死なず消え行くのみ

「ここの事務所は陽射しが強くて、いいですね」

　と、毎月、月の半ばに来る彼女は、ブラインドを背にいつもそう言った。

「でも、夏は本当に暑いんです」

「うちの事務所なんて、陽が入らないから、なんかどよーんとしちゃって、ずっと夜みたい」

　温厚で、いつもニコニコ笑っている人だった。年齢は五十代半ばぐらいだと聞いていたけど、もっと若く見えた。
　毎月、一度だけ会う、会計士さん。
　何てことない、世間話しかしたことが無かった。

「うちは子供がいないからね、仕事を引退したら、夫婦でいろんなところの旅行に行きたいの、またその時は、おススメを教えてくださいね」

　と、言われていた。

　今年に入ってから、彼女が急に倒れて意識不明だという連絡が入った。彼女の事務所の女性が、泣きながら電話をかけてきた。
　本当に急だった。前の晩に、「頭が痛い」と言って頭痛薬を飲み、そのまま意識が戻らず脳死状態になった。

　倒れる一週間前に、彼女が事務所に来ていて、いつもの机に座り書類の整理をしていた。
　私は、珈琲をいれた。その時、どんな話をしていたか覚えてないけれど、彼女が私のことを、

「色が白いね」

　と、言っていたことだけ覚えている。

　彼女が倒れてから、彼女とは十年以上の付き合いになり、個人的にも一緒に遊びに行く関係の上司が、お見舞いに行った。彼女は全身を管でつながれて、顔は浮腫んで別人のようだったという。彼女の夫が、「よしよし、頑張ってる、頑張ってる」と、脳死状態の彼女の頭を撫でていたそうだ。

　倒れて、2ケ月ほど経った頃。その時、上司は来客中で、私が電話に出た。彼女の事務所の人が、

「○○が、今朝亡くなりましたとだけ、お伝えください」

　と、言った。
　今度は、泣いてはいなかった。

「わかりました。伝えておきます」

　と、私は答えた。

　来客が帰り、私は上司に、

「○○さん、今朝亡くなられたそうです」

　と、だけ伝えた。

「そう」

　と、上司は答えた。すぐに、また次の来客があった。
　事務所は、いつもどおり動いて、私達は、いつも通りに仕事をこなした。

　彼女の葬儀の日は、私は外で仕事だった。
　仕事の連絡の電話の時に、

「○○さんに、よろしくお伝えください」

　とだけ言うと、上司は、

「わかった。ちゃんと伝えておくから」

　と、言った。

　
　あれから数ヶ月が過ぎ、彼女と一緒に仕事をしていた女性は、故郷に帰り、その事務所は閉鎖した。今は、新しい会計士さんが来るようになった。

　ある日、いきなり、人が消えた。
　私は、倒れてからの彼女を見ていないし、お葬式にも行っていないので、「消えた」としか思えない。
　そこにいる人が、当たり前にいる人が、いきなり消えてしまった。
　
　数ヶ月前まで、当たり前に月に一度来る人が消えて、彼女がもう２度とここに来ないということが、わからない。

　歳をとると、こういうことが多くなるんだろうなぁ。

　だけど、まだ私は、わからない。
　老いて、病んで、「死ぬ」準備をしていた人のことは、なんとなくわかるのだけれど、ある日「消えた」人のことを受け入れるのは、時間がかかる。
　と、いうか、いまだにわかっていないのですよ。
　彼女が、居ないということが。

　もう、月の半ばには、彼女は来ないのだけれども、私はそのことが、わからない。
　ただ、寂しい。

　だけどいなくなった人のことを忘れてしまうのは、すごく酷いことのような気がする。
　その人のことを考えるのは悲しいけれど、忘れてしまうのは、いけないことだと思う。

　だから、悲しみとか寂しさというのは必要な感情だ、多分。
　キツいけど。