煩悩系エロライター、斑鳩法隆寺から聖徳太子のお墓まで歩く

hankinren2010-02-25



 平成22年2月2日・・・駅に行くと、「2222」記念切符を販売しておりました。友達の友達で、この日を狙って入籍した人もおるそうな。
 この日は暖かく快晴でした・・・奈良の斑鳩法隆寺から大阪太子町の叡福寺まで19キロ(峠の区間は一部バス)歩くと汗が出ました・・・って、何で歩いてんの! と同僚及び友人達にまたまた「マゾ」扱いされました煩悩系エロライターです。

 2月22日は聖徳太子(いろんな呼び方がありますがここでは諡号で統一表記します)の命日です。この日に、聖徳太子が亡くなった斑鳩から太子が葬られている大阪太子町・叡福寺まで歩くイベントが開催されてまして、仕事でもないのに煩悩系エロライター、1人、始発にて奈良斑鳩法隆寺へ向かいました。
 最近昼夜逆転している上に、いろいろ眠れない夜を過ごしております故(全然色っぽい話じゃないです)、その日は、1時間しか寝ておりません。普段これだけ朝早かったら朝食は抜くことが多いんですが、本日は長い距離を歩きますので、しっかり御飯と味噌汁と大根の煮物の朝食をとり、大阪周りでJR法隆寺駅に向かいます。そこからは20分弱歩いて、斑鳩法隆寺へ。

 法隆寺は、修学旅行のコースには9割入っている世界最古の木造建築にして、日本では姫路城と共に最初に世界遺産に指定された場所です。正確に言いますと、「法隆寺」が指定されているのではなく「斑鳩」という場所が、です。
 この静かな町の一角にある大きなお寺、こちらは世界遺産に相応しい素晴らしい宝物の宝庫です。けれど、「古い」ということは、子供達にはわかりにくく、実はバスガイド達にとってわりかし「行きたくない」場所なんですよね・・・人多いし、下車説(1つ1つの建物案内)ばかりだし・・・
 
 そして、この法隆寺は、聖徳太子ゆかりのお寺ということになっておりますが、謎の多いお寺です。また聖徳太子というと、旧一万円札より、あの名作漫画、山岸涼子先生の「日出る処の天子」を最初に連想する方も少なくないんじゃないでしょうか。ちなみに私は思いっきりそうです。聖徳太子といえば、「日出る処の天子」の超美形で妖艶な、蘇我蝦夷への恋に苦しみ、母への愛を渇望しながらも得られない哀しい少年を思い浮かべてしまいます。高校生の時に、この漫画に数人でハマってました。未だに仕事で法隆寺に行き、「太子像」等を見る度に、「違う!」と山岸涼子先生の絵を思い出してしまう煩悩形エロライター兼バスガイド。一応謝っておきます、ごめんなさい。

 そして山岸涼子先生がこの漫画を描くきっかけになったのが哲学者・梅原猛先生の「隠された十字架」という大胆な解釈の法隆寺論です。法隆寺は、聖徳太子の怨霊鎮めの寺であるというこの説には、反発も多々あり、確かに極論ではという部分もありますが、読み物としては非常に面白い本です。

 そんなわけで、好奇心をそそるお寺なのですが、こちらで今回のイベントの受付が8時半より始まっておりました。

 命日であるこの日に、9時に法隆寺を出発し、叡福寺まで、聖徳太子像を八部衆に扮した方達が担ぎ、それを先頭に200人ほどの参加者がひたすら歩くのです。つまりはですね、これは聖徳太子の「葬送の行列」なのです。

 しかし、そんな雰囲気はなく、おじちゃんおばちゃん中心の楽しいウォーキングの会のような雰囲気です。受付を済ませ、資料と名札とスタンプカードを頂きます。3つの班に分かれて整列し、そこで法隆寺の管長さんのお話などがあり、晴天に恵まれた中、法隆寺を出発しました。
 歩いてまもなく、藤ノ木古墳の側を通ります。住宅街の中の大きな円墳です。豪華な副葬品で有名になったこの古墳には、2人の成人男性が被葬者であることが確認されているそうです。

 更に歩くと龍田神社法隆寺とも縁の深い神社です。ここで斑鳩町の町長さんのお話など。そして、今回は、橿原考古学博物館の方が同行されてまして、行く先々で、その場その場の説明を詳しくしてくださるのです。これは非常に勉強になります。説明が終わると、スタンプをもらい、いざ出発。
 大和川を越え、斑鳩町から王寺町の達磨寺へ。ここでお話、説明と、ご参拝です。境内の中に、三つ古墳があります。達磨寺は臨済宗南禅寺派のお寺で、本尊は千手観音菩薩聖徳太子達磨大師です。このお寺でもですが、道すがら、紅白の梅がキレイに咲いていました。桜のように華やかではないけれど、たおやかで、芯がある乙女のような花ですね。
 歩いてあちこちで思ったんですけれど、奈良のこの辺りって、すごくお洒落なデザインの一軒家が多いです。お洒落って言っても、ゴテゴテしてなくて、シンプルで、趣味のいいデザインの家が。普段バスで移動すると、そんなところは見えないので、新鮮でした。あと、道端に売ってる野菜が安い! 50円の大根、欲しかったけど、大根担いで歩くわけにはさすがにいかずです。
 私が今住んでるところも畑や田が多く(アパートの目の前は田んぼ)こうして道端に野菜売ってて、非常に助かる。大根はやっぱ葉がフサフサしてないとねー。葉もいろいろ調理できるから。

 達磨寺を出て、王寺から香芝市へ。そして尼寺廃寺(にんじはいじ)にて、また説明がありました。発掘中の遺跡なので、建物自体はありません。
 そしてこの先にある平野古墳群は、第30代敏達天皇、その息子の彦人王子(日出る処の天子では、いつも「ゴホン」と気弱そうな咳してるキャラ)、またその息子の茅渟王皇極天皇孝徳天皇の父)ゆかりの人物の墓ではないかと言われているそうです。

 *参考までに。
 第30代が敏達天皇。31代が聖徳太子の父である用明天皇。32代が蘇我馬子により暗殺された崇駿天皇。33代が太子の叔母であり、敏達天皇の妻であった推古天皇。そして34代が彦人王子の子である舒明天皇。35代が舒明天皇の妻であり茅渟王の娘である皇極天皇。この皇極天皇の時に、大化の改新が起こり、舒明天皇皇極天皇の息子である中大兄皇子(後の天智天皇)が、中臣鎌足(後の藤原鎌足)と組んで、母である天皇の眼前にて蘇我入鹿を暗殺します。そして入鹿の父、蝦夷は館に火をかけ蘇我氏が滅亡します。
 そして時代を戻しますが、聖徳太子が亡くなった後に、斑鳩宮にて、太子の息子の山背大兄王と、その一族を滅亡に追いやったのが、蘇我蝦夷・入鹿親子・・・というように、日本書紀では記されています。
 この辺の話にどこまで信憑性があるのか、そもそも「古事記」「日本書紀」は、誰が、何の為に作ったのかということを考えると、鵜呑みには出来ないのですが、間違いなく言えるということは、「歴史」は、後の世の為政者により作られているモノだと、いうこと。ノンフィクションとは言い切れない、だからこそ、こんなに面白い「物語」は無いと思っております。
 さてさて、この辺の話をすると終わらないので、戻します。

 そして西名阪高速道路の香芝IC(いつも私らがバスで思いっきり通過してるところ)近くの正福寺というお寺さんでお昼御飯です。朝食を食べたのは早朝ですし、お腹は減りまくっておりました。弁当は希望者は注文できたので、お願いしていたのですが、お弁当にプラスして粕汁もつけてくださってたのですが・・・・朝から歩きまくって、この日の弁当は、めちゃくちゃ美味しかった。粕汁も美味しかったし、ミニおはぎが入ってたのが嬉しかったな。甘いモノ欲しかったから。仕事などでは食べなれた筈の、幕の内弁当が、こんなに美味いなんて・・・
 って、実はもうこの時点で、結構足が疲れてました。これぐらいの距離歩くなんてへっちゃら! と思っていたけれど、甘かった。バスって、偉大だね・・・歩くって、こんなに大変なんだね・・・

 昼食を食べ終わると、再び整列して、しばらく歩くと第25代武烈天皇陵の側を通ります。この武烈天皇という方は、いろいろ悪行名高い方でもありまして、その悪行もかなり過激です。この武烈天皇に子孫が無く、次の天皇が血縁的に遠い継体天皇。そしてこの「継体」という名前が意味するように、ここでもしや「王朝交代」があったのでは、という説もあります。
 そして武烈陵を背に「志都美神社」へ。ここでまた説明等がありました。
 それにしても・・・斑鳩から大阪って遠いね・・・初めて知ったよ・・・いつもね、バスでひょいひょーいって、西名阪高速道路使っていくと早いから・・・大阪・・・遠い・・・

 はい。
 運動不足の煩悩系エロライター、「大丈夫か!」と自分で自分が心配になってきました。
 だけど、明らかにこのメンバーの中では若い方で、しかもバスガイドやし(関係ないか)離脱なんて恥ずかしいーと、自分を奮いおこして歩き続けます。もう暑くてコートは腰にひっかけてます。日焼けが気になるお年頃なので、勿論帽子被って、首にはタオル巻いてるよ。
 
 そして・・・お昼御飯食べたら・・・猛烈に眠くなってきました。前の日1時間しか寝てないもんなぁ。
 それでも歩く歩く。途中、坂道を上り、トイレ休憩を挟みながら、歩くわたくし達、太子葬送の行列。

 そして目の前には、鹿のマークの奈良交通のバスが6台!
 そうです、この先、「どんずる峯」だけは危険なので、バスで峠を越えるのです。
 バスが・・・観光バスが「神の救いの手」に見えたよ・・・ありがとう観光バス・・・なんなら、この移動の10分間だけでも、車掌業務、あるいはガイドやってもいいよ・・バック誘導だってなんだってやるさ・・・奈良交通みたいな一流会社からしたら、いらんと言われそうやけど・・・

 バスっていいよね・・・
 と、うっとりして、睡魔に襲われて寝そうになりましたが、寝る暇もなく、奈良と大阪の県境を越えて、太子町に到着しました。バスを降ります。振り向くと「二上山」が見えます。奈良からでもずっと見えていて、あんまりにもキレイなので何枚も写真を撮りました。
 「二上山」は、雄岳と雌岳がある、らくだのこぶのような形の山です。この雄岳に悲劇の皇子・大津皇子の墓があるとされています。
 さっきの天皇の系譜の話に戻ります。中大兄皇子天智天皇)の弟が天武天皇。この天武天皇の皇子であるのが大津皇子です。大津皇子の母は、天武天皇の皇后である鵜野讃良皇后(後の持統天皇)の姉である大田皇女です。姉妹で、天武天皇の妻だったのです。
 大津皇子は大変人望が厚く人柄に優れており、もし母の大田皇女が若くで亡くなっていなければ、間違いなく皇太子になり父の跡を継いでいたといわれております。
 鵜野讃良皇女は、自分と天武天皇の息子である草壁皇子皇位につけたいがために、天武天皇亡き後、大津皇子に謀反の疑いをかけ、死に追いやったと言われております。大津皇子二上山に葬られたとされ、その際、妻の山辺皇女も殉死したと伝えられています。

 そして、弟の死を嘆き哀しんだ姉の大伯皇女が歌った有名な歌が、これです。


 うつそみの人にあるわれや明日よりは 
 二上山を弟背とわが見む


 さて、そんな二上山を大阪側より眺めながら太子町役場へ。ここで、最後の説明、そして太子町の町長さんのお話などもありました。スタンプを頂き、太子町役場から、古い町並みが続く細い道を通り、ゴールであります、聖徳太子陵、叡福寺まで歩きます。

 この辺は、磯長(しなが)という地名で、、太子の父である用明天皇、そして叔母である推古天皇、その夫である敏達天皇、そして孝徳天皇の墓とされている古墳があります。
 さて、太子のお墓ですが、石室には、3つの棺があるそうです。太子の母、穴穂部間人皇女、太子の妃・膳郎女、そして聖徳太子、です。
 この3人の亡くなった時期は、奇妙に一致しています。太子の母・穴穂部間人皇女が亡くなり、その約一ヵ月後に膳郎女が、膳郎女の死の翌日に太子が亡くなったとされています。49歳、織田信長と同じですね。
 膳郎女と太子が続けて亡くなったとされている点から、「殺されたのでは?」という説もあります。

 この3人が同じ部屋に葬られている・・・
 「日出る処の天子」ファンなら、このトライアングルの意味深さを感じることでしょう。あの漫画では、蘇我蝦夷への恋に破れた太子が膳郎女を妻とし、その姿を見た蝦夷は、太子の傷と愛情への切なる渇望を目の当たりにし驚愕するのです。
 
 あの、あくまで漫画なんで、本気にしないで下さいね。
 ホントに。
 
 さて、話をまたまた戻します。叡福寺ですが、梅がホントに見事でした。なだらかな山並みに囲まれている静かな町に、ひっそりとあるお寺です。
 さて、本日は太子の命日であり、葬送された太子像を墓前に眺め、法隆寺の僧侶達による太子奉賛の儀式が行われました。「太子和讃」が唱えられます。

「南無観音化身上宮太子 南無観音化身上宮太子
 南無観音化身上宮太子 南無観音化身上宮太子

 と。

 奉賛の儀式が終わると、法隆寺、叡福寺の方からのご挨拶があり、今回の行事は終了です。ちょうど予定通り16時半。皆に甘酒が振舞われました。駐車場に先ほどの奈良交通のバスが停まっており、途中近鉄二上駅、JR王寺駅を経由して法隆寺へ戻るバスです。

 私は、太子の墓を眺め、手を合わせ、その場を去りました。
 聖徳太子が、この国において、何故に長きに渡り信仰の対象であるのか。太子が何をこの日本に齎したのか。それを語るにはまだまだ拙い知識しか無いのですが、私が今ここで思うことは、聖徳太子という人は、その子孫達を、ある権力により絶たれ滅亡させられたという、悲劇的な背景を背負った人だということです。わずか19歳という若さで推古天皇の摂政となり仏教の教えで「和」をもってこの国を治めていこうとした筈の人が背負わねばならなかった悲劇の業とは、何だったのか。

 法隆寺には年間にたくさん人が訪れますが、このひっそりとした町に静かに眠る太子の噤まれた口が唱えるのは、祈りなのか、それとも呪いなのか。
 やはり、祈りなのでしょうか。
 仏の道を我を先達として、歩めと。
 

 静かなるこの磯長の谷に、安らかに眠れよ。
 南無観音化身上宮太子
 南無。