浪花のことも 夢のまた夢 ― 大阪城を知っていますか ―
露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪花のことも 夢のまた夢
この句は、豊臣秀吉の辞世の句として残されている。一代で足軽から天下の覇者となった男が、まるで自分の死後に自らが築き上げた政権が砂上の楼閣の如く、愚かな滅び方をしてしまうことを知っていたかのような句である。
「大坂城は豊臣秀吉のお城です」と仕事の際に説明をする。昭和6年に建てられた現在の大阪城の天守閣内部は豊臣家と大阪の陣ゆかりの物が展示してある。大阪城公園内には秀吉を祀る豊国神社があり、大阪のポスターやチラシなどに大阪城と秀吉がセットで使われることもある。
しかし秀吉の大阪城というものは、現在存在しないに等しい。豊臣秀吉が建てた大坂城の遺構はどこにあるかというと、今の大阪城の地下10メートルほど下に埋もれている。
水のある処に人と金が集まる。
輸送機関が船しかない昔は水のある、港のある街が栄えた。現在大阪城のある場所は石山と呼ばれ、元は浄土真宗の石山本願寺という寺のあった場所だった。石山本願寺は城塞の如く石垣を張り巡らせていたという。水都・大阪のこの地の利便性に目をつけた織田信長は、本願寺と10年に渡る後に石山合戦と呼ばれる戦いを繰り広げるが、天正8年朝廷の仲介により和議し戦いは終わりを告げる。そして天正10年織田信長は家臣明智光秀の裏切りにより本能寺にて49年の生涯を遂げる。
人間50年 下天のうちにくらぶれば 夢幻のごとくなり
明智光秀を天王山で破り天下の覇者となった豊臣秀吉がその石山の地に巨大な城を築く。秀吉が京都伏見城へ移り亡くなった跡には秀吉のただ1人の遺児・秀頼とその母・淀君が大阪城の主となる。秀吉の正室である北政所・寧々は秀吉の墓・豊国廟の側の京都東山の地に移る。
秀吉亡き後、豊臣家の実権を握っていた石田三成を関ヶ原にて滅ぼした徳川家康は、虎視眈々と大阪を眺め続け、遂には慶長19年、大阪冬の陣・夏の陣で豊臣家を滅ぼす。豊臣秀頼・淀君親子は館に火を放ち燃え盛る炎の中でその生涯を閉じたと言われる。
淀君、幼き頃の名前は、茶々という。父は浅井長政、母は織田信長の妹・お市、義父は柴田勝家。父を叔父の信長に、母と義父を秀吉の手により滅ぼされながらも、その秀吉の側室とならざるを得ず、また秀吉のたった一人の子を産んだ数奇な運命の女は大阪城の露と消えた。淀君、そしてその母のお市の方ほど、戦国という時代に眩しいほどの花を咲かせ鮮やかに散っていった女はいないだろう。時代に翻弄された悲劇のヒロインだとは思わない。男達の欲にまみれた地鳴りが響き渡る時代に命がけで花を咲かせた見事な生き様だったと思いたい。
そして大阪城は徳川の城となった。徳川家は秀吉の築いた大阪城を徹底的に破壊し、10メートルほどの土で埋め立て、その上に「徳川の大阪城」を築いた。現在残っている大阪城の巨石は徳川家が自らの権力を誇示する為に全国の大名から寄進させたものだ。
家康は、秀吉を、豊臣家を憎悪していたのだろうかと思うことがしばしある。大阪城のみならず、伏見城、そして秀吉の墓・京都東山にある豊国廟など、豊臣家が滅んだ後、家康は豊臣家が築いたものを徹底的に跡形もなく破壊しつくした。徳川家の力を天下に知らしめすためだと言われるが、そういった政治的な背景以上に個人的な怨恨が存在するのではないかと疑いたくなるほどの徹底的な破壊ぶりだ。
徳川家の城となった大阪城は、その後に天守閣が落雷で消失する。そして幕末、江戸を追われた最後の将軍・徳川慶喜がこの大阪城に居たが、戊辰戦争の際に、もう勝ち目がないと判断し船で大阪を脱出する。
大阪を薩摩・長州の新政府軍にみすみす渡してなるものかと大阪の幕臣達は大阪城に火を放ち自害して大勢の者が果てた。薩摩・長州の新政府軍が大阪城に入った時には、幕臣達の焼け焦げた人骨が無数に転がっていたという。その幕臣達を慰霊碑が大阪森之宮にあるらしい。勝海舟の尽力による江戸城無血開城の三ヶ月前のことだった。
慶喜が大阪城を去り、大阪城の金蔵(公用金の保管庫)にあった金を幕臣榎本武揚が来るべき新政府との戦いに備えて運び出し、北海道へ向ったが千葉辺りで船が沈没し、徳川の莫大な金は海に沈んだと言われるが定かでない。
こんな説がある。薩摩の大久保利通は、天皇を中心とした新政府をどこに置くか考えた時に、京都は港がないから大阪に新政府を置き、大阪城を皇居にするつもりであった、と。しかし戊辰戦争の際に幕臣が大阪城に火を放ったので、江戸城に天皇を移し、江戸に新政府を置いたのだと。
もしかしたら、大阪城が皇居になっていたのかもしれない。
そして明治4年から大阪城は陸軍の施設が置かれた。今でも大阪城内には軍施設の名残がところどころに見ることが出来る。
現在の大阪城天守閣は、昭和6年に大阪市民の寄付により作られたものである。
日本陸軍の祖ともされる長州藩の大村益次郎(司馬遼太郎の小説『花神』の主人公)は、軍の中核を関東より大阪に移そうとしていた。これは来るべき日本最後の内乱である西南戦争を予想していたとも言われるが、その日が来るまでに京都三条木屋町で刺客に襲われ、大阪城の近くにある病院で治療をするが花神の命の火は露と落ち消えた。大村益次郎が亡くなった国立大阪病院では、「花神」を描いた司馬遼太郎も亡くなっている。
仕事では何十回も行っている大阪城ですが、今回、久々にプライベートで行ってまいりました。滅多に公開されない大阪城の「金蔵」が特別に見られるということなので。あと一週間ぐらいはまだ公開されております。http://www.osakacastle.net/exhibition/event.html#kinzoこの江戸幕府の公用金置き場だった「金蔵」は、当時は江戸など数箇所にもあったらしいのですが現存しているのはこちらの大阪城のみです。重要文化財に指定されております。
昔はその中に千両箱がぎっしりと詰まれていたそうなのですが、現在は勿論空です。中にあった千両箱は榎本武揚らに運び出され千葉県の海の沖に沈んだ、とか。はっきりしたことはわかっていないそうです。
金蔵では現地のボランティアガイドさんに色々な話を聞かせていただきました。大阪城へは何度も行っていますけれども、初めて聞く話も多くてものすごく面白かったのです。金蔵自体は小さくてガランとした何もない建物なのですが、大阪城をめぐる徳川家の栄枯盛衰の象徴であったのがその場所なのです。
秀吉が築き、淀君・秀頼が滅び、豊臣の大阪城を破壊し埋め立てて造られた「徳川の大阪城」。幕末になり数多くの幕臣が「武士の意地」を通して命を絶った場所であり、そこにあった筈の莫大な徳川の金は海に沈んでいるのかもしれない。
ガイドさんが、こうおっしゃてました。「その公用金が無事に函館五稜郭に届いていたら・・・幕軍が新政府に勝ちはしなくても、北海道に別の政府が出来てたかもしれないですね」と。
大阪は暑かったです。天守閣を見上げると空が青々としていました。天守閣の下にある「錦秀」さんで、「粟おこしソフトクリーム」食べました。
少し離れて大阪城を観ると、その背景に京橋の高層ビルがすっくと建っています。夜になるとライトアップされた大阪城と窓から光を溢す高層ビルが時代の境界を無くして別の次元にいるかのような錯覚を覚えさせてくれます。
大阪城は出来たら夜に少し離れた場所で見て欲しい。梅の季節でも、桜の季節でも。
そして大阪城から歩いて、大村益次郎、福沢諭吉が学んだ緒方洪庵の適塾に行きました。現代の建物が立ち並ぶ中に、静かにそこは存在し、緒方洪庵の銅像もありました。大阪は京都のように古い町並みを残してはいないけれども、こうしてちゃんと歴史の跡は存在してその姿を垣間見せてくれるのです。
なにわのことも、夢のまた夢
豊臣も、徳川も、花神も、夢のまた夢。
今度はもう一つの「なにわの夢」である、大阪の陣の主役・真田幸村の足跡を辿ってみたいと思います。露と落ち、露と消えたなにわの夢を、手を伸ばしてもっと探ってみたい。現代の大阪には全く興味がない。
見たいのは知りたいのは、滅んでいった者達の夢のあとさき。