青鬼の褌だってケツの穴だってタマだって洗ってやる、誰よりも綺麗に


 週末は地元のド田舎に帰ってまして、3月に生まれたばかりの子供を連れて同じく帰省してる友達の家に行きました。赤ちゃんの前で、私がエロ本を広げるので、怒られました。
 そして赤ちゃんが寝たのを見計らって、友達と高校ん時によく来たかき氷屋へ。うちの高校出身者なら知らないモノは居ないであろう絶品のかき氷を久々に食いました(寒かったけど・・・)

 そして、友達の口から聞いたのですが、高校の正門近くにあった本屋さんが閉店して、土地はサラ地になっていたのです。明治創業の古い本屋さんでした。
 
 その本屋さんというのは、作家・山田風太郎が学生時代に万引きしてた本屋さんなんですね。
 って、これはエッセイか書簡集か何かに書いてあって、本屋の名前は書いてなかったのですが、地元のモンにはわかる。そのことを、友達に言うと、

「そんなことする人がいるから潰れるのっ!」

 って怒るから、「昭和初期の話だから許してん」ってフォローした風太郎ファンの私。

 山田風太郎という人は、私の高校の先輩(風太郎ん時は旧制中学)なんですね。だから、風太郎が旧制中学での日々を描いた「天国荘奇談」という短編なんかは、光景が手にとるようにわかるから嬉しい。

 山田風太郎は、早くに両親を無くしたこともあり、その旧制中学時代は大変な不良だったそうな。あわや退学かという事態もあり、その時に、「山田誠也を退学させてはいけない」と、庇った一人の若い教師が居て、その教師こそが後に歴史学者となった奈良本辰也という人です。
 奈良本先生の本、今では手に入るものも少なくなったのですが、私は昔から大好きで、この先生が自分の母校で一時期教壇に立ち、山田風太郎を救っていたということを後に知って驚きました。

 高校の先輩に山田風太郎という作家が居るとは知っていたけれど、実際にその本を読みハマったのは、数年前のことです。不本意に田舎に戻り、まず免許をとらねばと(田舎は車が無いと移動できんから)合宿免許をとりに行き、その合間に書店で見つけたのが「くの一忍法帖」。そしてその後、免許をとったのはいいが、仕事が無くて(三十過ぎて学歴も資格も無く、当時はPCも全く使えなかったもんで)毎日職安通いをして、何度も面接に落ち、時間だけは腐るほどあったから、職安通いのついでに図書館に行き、そこで借りて読んだのが山田風太郎の「妖異金瓶梅」。


 この「妖異金瓶梅」で、人生変わったのですよ。この世にこんな面白い小説があったのか、と。なんて小説というものは、面白いものなのか、と。勿論、それまで小説というものはわりかし読んでた方やと思うけど、山田風太郎はカルチャーショックでした。 

 この世には、映画とか芝居とか、いろんな娯楽があるけれど、やっぱり小説が一番だと思うようになったのは、山田風太郎との出会いやった。
 その頃は、職も見つからず不安バリバリで、おまけに親に負い目バリバリの人生最悪の時期やったんやけど、時間だけはあったからおかげで図書館にあった風太郎の本は読破できた。風太郎の出身高校の近くやったから、風太郎コーナーがあって、今では手に入らないような本も全部あったのねん。多分、風太郎が世に出したモノの99%は読んだと思う。ありがたいこっちゃ。

 この「藩金蓮」という名前も、風太郎の「妖異金瓶梅」から拝借したのです。(正確には潘金蓮)こんな魅力的なヒロインには、これから先も出会えないんじゃないかと思えるほど、最強の女。残忍で、嫉妬深くて、淫猥で、身勝手で、女という生き物の悪徳の塊のような女。だけど、可愛い、人を惹きつけてやまない女。


 好きな作家の名を挙げよと言われたら、私は山田風太郎と並んで、坂口安吾の名を挙げる。「堕落論」「恋愛論」などの破壊的エッセイも好きだけど、小説ならば「桜の森の満開の下」と、「青鬼の褌を洗う女」。


 安吾と言えば、彼に関わった2人の女の名が浮かぶ。安吾が狂おしいほどの恋をして、5年間、最後に一度接吻しただけの「求めすぎた末のプラトニックラブ」の相手である女流作家・矢田津世子と、安吾の妻となり薬物中毒で狂人のようになった安吾を支えた坂口三千代
 安吾が書いたものも、矢田津世子、三千代が書いたものも読んだけれども、どうも私はこの矢田津世子という女が好きになれない、そして坂口三千代という人に強く惹かれる。
 このへんのことを、いつかまとめて書こう書こうと思って未だ、書けず。


 坂口三千代の書いた「クラクラ日記」、そして、安吾が彼女をモデルに書いたという「青鬼の褌を洗う女」を読むと、三千代も、「青鬼」の主人公の女も、素敵にだらしがない。
 矢田津世子が毅然とした「石」ならば、彼女達は「水」のように、与えられた器の中で自然に器に合わせることが出来、ふらふらとして、ふわふわとした、だけど温かく愛した男を抱くことの出来る女。

 矢田津世子も編集長の愛人やったり、ものすごく「女」やってる人ではあるのだけれども、なんだろうなぁ、「青鬼」の主人公のような尻軽さとは種類が違う。
 津世子と三千代は書いてるものも対照的。津世子は張り詰めた弦のよう。


 「青鬼」の主人公は、自分を愛人にする妻子持ちの醜い男に惜しみなく「感謝」の媚を売る。にっこりと売る。うんと年上のゾっとするような孤独を抱き虚無に支配された男を受けいれ、それを幸せだと思うことの出来る女。
 素敵に、だらしない女。水のような女。なまぬるい水。

 

 「妖異金瓶梅」の、潘金蓮も、「青鬼の褌を洗う女」の主人公も、「悪女」やと思う。世の中の枠の中で、「常識」とかに従って生きることが出来ず、頭で考えることよりも肌で感じることを優先させて生きる女。
 どちらも、現実に存在してたら、相当に、ハチャメチャでタチが悪く、周りの人間を困らせるだろうし、惚れられた男の方は結構たまったもんじゃないだろう。並みの男なら力負けする。

 「悪女」とか「魔性の女」っていうのは、自分の欲望に正直で忠実な女のことなんだなぁと思う。だから、「世間」とか「他人」と戦ったり折り合ったりして傷を負うことも多いかもしれない。それでも負けないタフな女。きっと本人達は戦ってる意識も無いだろうし。ただ、自分自身の欲望に正直で忠実なだけだから。
 小説でも映画でも、「悪女」が魅力的なのは、そういうことなのだ。



 私もいつか、あんなふうに青鬼の褌を洗う日が来るのだろうか、にっこりと笑って、青鬼の声を、顔を、身体をいとおしんで、抱くことが。
 なんてしあわせな場面なんだろうと、いつも泣きながら、本を閉じる。感謝の媚を売り、男を抱くために手をのばす女は、なんてしあわせなんだろう。
 坂口安吾は、この人と出会えて、本当に幸せだったのだなぁと、絶望的な孤独の闇を抱えて生きてきた人が、この人と出会えて家族になって、本当に幸せになれたのだなぁと、「青鬼の褌を洗う女」を読む度に、想い、泣ける。

 私は男の人に惚れられたこともあるし、(多分)愛されたこともあるんだろうけれども、そんなふうに男の人をしあわせにしたことは、まだ無いから、すごくうらやましい。
 しあわせにしたい。