あだし野の露きゆるときなく
人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己(おれ)の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。
― 中島敦「山月記」より―
人を殺したいと思ったことはありますか。
私は、あります。
特定の誰かを、自分より恵まれている人間達全てを、自分を嘲笑した人達を、自分を傷つけた人達を殺したい。めちゃくちゃして殺したい。血が飛び散って辺りを朱に染めて人が恐れおののくような殺し方をして、自分の憎しみと怒りを見せつけてやりたい。
私という人間のうち一体何割が、憎しみと呪いと怒りで出来ているのだろうかと考える。
それ以外の要素などほとんど無いのではないかと思うこともあった。二十代の頃は、自分という人間の9割が憎しみと呪いと怒りに支配され、毎日世界と自分を殺したかった。どうして自分だけがこんな目に、どうしてこんなに苦しいのだろう、どうしてこんなに運が悪いのだろう、他のヤツらは幸せそうにのうのうと生きてやがるお前らを殺したい殺したい自分の自尊心を傷つける全ての物を殺したい。
だけど一番殺したいのは、自分自身だった。
身体の中から湧き上がる欲望が電車に飛び込む勇気を奪い、ビルの屋上から落ちる恐怖を湧き起こしこの世に押し留めた。自分で自分を殺す覚悟すらないことでまた死にたくなる。死ねないから誰か殺して下さい誰か殺して下さい殺したい殺したい殺したい、自分と世界を。私を傷つける全てのものを、殺したい。
生まれたきたことをを呪い続ける醜悪な生き物が、社会の片隅に居た。
あれからあなたのおかげで、私は何とか留まり続けている。記憶の隅から煙のように燻る絶望に捕われ「私は人間のクズでキチガイだ」と泣く私に「二度とそんなことを言うな、お前がそれを言う度に俺が傷つくんだ」と言ってくれたあなたと、あなたのおかげで開けた道で出会った人達のおかげで私はなんとか生き延びている。
けれど心に巣食う猛獣が、過大な自尊心により沸き起こる怒りと憎しみという餌を喰らい、美しい夜を雷電の如く切り裂いて吼え暴れ、のた打ち回る恐怖で身が凍る時がある。
33歳で亡くなった中島敦の「山月記」は、己の尊大な自尊心により猛獣となった男の哀しい絶唱の物語である。男は、人間の心が失われ、身も心も完全な「虎」になってしまう前に、人を喰らう獣になってしまう前に、友に詩を託し、友を喰らう前に闇に消える。
ある種の「事件」が起こる度に、私は戦慄する。
被害者になることが恐ろしくて戦慄するのではない。加害者になったかもしれない自分に戦慄する。自分の中にうごめく猛獣が、いつ何かのきっかけで暴れだし、人間ではなくなってしまうことを想うと、恐怖で背筋が凍る。
「新潮45」に掲載されていたノンフィクション集は現在数冊文庫で刊行されている。そこに掲載されている「事件」は、「ああ、こんな事件あったよなぁ」と思い出す程度のものもあれば、大阪の池田小学校児童連続殺傷事件や、日野市でOLが放火して不倫相手の子供達を殺した事件、北九州「一家監禁」殺人事件、名古屋で臨月妊婦の腹が切り裂かれ受話器と人形が詰められた事件など、多くの人間の記憶にそのおぞましさ故にべっとりと貼り付いて忘れられない事件もある。
自身の中に飼う猛獣に支配され、「人間」ではなくなった者達が起こした事件。
人は誰でも心の中に猛獣を飼っている。何かのきっかけでその猛獣が牙を剥き理性で抑えることが出来なくなることがある。
怒りと憎しみをぶつける先を探しながら生きている人間はたくさんいる。どうしておれはわたしはこんなにくるしいんだめぐまれないのだ世間が悪い俺を要求しない認めない世間が悪い社会が悪いから不況だから仕事がない条件が悪いから恋人ができないなんて不幸なんだ不幸なんだ不幸なんだ俺を不幸にしたお前らが悪い殺してやりたい。
生き辛い。
だから殺してしまおう、おれを受け入れない社会の構成員である全ての人々を殺してしまおう。
墓を作らなければならないのです。
憎しみや呪いや尊大な自尊心を葬る墓を。
猛獣が安らかに眠る墓を、どこかに作らねば。化野(あだしの)がいいだろうか、鳥辺野がいいだろうか、それとも蓮台野か。無常の地に墓を作り猛獣を葬り烏に啄ばませてやろう。
屍は朽ちても朽ちても蘇り吼えようとするだろう。それでもその度に繰り返し私は猛獣を葬り火を放ちその煙に向かい手を合わせ経を詠んで成仏を願うことをせねばならない。
人を殺さないために、自分を殺さないために経を詠み、手を合わす。
いつだって私の心を捕らえるものは、活字ならノンフィクションであり、映像ならドキュメンタリーだ。「現実」にあったことが一番怖い。「本当」が一番怖い。「人間」が一番怖い。
「事件」を読んで人間の怖さに恐怖して下さい。そして自分の中に居る猛獣の声に耳を傾けてください。「事件」はいつも、他人事ではない。あなたが殺される側なのか、殺す側なのかは、わからないけれども。
人を殺したいと思ったことがありますか。
私はあります。
こうして書くことにより、自分に巣食う猛獣と、それに支配されていた消されることのない記憶を葬ろうとしています。「虎」にならぬよう、天から垂れ下がる蜘蛛の糸に縋り付いています。
その蜘蛛の糸は、人肌のように、温かい。
まるであの時に触れた、あなたの肌のように。
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