酒の煙が目に沁みる

 この時期は夜遅くなると酔っ払いが醜態を曝しているから嫌いだ。酔ってるから何をしても許されると赤の他人に甘えるヤツらの神経が嫌いだ。人を傷つける暴言を吐いても迷惑をかけても「酔ってるから」で許される風潮が嫌いだ。仕事で散々酔客の相手してうんざりしてるので、仕事以外でそういう輩と関わりたくない。酔うなら醒めて酔え。坂本龍馬はこういうことを言っている。

「男子はすべからく酒間で独り醒めている必要がある。しかし同時に大勢と一緒に酔態を呈しているべきだ。でなければこの世で大事業はなせぬ」



 秋に某寺で「お酒香」買いまして、最近愛用しております。他にも「はちみつ」とか「珈琲」「緑茶」などいろんなお香がありました。この「お酒香」は、別にアルコール臭が漂うわけではなく、美味しい上質の日本酒を嗅いだ時に感じるほんのりとした甘味の香が立ち上ります。「生前お酒を好んだ故人を偲ぶ」ように、考え調合されたお香だそうです。
 その発想の粋さに、感嘆。



 西国三十三ヶ所観音霊場の第5番目の札所であります葛井寺の本尊御開帳に行ってまいりました。西国三十三ヶ所観音霊場というのが何なのか説明すると長くなるのですが、とにかく今年から三年にかけて次々と観音霊場の秘仏が御開帳されますので要チェックっ! 葛井寺の御本尊は十一面千手千眼観音様ですが、本当に千本以上の手がある千手観音様って実際は少ないのですよ。毎月18日に御開帳しておりますので必見。

 某所で「やすきよ」のVTRを見ました。久しぶりやわぁ。「やすきよ」が、横山やすし西川きよしのことだと若い人なら知らん人もおるんかもなぁ。私も「やすきよ」現役時代は漫才自体よりも、やっさんのスキャンダルまみれの私生活の方に目が行ったのですが、凄さを知ったのはこの仕事をしてからです。何故かっちゅうと、ほら、バスの中で帰りにビデオ流しますやん? バスの中で流すビデオって、著作権の関係やら、なんやらでわりと流すの決まってますの。映画なら釣りバカシリーズとか、あと何故かミナミの帝王とかも多い。映画以外なら綾小路きみまろや、藤山寛美吉本新喜劇、漫才は何故かやすきよが多いのです。綾小路きみまろは、もともと御本人がサービスエリアでテープを無料でバスガイドさんに配布し、そこから「面白い人がいる」と口コミで広がったという経由がありまして、私も有名になる前からそのテープの存在は知っておりました。
 ってなわけで、やすきよの漫才は、そらもう何十回もバスの中で見てますねん。やから添乗員さんでもバスガイドでも若い人でも皆、相当見てると思いますよ。他の漫才も流すんやけど、圧倒的にお客さんに受けるのが「やすきよ」。「やすきよ」常備してるバスは少なくない。(ちなみに私は個人的に、きみまろDVDは持ち歩いております)
 やっさんにはなんとも言えん「愛嬌」がある。だから人に愛される。愛嬌というのは仏教用語であります。そして土佐藩士・後藤象二郎はこう言っております。

「愛嬌こそ男に必要だ。愛嬌ある男には人が集まる。人が集まり初めて事を成せる。龍馬しかり、西郷しかり、秀吉しかり」


 千日前の吉本笑店街には、やっさんの愛用品の数々が展示してありまして、中でもノートに書かれた几帳面そうな達筆がその繊細さを窺い知れました。
 最後の破滅型天才芸人・横山やすしを知るならば、小林信彦著「天才伝説 横山やすし
大谷由里子著「吉本興業女マネージャー奮戦記『そんなアホな!』」
 が、面白いです。楽屋裏でやっさんにビンタをくらわした伝説を持ち、結婚祝いに「目立つもんがええやろ」と緑の冷蔵庫をやっさんから貰った元マネージャーの描く、やすしの亡くなった場面で描かれる西川きよしの苦悩と切なさは、泣けます。

 俺は〜浪花の漫才師〜♪ (大阪ソウルバラード番外編にこの歌は収録されております)


 第26回講談社ノンフィクション賞受賞作・魚住昭著「野中広務 差別と権力」読みました。最近読んだ中では断トツに面白かったです。「面白い」という言葉を使うには御幣があるかもしれないし、自分の中でも躊躇いがあります。何故なら、この本は野中広務という政治家の、被差別部落出身という背景を取り上げているからです。
 年齢に関わらず、人と話していて、部落差別というものの存在を知らない、「そんなことが現実にあるの?」という人は少なからず居て驚くことがあります。おそらくその人が生まれ育った土地によりけりで認識が違うのでしょう。兵庫県出身で、京都府在住の私にとっては、ものすごくリアリティがあるものなんですけれど、そうじゃない人もたくさんいるのですね。
 京都駅の所には、確か今も野中氏の事務所はあるし、野中氏が生まれ育ち関わってきた「京都府」は今、自分が在住しているところでもあります。

 この前もテレビでタレントがナチスについて無知な発言したとかありましたけれど、「無知」であることは、笑って済まされることなのでしょうか? 「無知」って、人を傷つけることがありませんか。世間は「無知」を甘やかしすぎやないの? っと、常日頃から思う。
 しかしですね、修学旅行の仕事などで先生とお話をしても、もう今は、学校で教わることの内容が昔と違うんですよ。ビックリしまっせ。ワシらが当たり前やと思っていることを学校で習ってないので、呆然とすることもしばしば・・・
 自分も学校の成績は良い方じゃなかったけど、義務教育で習わんでどこで習うのって。

 話を戻しますが、今まで「野中広務」という政治家についてはそんな詳しくは知りませんでした。京都府の名物知事であった蜷川虎三との対立などもこの本で初めて知りました。
 テレビに映る野中氏を見て「悪代官顔」(失礼)と誰かが言っていたのをしみじみと頷く程度の認識に過ぎなかったのです。



 野中氏の歩んできた道には、ところどころに「壁」が聳える。それは出自に絡むものであり、しかしながら、だからこそ弱者に優しい政治を理想に掲げていた。権謀術数を駆使して政敵を叩き潰し「影の総理」と呼ばれ、かつてあれだけ罵った小沢一郎と手を結び「変節の人」とも呼ばれた野中氏は、小泉純一郎麻生太郎のような「陽」の人にあらず、「人気者」では決してなかったであろう。

 政策云々は別問題として、政治家の魅力とは何であろうか? 
 政治家の人間的な魅力とは、その人の「伝記」を読みたいかどうかだと、私は判断する。すなわち、その人物の「物語」を知りたいと思わせるほどの人間的なスケールがあるかどうかである。清廉潔癖で順調な人生を送ってきた人間の伝記など読みたくはない。権力を手に入れるためには、人を動かさなくてはいけない。その為には、謀も必要であろう。人を動かすには、人を知らねばならぬ。人の心を知らねばならぬ。そして、世を知らねばならぬ。しかしながら、「理想」を持たねばならぬ。理想無き、己の利や名しか求めぬ者には政治家の資格など無い。

 理想を掲げ、権謀術数を駆使する「政治家」で、一番最初に思い浮かぶのが、西郷隆盛だ。西郷は決して「理想」だけの人では非ず、だからこそ人を使い、人に慕われ、そして、人のために死んで行った。

 麻生太郎安倍晋三の「伝記」を読みたいとは思えない。「理想」も「物語」も見えないからだ。
 尚、この本の中でも書かれており、以前週刊誌などでも話題になっていたが、ある会合で「野中のような部落出身者を総理にはできないわなぁ」と発言した政治家がいるらしく(本人は否定)野中氏はそれについて絶対に許せないと発言している。
 現総理大臣・麻生太郎である。

 野中氏が政局の舞台で動く度に、故郷には差別的な電話や手紙が舞い込み、霞ヶ関内でも公でないにしろ出自についての中傷は耐えなかったそうだ。


 余談だが、私の上司はある財界人の会合で野中氏と食事をする機会があった。上司はこう言っていた。

「媚びない人だった。もう80歳を超えているのに血色が良くエネルギッシュで魅力的な人。政治家は、ああいう財界人が集まる所では、媚びる人が多い。野中さんは、とにかく媚びないけれど、話をしてて楽しい方だった」





 ああ、読書は楽し冬の日々。


野中広務 差別と権力 (講談社文庫)

野中広務 差別と権力 (講談社文庫)