「姉御」という生き方 ―「咲き走り★ホットロード」―すぎはら美里


 強くなりたい、と思う。
 傷つかずに、泣かずに生きていきたいから。もっともっとタフになりたい、と思う。強くならないと、これから先、生きていけないと思う。強く、強くなりたい。自分の弱さに辟易する度に思う。しょっちゅう、そう思う。
 だけど、「強い」って、どういうことなんだろう。
 友人は言う。
 「強い人間なんて、居ないんですよ。居るとすればそれは、強い人間なんじゃなくて、鈍い人間なんです」
 と。

 
 前々回の記事のラストとにちょこっと触れたのですが、イベント後に、私が田中課長の手をとり気持ち悪い程感謝しまくった出来事がありました。
 イベント後、べっぴんの姉ちゃんおるなぁ・・・と長身でスタイルの良い美人に挨拶して名刺交換したのですが、その名刺に書いてある名前は・・・


すぎはら美里



 きゃー


 きゃー


 いやー


 三十路独身バスガイド藩金蓮オバハンは、その瞬間動揺しまくって不審者と化してしまったのです。私の動揺っぷりを不思議がる田中課長ら(彼女は普段AVを日常的に見たりAV雑誌を読まない女性です。って、それが普通やっちゅうねん)に、

「こ、この人はねっ! ス、スターなんだよっ! すごい人なんだよっ!」

 と叫んでしまい、すぎはらさんに「いえ・・・スターじゃないです・・・」と、恐縮させてしまったのでした。すいません・・失礼しました・・・ごめんなさい・・・

 いきなり思いがけぬことだったんで驚いたんですのよ。
 さて、「すぎはら美里」さんは、元AV女優で、引退後はタレント活動、歌舞伎町で「ミックスバーミリタリー」の経営、「エンタの神様」で「Mint姉弟」として芸人デビューもなさっておられます。(って、引退後どうされてるのか私もこの時までよく知らなかったんです)
 家に帰ったあとに調べたら、もう引退されて6年も経っていることと、わずか1年しかAVでは活動されていないことに驚きました。びっくり。ひゃー。

 そして昨年の12月24日のクリスマスイブに自伝的小説「咲き走り★ホットロード」を出版されておられるのでした。翌日さっそく買ったわよ。

 「咲き走り★ホットロード」は、歌舞伎町で経営されてるバーの話、芸人デビューの話、故郷でのレディース(女暴走族)時代の壮絶な話、最後にアダルトビデオ女優時代の話が書かれています。

 AVの中の印象でも思ったことがあるし、御本人と遭遇しても思いましたが、この本の彼女も相当オトコマエな「姉御」です。


「これは、石橋を叩いて渡れない、お馬鹿な女の物語。
 どこにでもいるような普通の女の子が、
 為せばなる! を信じて貫き走り、
 出会う人達に「姉御」と呼ばれてしまうようになった、
 数えきれないほどある人生の中の、たったひとつの生き方」

                         (本文より)


 私は強くなりたいと思う。強い人間に、強い女に。強い女はカッコいいと思う。だけど強い女と人に思われたくはない。人に慕われる延長で甘えられたり頼られたりするのが嫌だ。そのまた延長で何かを期待されたりするのも嫌だ。もしかしたら本人は無意識にしろ、利用される存在になってしまったら嫌だとか、考える。鎧と壁を作りまくる。自分を守るために。

 弱々しく、周囲が守ってやりたくなるような女の方が「可愛い」から、得するような気がしていた。10代、20代初めの頃は、そういう種類の「可愛さ」を自己演出出来る女が勝利者なのだと思っていた。ふてぶてしいぐらい可愛さを、弱さを演出して周囲の人の庇護欲を刺激することができるしたたかさを持つ女には絶対叶わないと思っていた。
 間違っても「守ってやりたい」なんて男に言われない自分は女として「負け」だと思っていた。
 
 今はさすがにそんな女が「勝ち」とは思はないが、それでも巧みに男の欲望を知り巧妙に自己演出する「男受けのいい女」の方が、巧く世の中を渡っていると思うこともある。
 客観的に見て私は男運が悪い。男を見る目が無い。友人などはもどかしく思うそうだ。どうして与えてくれる男に惚れないのか、どうして奪うか傷つける男にしか惚れないのか、どうして「ちゃんとした男を見る目」が養えないのか、と。私はいつも幸せになりたいと、自分では願っている筈なのに、何度も何度も間違えている。もう随分うんざりしているのに。

 傷つく度に心を閉じる。誰にも会わずに独りきりの世界で生きていけたらと、思う。だけど閉じている筈なのに人の温かさが欲しくなり、自分で扉をこじあけてしまう。独りで生きていけるような強い人間になりたいと思う。誰も他人を必要としないぐらいに。夢など見ぬよう、人を愛さぬように。
 そう願っている筈なのに。

 「石橋を叩いて渡れないお馬鹿」な1人の女性の物語は、私には「自分を守る鎧の無い」女に思えた。鎧の無い裸の女が、人との絆と温かさという武器を持ち生きていく物語に。それは「お馬鹿」ではなく本当の意味での「無垢」なのではないか。

 確かに賢い生き方ではないかもしれない。裏切られることも多いだろうし、哀しみも多いだろう。鎧を強固にしていろんなものから逃げている私のような人間や、巧みに頼り甘え守られながら生きる人間や、自分に都合の悪い全てのものから目を逸らして生きる人間よりも哀しみも痛みも実は多いのではないか。

 強くなりたい。
 だけど、弱いフリして逃げ回った方が上手な生き方ではないのか。裏切られたくない傷つきたくない責任を背負うなんて真っ平だ。
 人と交わることも怖い。人との距離が近くなればなるほど傷つくことや、何よりも失うことが怖い。
 いつまでたってもどう生きたらいいのかが、わからない。
 そして、自分が何をしたいのか、どうしたいのかも私はわからない。


「振り子だからね、人生って。幸と不幸の行ったり来たりで。でもだからこそ、その先に見る景色が美しいわけで。その景色を、この道すがら出会った人達と願いながら」                                   (本文より)


 わからないけれど、わからないままでいいのかもしれない。ただ、目の前にあるものから目を逸らさないで、哀しい出来事や傷ついた記憶よりも、手に残る暖かい誰かのぬくもりの方を大事にすることができたなら。
 強くなりたいと願い過ぎて、弱い自分を憎んで責めて落ち込んで泣くことを繰り返すことよりも、あたしはあたしであるという証明のようなものを作り残すことができたら、それであたしはしあわせになれるのかもしれない。その時に、他人が怖くなくなるのかもしれない。


 「石橋を叩かず大股で生きる元ヤン姉御」(本の帯より)の無垢な物語は、上手な生き方ではないかもしれないけれども、ビデオの中の彼女の瞳のように、清廉で美しい。



 

咲き走り☆ホットロード

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