プロジェクトX 〜江戸遷都後の京都〜


 前々回の記事「京都に棲む日日」に書きました京都木屋町の元・立誠小学校を舞台にした講演、明日もありますので、お近くにお住まいの皆様、木屋町探訪がてらにどうぞ。純喫茶ソワレ、フランソワなども近くにございます。昔はクンパルシータやみゅーずもあったのにねぇ。早めに来て、阪急の烏丸駅から錦市場の賑わいを感じながら河原町まで来られるのもどうでっか? とか宣伝しながら自分は行けないのであります。すんまへん。

 さて、前々回、前回にも少し触れましたし、菅野さんのブログにも写真が載ってますが、京都の古い小学校はこの元・立誠小学校といい、現在、京都芸術センターとして利用されている元・明倫小学校といい、何故、取り壊すのが惜しいほど、こんなクラシックで豪奢な建物なのか。
 それは江戸遷都後の、京都の街の動きと多いに関係があります。

 維新後、一千年の王城の地であった京都から天皇が去った後、京都の人達が平静にそれを受け入れられた筈はない。なんせ未だに「日本の中心は京都」と思っている人もいる。私の友達のことだけど。よく京都人はプライドが高いとか言われるけれど、そらわかる。私は京都在住(出身は別の県です)で、仕事であちこちにの土地に行くけれど、やはり京都という場所は、良いとか悪いとかではなく「違う」と見ている。明らかに異質である。

 明治初めには数千人の京都市民が集まり御所で江戸遷都に反対するデモも行われたという。

 バスガイドの研修では、「京都をこのまま寂れさせてはいけないと、様々な文化事業が行われた」と習いました。

 その文化事業の中の一つが、日本初の博覧会である内国勧業博覧会の開催であったり、日本で始めて路面電車を走らせたことであったり、後に述べます琵琶湖疏水計画であったのです。

 その一環として日本で最初に小学校が京都に作られました。京都の財界人達は寺小屋を近代化させようという運動をしていました。その動きにより作られた小学校を運営していたのは「番組」と呼ばれるその小学校がある区域の自治体でした。
 京都には、ずっと「都」を治める大名や武士がいませんでした。天子さま(天皇)がいらっしゃったから、派遣されてきた役人である武士は居たけれど、「京都藩」などは無かったから、庶民達が自治運営していたのです。その各自治体が「町組」と呼ばれ、町組を新しく編成したのが「番組」です。京都の小学校は、児童を教育する場所という目的だけではなく、自治体の議会があり、消防署でもあり、その町組の総合的な役所だったのです。
 現在の元・立誠小学校も明倫小学校も昭和初期に建てられたものではありますが、そういう明治時代の自治体の中心としての施設なので、入念に設計され立派に作られた「小学校」という建築の名残を残しているのです。

 そしてその小学校制度を推進し建設費を投入して京都の街を、京都市民自らの手によって蘇らせようとしたのが、二代目知事の槇村正直です。
 ちなみに、「立誠小学校」の「立誠」は、槇村正直自身が、論語の「立誠而居敬」から命名されたようです。「立誠」とは,"人に対して親切にして欺かぬこと"ということだそうな。
 この槇村正直という人は、長州藩士であり、元老・桂小五郎こと木戸孝允により、維新後の京都にその手腕を見込まれ連れてこられた方です。

 槇村正直の次の、三代目の知事が北垣国道。但馬藩出身で池田草庵の元で学び、生野の変の挙兵にも参加したこの知事が歴史に名を残した事業が「琵琶湖疏水」です。灌漑、上水道、水運、水車の動力、そして何よりも江戸遷都後の京都の活性化を目的とし、滋賀県の琵琶湖から水を引くという大プロジェクトを、若き青年・田辺朔朗に任せ、彼が指揮をとり完成させたのです。この田辺青年の大学の卒業論文が「琵琶湖疏水」の計画だったのですね。北垣はこの卒業したばかりの学生を中心にこの事業を初め、四年八ヶ月で完成させたのです。疎水記念館には田辺朔朗の銅像があり、彼は後に北垣の長女と結婚しています。
 この「琵琶湖疏水」という大プロジェクトが、どんな事業だったか。それはまた機会があれば、是非に触れてください。これこそ、京都の歴史至上最大の「プロジェクトX」です。
 槇村、北垣という2人の知事が、江戸遷都後に「天皇」という魂を奪われ死んでしまうかに思われた京都という都市に、自らの足で歩く力を与えたのです。上記した以外にも、江戸遷都後の京都の文化授業は様々なお話があります。

 日本の中心、天子さんのいる街ではなくなった京都に命を吹き込んだ2人の豪腕知事がいたことを、京都を愛する人には知って欲しい。



 さて、その元・立誠小学校での菅野秀晃氏の後日の講演予定は、

☆1月31日(土)15時〜

「ヒット作を生む方法」



☆2月3日(火)15時〜

「京都の歴史ミステリー」



☆2月6日(金)15時〜

メソポタミア神話の秘密を解き明かす」 です。


 尚、1月31日(土)、2月3日(火)の講演は、「新耳袋」などの著作でお馴染みの作家・中山市朗氏とのセッションになります。イベントの詳細、アクセスなどはこちらの情熱劇場のサイトからどうぞ。ええ場所にありまんねん。前回、ワシにセクハラ発言されていたという噂の(事実だけど)某君も来るらしいでっせ。
 あと、立誠小学校んとこには高瀬川を開削した豪商・角倉了以の顕彰碑もあります。この方の功績も凄いです。墓は嵯峨野・二尊院。と、いうことは坂東妻三郎と同じっちゅうことやね。


 それとねん。
 ワシのもう一つの上品な日本史エロサイト「狂蓮集」も、たまーに更新(って、雑誌掲載記事を転載してるだけやが)しておりますので、気がむいたら見てねん。ほんまのたまにしか更新せんけど・・・


 京都は、知れば知るほど面白いでっせ。
 そこの奥さんっ! 来な損しまっせっ!


 ちなみに前々回の記事書いた後、どうしても明倫小学校(京都芸術センター)に行きたくなって、仕事終わってから前田珈琲明倫店でロンリーウルフ飯を食いに行きました。ここは1人で本読んだり、非常にくつろぎやすい。すんげぇ1人で行きやすい店やし、メニューは少ないが(喫茶店なので)飯もイケるので、1人が好きなロンリーウルフ友の会会員にお勧めの場所です。家の近くにあったらもっと行くのに。


 それでは、プロジェクトXというわけで、あの歌を。



 ホントは、紅白歌合戦黒部ダムで唄う映像もいいのだが、あれはみゆき姐さん、歌詞間違えてんのよね。それは別にいいんやけど、友達の添乗員(サトエリと3サイズが同じというつわもの)曰く、仕事で黒部に行くと、「添乗員さんっ! これっ! 紅白で中島みゆきが歌ったとこやろ!」と、よく言われるそうな。


 中島みゆきを聞くと、「生きてこう」と、思えます。
 なんどあの歌声に救われたことか。



 旅はまだ、終わらない。

 あなたの旅も、私の旅も。