べているのだ。この雑誌を買い始め、今に至るまで、自分自身に起こった様々な出来事にも、この雑誌を通じての出会いが深く関係している。読者として思い入れは強い、ものすごく強い。だからこそ死ぬまでに、死ぬことがわかっていたのならば、なんとかならなかったのかと、そのことが無念なのだ。読者を裏切り続けて欲しかった。かつて、この世で一番、面白かった雑誌と、その世界に、私はありがとうもさよならも言う気もない。永く愛読し続けてきた読者としては納得いかない「自殺」にかける言葉はないのだ。