幸福な「不仕合わせ」



 ってなわけで、ここしばらく昔書いたものを引っ張り出してUPして、改めて自分で読み返して気付いたことあれやこれや。


 「孤独」と「寂しさ」は似て非なるものだ。

 例えば、坂口安吾山田風太郎筒井康隆平野勝之監督の『芸風』は「孤独」。
 三島由紀夫中島らもカンパニー松尾監督の『芸風』は「寂しさ」。

 紫式部は「孤独」。
 清少納言は「寂しさ」。

 中には、「孤独」と「寂しさ」の間をゆらゆらと揺れ動いてて、そのゆらゆらとした柔らかさ加減が、『芸風』の井口昇監督のような人もいる。

 上記の話は、あくまで「芸風」の話。


 勿論、どっちかいいとか悪いとか優れてるとか劣ってるとかそういう話ではない。

 あと、ネット上にこうして無数に存在する「ブログ」は、ほとんどが「寂しさ」。ブログやってる人が寂しい人ばかりだということやないよ。人間は「孤独」で「寂しい」存在だ。孤独でも寂しくもない人間なんていたら、本物のアホウである。


 坂口安吾のいうとおり、「孤独は人のふるさと」なのだろう。



 私は自分がこうしてネット上に書く文章は「孤独」なものだと自分でずっと思い込んでいたけれども、先週UPした昔書いた文章は「寂しい寂しい寂しい」と喉が嗄れるほど叫んでいた。痛々しく脆くヒリヒリとしいてると自分で感じた。

 この頃のような文章は今の私には書けない。書こうとするべきでもない。だけどこういう時期もあったということを何かで残しておこうと思った。寂しい寂しい寂しいと喉が嗄れるほど叫んでいる「藩金蓮」も残しておきたかった。

 私はどこの世界に居ても居心地が悪い。本名で存在する仕事関係の世界でも、家族の中でも、友人達との世界でも、ネットの中で「藩金蓮」でいることも。物心ついた時から、どこの世界に居ても居心地が悪くて尻がうずうずしている。どこに居ても「ここは自分の居場所ではない」という想いが抜けず、常に片足だけしか浸さずに、次の旅のことを想い浮かべ、すぐにでも荷造りできるようにしている。どこの世界に居る私も私じゃないような気がする。本名の私も「藩金蓮」である私も。
 私はどこの世界に居ても居心地が悪くて尻を座らせ両足を浸すことができない。これは多分、これからもずっとそうだと思う。だけどその居心地の悪さ居場所の無さは自分のせいじゃないと思うし、そう思いたい。


 人間は孤独であり、寂しい。だけど孤独で寂しいからこそ、人に触れた時のぬくもりが感じられる。ぬくもりを知るからこそ、触れたいと思う。大切なものを何も無くしたことのない人は、大切なものを得た時の喜びを知らないだろう。だから孤独であること、寂しいということを怖がるな。怖がると人を傷つける。自分の孤独や寂しさを怖がる人間は、他人を使って決して埋められないその穴を埋めようと無意識であれ利用してしまうから。
 他人は自分の為に存在しているのではない。だから人は孤独で寂しい。

 結局のところ、孤独や寂しさを自分の子供のように抱いて癒して暖めてやるしかないのだ。私は私の孤独と寂しさを自分の子供のようにこの胸に抱きしめるしかない。


 そうやって抱きしめている間に時間は過ぎて、子供達は成長し抱きしめ返してくれるかもしれない。


 孤独と寂しさについて考えていた時に、ある漫画の「あとがき」に書かれていたことを思い出した。
 実家に帰ると、その本があった。近藤ようこの「移り気本気」という漫画のあとがき、以下、引用。



>芸能の本質は「不仕合わせ」を語ることである。漫画は絵と文字の芸能だから、やはり「不仕合わせ」が最大の構成要素となる。私の漫画は、とりあえず人間の生活をモデルにしているので、自分や他人の生活を日々観察している。人間の生活は「不仕合わせ」の連続である。だからといって、人間の生活は「不幸」なのかというと、そうとばかりもいいきれない。
 たとえば、好きな男がいるとする。その男が、どう考えても自分のものにならない状況にあれば、その状況は「不仕合わせ」である。しかし、好きな男がいるという至福感は捨てることができない。そいいう生活が「不幸」であるとは思わない。
 私の描きたいのは「不幸」ではなく「不仕合わせ」である。世の中には本物の「不幸」もたくさんあり、私の身の上にもある。だが、それを描くのは難しい。なぜなら、いったん仕事として描いたものは、すべて他人事になってしまうからだ。他人事の「不幸」を描くことは傲慢で冷酷なことである。それを自覚できない者は「不幸」を描く資格がない。自覚して勇気をふるって描かねばならない。私には、まだ勇気がない。
 「不仕合わせ」は面白い。分析するのも、解釈するのも、作り上げるのも面白い。それが私の仕事だ。この面白がり方は、少し卑しいかもしれない。自分の買った娼婦の口から、哀れな身の上話を引き出そうとする客のように卑しいかもしれない。










 私は「不仕合わせ」だけど、「不幸」じゃない。
 寂しいけれども、孤独だけれども、きっと「不幸」じゃない。あのヒリヒリした文章を書いていた頃から、幾つもの「生きてて良かった」と思える出来事、泣けるぐらい幸福な日ともめぐり会った。



 今年も春が来る。
 満開の桜に目を眩ませられる幸福な季節が。泣いても笑っても生きていれば繰り返し繰り返し春が来て花が咲く。孤独と寂しさを抱きしめながらこの花の匂いと色を味わう幸福に身を浸そう。