さらば甲子園の星 ― 桑田真澄、清原和博 ―
俺は弱いということが嫌いなんだよ、でも俺は弱いんだよ
今、手元に本が無いために正確ではないかもしれないが、この言葉に胸をつかれ、ページをめくる手を止めた。そして何度も、この言葉を目でなぞった。
弱さなど微塵も感じさせず「悪太郎」「甲府の小天狗」などと呼ばれた巨人軍投手・堀内恒夫を描いた海老沢泰久の「ただ栄光のために」という本に登場する堀内の言葉である。新人の堀内恒夫が寮生時代に門限破りを繰り返し、王貞治に殴られたエピソードは有名である。そのような豪快な伝説を残した堀内は35歳でユニフォームを脱ぎ、自らの引退試合にはホームランを放った。
上記の台詞を目にした時に、なんと残酷で切ない仕事なのだろうかと、思った。自らの栄光も衰えも大衆の目に曝け出さねばならず、そして「チーム」と「ファン」を背負い力尽きるまで全力で走り続けねばならぬプロ野球選手という仕事は。
1990年代初め、巨人軍を支える「三本柱」と言われるピッチャー達が居た。完全試合を達成した槙原寛巳、桑田真澄、斎藤雅樹。沢村賞を3度受賞し、何度もタイトルに輝いた絶盛期の斎藤雅樹が、その当時何かの媒体に「好きな歌は、アリスの『チャンピオン』」と書かれていた。そのことも忘れられない。
アリスの「チャンピオン」は、衰えたボクサーがリングに上がり若い挑戦者に立ち向かい破れ崩れ力尽き、「ただの男に戻る」歌である。スポーツ選手ならいつか誰でも訪れる、彼らにしかわからない「瞬間」を唄った歌である。
深読みし過ぎかもしれないが、「栄光の絶頂」にあった斎藤雅樹が、その歌を一番好きだと挙げていることで、この人は、いつかくるその「瞬間」のために、今こうして全力で投げているのだと思った。衰え倒れ「お前はもう駄目だ」と罵倒されその場を去らざるを得なくなる「瞬間」のために、今、この栄光の場にいるのだと。
しかし現実には、そうやって「力尽きて引退」できる選手など稀である。ほとんどの選手はカメラに囲まれて入団会見を開いても、ロクな成績も残せず注目されないまま、あるいは一軍に上ることも出来ず若くして人知れず去っていく。栄光を与えられる人間など、ほんの一握りだ。
清原和博を球場で最初に見たのは、甲子園だった。私は田舎の中学生で夏休みを利用して大阪の親戚の家に来ていた。親戚に連れられて最初に甲子園を見た時に、なんて空と緑が映える美しい場所なんだろうと感動した。
2度目は1人で親戚の家から電車を乗り継いで甲子園に行った。当時甲子園を沸かせていたのはPL学園で1年生からレギュラーを獲得した清原和博、桑田真澄のKKコンビだった。余談だが、桑田真澄は4月1日生まれであるので、彼が生まれてくるのが1日遅ければ清原と同級生では無かった。そうなれば歴史は変わっていたのだろう。
試合を終えた選手達を一目見ようと、球場の出入り口に人々が集まった。30分ほど待つと扉が開き、走って選手達が現れバスに乗り込んだ。一番前に清原和博が居た。なんて大きい男なんだろうと思った。最後尾に桑田真澄が居た。際立って小柄だった。
清原和博は、巨人入団を熱望していたが思い叶わず西武ライオンズのユニフォームを着ることとなる。裏切られた想いで涙を溢す清原に人は同情し、清原の「花」に惹かれる。桑田は悪者になり、叩かれることとなる。
清原は「花」のある選手だと常に言われ続けてきた。しかし、その「花」が清原のプロ野球選手としての人生を変えてしまったようにも思えるのだ。
西武ライオンズに入団した年に、31本の本塁打を放ち清原は新人王に輝く。そして翌1987年の巨人との日本シリーズであと1アウトで日本シリーズ制覇という場面で涙を流す。この時の石毛や辻の清原を見る温かい笑顔も感動を誘った。清原の「花」は人々を魅了した。
森祇晶率いる西武ライオンズは常勝軍団と言われた。その当時の西武の強さを「おもしろくない」と評する人もいるが、清原が泣いたその年の日本シリーズの辻発彦の「伝説の走塁」を見て欲しい。作家・安部譲二の副音声での絶叫が「西武の野球の面白さ」を全て物語っている。秋山、石毛、辻、伊東、森監督、「伝説の走塁」を演出したコーチの伊原春樹らの下で、少年・清原和博は打ち、走り、同じく若き獅子・渡辺久信、工藤公康らと共に育っていった。栄光のチャンピオンフラッグの下で、しなやかに。
1996年、FA宣言を行った清原は、かつて泣くほど入団を熱望し焦がれた巨人軍のユニフォームを着ることとなる。
おそらく私が一番数多く球場で見ている選手が清原だと思う。甲子園で、今は無き藤井寺球場で、今年で別れを告げる広島市民球場で。
球場に足を運んだことの無い人は、1度でいいから来て欲しい。あの臨場感の齎す感動はテレビでは味わえないから。
仕事絡みで何度か甲子園で巨人戦を見た。試合前に、「顔見せ」をするように、清原がのっしのっしとベンチから現れる。
いつから清原はこんな鈍重な動きをする選手になってしまったんだろうと思った。顔が見えなくても清原だけはわかる。「花」があるからではない。動きがふてぶてしいからだ。いつからこんな緩慢な守備と、鈍重な走塁をする選手になってしまったんだろうと、歯がゆい思いで見ていた。清原は明らかに肉体改造を失敗した。筋肉が身体に負担をかけて故障しやすくなった。その頃から人相も変わり、「少年」の面影が消えた。
結婚するまではシャレにならない女性スキャンダルもあった。清原の師である落合博満は、「俺の三冠王3度という記録を塗り替えるのは清原しかいない」と言い続けていたのに「無冠の帝王」と呼ばれるような存在になっていた。故障が多く、出場回数は少ないのに高額年俸をとる選手となっていた。
確かに清原には誰にも負けない「花」があった。日本シリーズ、オールスター、ここぞという場面で清原は魅せた。いつぞやのオールスターで西武時代の清原が桑田からホームランを打った。清原はニコリともせずベースを回っていたが、打たれた桑田は思わず嬉しそうな笑顔になっていた。「この男と出会って、良かった」という想いがその笑みからこぼれていた。
桑田真澄はマウンドに上るとボールに祈りをこめる。彼は野球を、球場に敬意を払い、真摯であり続けた。入団の経緯でのゴタゴタ、その後の借金問題や登板日漏洩疑惑などで叩かれ続けても彼は野球に対して真摯であり続け自分を律していた。
巨人軍に在籍したウォーレン・クロマティが著書・「さらばサムライ野球」で、その桑田の真摯な姿勢を賞賛し、彼が大リーグに興味を持ち、積極的に英語を学ぼうとクロマティに近づいていたことも明かす。
桑田は、いつも全力で走り守り打つ選手だった。評論家達にも桑田の打者としての資質は称され続け、ゴールデングラブ賞も何度も受賞している。そして2006年に巨人軍を退団し、自らの夢を叶えるためにアメリカに渡った。
巨人のユニフォームを着た清原は相変わらず故障を繰り返し2005年シーズン終了時に戦力外通告を受けた。そして仰木彬に声をかけられオリックス・バッファローズに入団を決めて、故郷・大阪に帰ってきた。
震災後の神戸の人々の心を支え続けた1人と言っても過言ではない仰木彬は直後、肺がんで亡くなった。彼の「送る会」の世話人の1人でもあった稲尾和久も去年亡くなり西鉄ライオンズの野武士達が消え逝くのを人は悲しんだ。
2008年春、桑田真澄は引退を決める。メジャーリーガーとして野球人生を終えたことを幸せに思うと言いながら。
2008年8月、盟友・清原和博も引退を発表する。
清原の引退は遅すぎたとすら思える。
落合が「俺の記録を超えるのは清原しかいない」と言っていたように、人は彼に夢を見ていた筈だ。落合の記録を塗り替え、王貞治のように世界に誇るスーパースターとなり、松井やイチローが足元にも及ばぬほどの、長嶋茂雄を超えるほどの「花」を持ち、球史に残る存在となるのは清原しかいないという夢を持ち続けていた筈だ。
だけどいつからか清原は若くして、「花」だけで生きながらえる選手となってしまった。清原の野球人生を「燃え尽きた」とは思えない。現役中も、そして引退した今となっても、もどかしさがつきまとう。
あの、しなやかな獅子は、どこへ行ってしまったのだろうと、近年の清原を見る度にもどかしく、悲しかった。だから引退の報を聞いて、どこか安堵した。
清原の持つ天性の「花」が、プロ野球選手として大事な何かを失わせたのではないかと思うこともある。
だけど、大阪の地下街に貼られるオリックスのポスターの中の清原の姿を見て何かがこみ上げ、引退セレモニーで泣く清原を見て涙が溢れてしまった自分も、やはり清原の「花」に魅せられ続けていた1人なのだろう。
あの夏、鮮やかな蒼い空の下の甲子園で、桑田、清原という歴史に残る高校球児達の背中を見た日から、バットとグローブという「剣」を持ち自分自身と戦い続ける武士達と、戦場である美しいグラウンドに、魅せられ続けていたのだと。
オリックスは、清原の引退のために「男の花道」という特設サイトを作り、日本プロ野球界の「花」清原のために見事な舞台を作り上げた。それが出来たのも、きっとオリックス・バッファローズという大阪唯一の球団だからこそなのだろう。清原の引退は遅すぎたぐらいだと思うけれども、巨人ではなく、オリックスで、大阪で、清原がユニフォームを脱ぐことが出来たのは清原自身にとっても、彼を愛する人達にとっても幸福な幕引きだったのではないだろうか。
華やかで、残酷な世界に生きる男達に惹かれる人々がいる。だから日本プロ野球は滅びない。