愛は怖い、愛が怖い、愛は怖くない

hankinren2008-09-19



 「源氏物語」に登場する人物達には、誰ひとりとして好感を持てへん。主人公の光源氏は、たらしやし、ロリコンのマザコンで、ほとんどレイプみたいなやり方で女をモノにすることもあるし〈紫の上と初めて寝た朝の言い草なんかムカムカしますよ←このエピソードはそのうち狂蓮集の方にUPします)なまじ毛並みが良くて顔が良くて人当たりも良いからタチが悪い。しかも、そんな、たらしな自分に酔ってるしよ。

 源氏の恋人の女達も、(と、いうかこの時代の女全般)なんかあっちゃあすぐメソメソして、嫉妬の仕方も暗いし、時代が時代やからしょうがないんやけど、流されて、「よよ」と泣いて歌詠むぐらいしかできねぇし。
 嫉妬にしても、源頼朝の妻・北条政子のように、旦那の浮気相手の家を壊させるぐらいの豪快さがあれば笑えるのに・・・って、さすがにそれはやりすぎやけど、このエピソードはなんか好き。


 光源氏だけじゃなくて、夕霧も薫も好きやない。源氏物語の中でも最後の宇治十帖は特に「おいおい」と、ツッコまずにはいられへん。
 時代背景ってもんがあるから、怒ってもしょうがないんやけど、その少し後の時代の義経静御前巴御前北条政子平清盛などの魅力的な面々と比べると(この人達は貴族じゃないんですが)私をイラつかせる。


 今、源氏物語千年紀というのをやっていて、あちこちで源氏関連のイベントがあるんですね。旅行のツアーも源氏をテーマにしたものが多いので、仕事の一貫として源氏について調べたりする機会も少なくないのです。で、その度に「この男〈光源氏のこと)、めっちゃムカつくわ」とか考えているのです。
 「たらしの男」というキャラクター自体が嫌いなワケじゃない。女好きの歴史上の人物なんて、他にもアホほどおる。っていうか、歴史上の有名人なんでほとんどが強烈な好色男やねんし。

 とか言いつつ、源氏物語関連のモノはついつい読んでしまう。
 源氏物語関連の本を幾つか書かれている大塚ひかりさんの御本も、何冊が読んでます。そして大塚さんのブログ→http://d.hatena.ne.jp/maonima/20080913これを読んで、目から鱗




>>『源氏物語』はなんで多くの人の心をここまで惹きつけるのか、よく聞かれ、いろいろ答えてきたけど、一つには、

「『源氏物語』は怖いから」じゃないか。

 『源氏物語』は、はなから、桐壺帝と桐壺更衣の関係によって男の愛の怖さを描き、六条御息所のあたりで女の愛の怖さを描きして、明石一族や浮舟のところでは親の愛の怖さを描いているとも言える。

 
 でも、『源氏物語』に描かれる愛は「エゴにもとづく愛」で、本当の「無償の愛」は人を縛るどころか、ひとりで生きていく勇気を与えてくれる、怖くないものだ。だから愛の怖さばかり描く『源氏物語』は、嫌いという人も出てくるのでは。






 そしてこちら「愛はホラーである」→http://d.hatena.ne.jp/maonima/20080812


>>実に、愛はホラーである。

その人の正体がどんなものであるかもしれず、とりこになって、遠く未来を誓い合い、一緒になる。

しかし、じっさい、相手は蛇かもしれないし、伴侶のエネルギーをすいとる吸血鬼かもしれないし、コンプレックスや憎しみの塊かもしれない、というのに。

病気や事故で醜くなったり、年老いて魔法使いのオババのようになってしまうかもしれないというのに。

だから、究極の愛の物語は、勢い、ホラーになってしまう。







 「源氏物語の魅力は怖いから」「愛は怖い」「愛はホラーである」


 ホンマに「源氏物語」は不思議な物語で、私も登場人物に好感を持たないと思いつつ、読んでしまう。つまりは、惹かれているということ。
 なんで惹かれているのか、それは、上記の理由なんやと、大塚さんのブログを読んで初めてわかった。一つだけ足りなかったパズルのピースをやっと見つけたような爽快な気分になった。

 
 愛は怖い、愛が怖い。

 
 あなたは何を書きたいのか、何で書くのか、「テーマ」は何かということを問われる度に、「わかんねぇ」と思っていた。自分がモノを書く「テーマ」、そんなもんわかんない、ただ、書きたいとその時思ったことを書いてるだけとしか、答えようがなかった。書いていくうちにそのうちに見つかるんじゃないか、と。
 でも、ようやくわかった。私が今まで書いてきたもの、自分が書きたいことというのは、「愛は怖い」ということやったんや、って。
 それがわかったら、目の前が急に開けた。やっぱり自分一人やと何も見つからねぇなぁ。自分が何を書きたいのか、何を書いてるのか、それの答えが見つからなくて数ヶ月落ち込まなくていいのに落ち込んでしまったりしたこともあったんやけと、思わぬところから見つけてしまった。


 「愛が怖い」ということは、中島らも評の中でくどいほど繰り返し繰り返し唱えている。ぶっちゃけ、この書評を書いた頃は、愛を怖がらざるを得ない状況やったから、こういう書評になったんやと思う。
 それはとてもとても幸福で、怖い経験やった。「命がけ」やったから、怖かった。命がけの愛は怖い。恋と愛は違う。恋は怖くない、愛は怖い。怖くてたまらなくて、逃げてしまう。その時、多分、生まれて初めて「愛は怖い」と知ったんやと思う。昔、男に依存してムチャをたくさんやってきた時は、「愛は怖い」なんて思ったこと無かった。(愛してなかったからやけど)
 今まで、多いか少ないかわからんけど、何人かの男に惚れてきたけど、「愛が怖い」と知ったのは、ほんとここ二、三年ぐらいの話。

 
 男への愛だけやない。
 私が子供を欲しくないと思うことの理由には、「自分の遺伝子を残したくない」ということの他に、「自分は過剰な人間だから、自分の子供を過剰に愛して依存してしまいそうで怖い」というのがある。多分、鬼子母神(自分の子供のためにヨソの子供をたくさん殺した)になってしまう。だから怖い。愛が怖い。


 「愛」という言葉の定義云々となると、いろいろなんやけど、「無償の愛」も「エゴの愛」も、紙一重やったりする。究極の無償の愛はエゴの愛にいきつくかもしれない。


 大塚さんは『本当の「無償の愛」は人を縛るどころか、ひとりで生きていく勇気を与えてくれる、怖くないものだ』と書かれていて、それにはすごく共感するのだけれど、私は「無償の愛」も、怖い。

 昔、「パペポTV」というトーク番組で、島田紳助上岡龍太郎が「愛とは何か」という話をしていて、「その人のために死ねるということ」と二人が言っていた。
 仏教の説話の中にも、そんな話は多い。人を救う為に身を捨てる話はたくさんある。


 あと、愛するのも怖いけど、愛されるのも実は怖い。愛をちゃんと受け止めることが、とても難しい。それが容易く出来る人間と出来ない人間がいる。私はほぼ出来ません。
 愛してると言われると、まず「私のどこが?」とか、疑ってしまうのは、愛されることを怖がっているから、自分の身を守ろうとしているのだ。自分の身を守るあまり、相手を信用していないので、結果的に傷つけてしまう。

 でも愛されるより、愛する方が、やっぱり怖いな。
 だけど命がけで誰かを愛することが出来たという記憶は、確かに生きる力を与えてくれた。だから、愛は怖いけど、怖くない。


 愛は怖い、愛が怖い、愛は怖くない。

 恐怖と笑いは、究極のエンターティメントだ。
 

 愛の怖さを描くことで、愛は怖くないという到達点に辿り着けるようになれたら。


 それは、私が愛した男達に教えられたこと。