名前のない女たち 最終章 〜セックスと自殺のあいだで〜 中村淳彦・著

 セックスばかりしていた時期がある。
 複数の男と、毎日のように、セックスをしていた。
 好きな男はいた。その人に申し訳ないと思いながらも、そんな生活をしていた。どうしてそんなことをしていたのか。セックスが好きだから。いや、違う。今だってセックスは好きだけど、気が遠くなるほどしていない。セックスが好きなのと、いろんな男としたいのは違う。

 複数の男とセックスばかりしていた時期。私は現実と、目の前にある絶望から目を背けたかったのだ。だからセックスばかりしていた。セックスは楽しい、気持ちいい。嫌なことから目を逸らし気を紛らわせるために最適な遊戯だった。
 そしてセックスをすることにより、男の欲望の対象になり、求められることを必要としていた。例え性欲の解消だけの対象としてでもいい。求められたかった。求められなかったから、求められたかった。セックスの相手をして求められることって、一番直接的でわかりやすい。目の前の男が勃起して、挿入される穴として存在することが、一番わかりやすい。自分が必要とされている、求められていると実感できる。だから私はセックスをしていた。

 どうにもならない額の借金と、サラ金の取立て、仕事を失い20代の全てを犠牲にして貢いだ最初の男に人間扱いされていなかったこと、掌を返したように言葉で痛めつけ、自分の排泄物をかけ侮蔑した2番目の男。私が好きになった男達のことを考えると、死にたくなった。男にそういう扱いしかされなかった。だから、例え愛も恋も存在しなくても、いや、むしろその方が夢を見ずに済むから、ただ勃起して挿入する穴として要求される方が、心を痛めつけられるよりマシだった。
 愛なんていらない。同情するならお金が欲しい。私を救うものは愛なんかじゃない。そもそも誰も私を愛さない。それならばセックスだけでいい。求めて要求されることが喜びだった。例え肉便器でも、排泄処でも。

 そうやって、私はセックスで自分を傷つけていた。そんなセックスでも楽しかったから、そのことに後悔はしていない。
 あの頃は、ただ死にたかったのだ。絶望から目を背ける為にセックスして、快楽に依存して、自分で自分を殺す勇気がないから、殺してくれる相手を探していたのだ。願わくば、挿入されて快楽に喘いでいる時に、首を絞めて一気に殺して欲しい。誰か私を殺して下さい殺して下さいお願いですから殺して下さい生きていくことが辛いんです絶望しか見えないんです殺して下さい殺して下さいお願い、誰か。

 そうして、数年が経ち、何故だか私は死なずに生き残った。私は自分を、「死に損ない」だと、ネガティブなニュアンスでは決して無く、そういう存在だと思っている。

 「名前のない女たち 最終章 〜セックスと自殺のあいだで〜」を読みました。作家・中村淳彦さんの企画AV女優インタビュー集の第4弾であり、タイトル通りの最終章だそうです。
 小さな本屋で、昨年末亡くなった飯島愛さんについて書かれた本の隣に、十冊ほど積まれていました。私は未読ですが、「暴露本」だと言われている話題の飯島愛の本に目がいく人達のうちの何人かは、隣にあるこの「セックスと自殺のあいだで」という人の心に小さな針でポツリと穴を開けるようなサブタイトルのこの本を手にとるでしょう。そして目次のページを見て、そこに登場する女優達の名前は知らなくても「消えることのない血の怨念」「一生カラダを売り続けなければならない」「一日十発セックスしたら学校なんて行く気にならない」などの更に針で肌に小さな傷をつけるようなタイトルの羅列を目にして、そのまま見なかったフリをして立ち去るのか、それとも衝動にかられ、その本を手にしてレジに向かうのか。
 あなたは、どちらの人なのでしょうか。

 私はAV情報誌、男性誌に掲載されるAV女優のインタビューを読むと、喉元に黒い塊が込み上げてくることがよくあります。そこに羅列された「セックスが好きでAV女優になりました!」「いっぱいセックスできて今、とっても楽しいです! AV女優になって良かった!」などの明るく前向きな言葉の羅列の空虚さが重くなることがあります。事務所に、マネージャーに言わされているのなら、まだいい。もしそれが心の底からの本音なら尚の事、明るく屈託のない笑顔で股を開いた少女の写真に陰を見てしまう。余計なお世話だとは重々承知で。
 ほとんどの人間は知っている。肌を晒し人前でセックスをしてお金を稼ぐことのデメリットを。女達が思うよりもずっと、男達はAVを見ていて、AV女優を知っている。女達の兄も父も同級生も大なり小なりAVを見ている。名前と顔が売れるほど、デメリットは大きくなる。無修正が配信され、時には掲示板などで本名が晒され、ネットの世界で永久にその姿が残される。幾ら後悔しようとも、一度売られてしまった裸は誰もが見ることが出来る世界に残される。過去を消してしまいたくても、どこかで何らかの形で残る。そしてセックスを売る女達を軽蔑する人間は、もしかしたら彼女達が思うよりも多くいるかもしれない。いや、彼女達を持ち上げて商品にした人間の中にだって、心の中では侮蔑している人間だっているだろう。AVを見てヌくけれど、自分の家族には恋人には彼女にはAV女優になって欲しくはない男だって多い。

 セックスを売る女達がいる。目的を持ち、計画性もあり、恵まれた容姿と凛とした心のAV女優達だってたくさんいることは知っている。例え引退した後でも「後悔はしない」と言いきることの出来る毅然とした女性達もいる。
 けれども、そうじゃない、そうなれない女達も、たくさんいる。
 セックスを売るということは、簡単だ。一日レジや立ち仕事のアルバイトで稼ぐ金の何倍かの金額が裸になるだけで手に入る。そしてセックスは気持ちが良くて楽しい。単なる粘膜の摩擦だけではない、自分という存在が求められるから。要求されるということは、「君はここにいていいよ」と言われることだ。それに縋る人間もいる。どこにも居場所がない、生き辛い人間が、裸になり股を開くだけで「ここに居ていいよ」と言われる。お金まで貰える。怒られたり、何かを覚えたりするアルバイトなんかよりも、高い金額を。
 
 「名前のない女たち」シリーズには、「私」がいる。ここに登場する壊れたり怒ったり泣いたり狂ったり笑ったりしている女達の語る物語の中には、「私」がいた。「死に損ない」の私がいた。

 このシリーズのことを「女優の不幸話」「暗い話」「大袈裟に不幸を書き綴り売り物にする」と、嘲笑したり、侮蔑する人達がいる。そういう批判を目にする度に、疑問に思う。あなた達は、この娘達を全く自分とは関係無い世界の話だと思っているから、「不幸」「暗い」と簡単に言い切ってしまえるのだろうか。それはあなたがよっぽど鈍感なのか、それとも無意識のうちに自分の中にある嫌なモノを「見なかったこと」にして生きているのではないだろうか。あるいはあなたは、彼女達の物語に脅えてるんじゃなかろうか。
 そういう人達にとっては「エッチ大好きでーす」「AVって楽しい!」と笑顔で股を開く明るく輝くAV女優達のポジティブで空虚なインタビューが、「自分が欲するもの」なのだろうか。
 今更ながら、AV女優の年齢や出身地は「嘘」が多い。勿論全てが全て嘘じゃないけれど、当たり前に年齢は偽られる。外見で「イメージ」も作られる。中には、顔もカラダも作られる娘達もいる。そうして「商品」として作り上げられた彼女達のセックスしている作品が世に売られていく。男達のオナニーのために。精液を放出させるために。そのこと自体は、幸福でも不幸でもない。男を射精するために作り上げられたファンタジー、そこから垣間見られる「AV女優」の発する光、それは時には「オナニーツール」の枠を超えて人の心を捉えて放さないこともある。
 だから私は、AVを見続けている。

 作られたイメージからこぼれる彼女達にどうしようもなく惹かれることがある。だけどそう思う時に、私は彼女達に問いかけたくなることがあるのだ。
「どうしてあなたはAV女優になったのですか。本当のことを聞かせて下さい」
 と。
 だから、ほとんどの明るくポジティブな「作られたイメージ」の枠を出ないAV女優のインタビューに虚しさやもどかしさを覚えるのだ。
 作られたイメージを売る立場の人達にとっては、確かに中村氏のインタビューは、自分達が作ったモノを破壊する目障りなモノだろう。しかもそれが売れるのだから。だけど私は、AV女優ではない、AV女優になれないこのシリーズに登場する絶望したり、病んだり、狂ったりしている女達に私のように共感し、そこから救いや、救いとはいかなくても何かを得る人達も存在するのではないかと思っている。

 それぞれの女の子達の絶望と悲しみの針が、チクチクと心を刺す。ドロっとした滑りを持ち、身体中を蝕みそうな痛みも覚える。読むのが辛い人もいるだろう。重い気分に襲われる人もいるだろう。嫌悪感でいっぱいになる人もいるだろう。やはり「不幸話」「暗い話」を大袈裟に描いているだけだと批判する人もいるだろう。

 AV女優だけが特別なわけじゃない。心を病んでいる人間は驚くほどたくさんいる。電車は毎日のように人身事故で止まる。心療内科、精神科通いをする人もたくさんいるし、手首を切る人だってたくさんいる。そしてあなたも病んでいないと、これから先も病まないと、誰が言えるだろうか。
 ただ、裸を晒し、時には侮蔑されながらもお金を貰うということを選択した彼女達は、そのことと引き換えに傷つけられたり利用されたりすることとも直面せざるを得ない。

 セックスをどんなにたくさんしても、どんなに穴を求められて欲しいと言われても満たされない。カラダ中がブラックホールのように轟々と音を立て泣き喚いている。お金を貰っても、好きだよと言われても、やってやってやりまくってもカラダに開いた大きな穴は親に見捨てられた子供のように泣き続けている。絶望を背に貼り付けた女の後ろから死神が手を伸ばしカラダを包み込み、その暖かさに縋ってしまう。死神の手は暖かい。私を救う手だ。何もかも死んで忘れて楽になって幸せになりなさいと死神が笑みを湛え私の身体を抱きしめる。
 お前を救うのは私しか居ないんだよと、死神が。

 そうして、ゆっくりと、ゆっくりと、堕ちていく。

 轟々と音を立てる大きな川がある。私が立つ此の岸には私を傷つけた私が憎む世界がすっくと私を見下ろしている。川向こうの彼の岸に私は焦がれて立ち尽くす。この川を渡ってしまえるならば、全てが楽になるかもしれない。彼の岸には、もしかしたならば、この世ではめぐり合うことの出来ない私を心の底から愛してくれる世界や人達がいるかもしれない。私を抱く死神が耳元で囁く、「早く彼の岸へ行きなさい」と。

 けれどもどこがどうなったのか、死に損なって生きながらえてしまった。どうして自分はあれだけ死にたい死にたいと思いながら死ななかったのか。死んでしまう人間と死なない人間の違いは何なんだろうか。答えなんて出ない。けれど死に損なったのだけは確かで、死に損なったのなら生きるしかない。

 この世には私のような「死に損ない」が溢れている。生きることを選択しているのではない、死ねないから生きるしかないのだ。しかしそれもおそらく自らが生きることを選択していることになるのだろう。
 生きていくことなんて辛いに決まっている。
 だけどそれでも死ねないなら生きるしかないのだ。

 あなたが希望に溢れ、未来を夢見ながら前向きに生きられる人ならば、彼女達の物語は必要としないであろう。
 そうでなければ、手にとるがいい。
 そうして絶望という淵に彼女達と共に堕ちて、堕ちて、沈んで水底に辿り着けばいい。水底をつま先で軽く蹴り、遠い遠い水面の向こうに微かに輝く月の光を見つける。そして息をするために、月の光を浴びるために必死にもがく。もがいて疲れてまた再び沈むかもしれない。諦めて堕ちるかもしれない。それはわからない。
 
 けれども死に損なった者は、生きるしかないのだ。
 例え死神が、まだあなたの背後から身体を抱きしめていたとしても。


名前のない女たち最終章 セックスと自殺のあいだで

名前のない女たち最終章 セックスと自殺のあいだで