雪の花咲く雁の寺

hankinren2008-02-09



 朝から雪は降り続けていて、昼過ぎに会社を出る時には道はかなりベタついているしどうしようかなと一瞬迷ったのだけれども、今日は前から決めていたので、そのまま京都駅へ向かい地下鉄に乗り換えて今出川駅で下車。

 今出川駅から旧薩摩藩邸跡の前を歩き京都御苑の向いにある同志社大学の構内のを抜けて相国寺というお寺に行きました。現在、この相国寺塔頭瑞春院開山堂&法堂が特別公開されているので行かなきゃっと思っていたのです。相国寺室町幕府三代将軍足利義満後小松天皇の命を受け建てた臨済宗相国寺派大本山です。ちなみに金閣寺鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)もこの臨済宗相国寺派に組しています。ついでに言うなら、第100代後小松天皇という方は南北朝が統一された時の天皇であり、「狂雲」こと一休宗純和尚の実父とされています。

 禅宗と言われる宗派は日本ではこの栄西を開基とする臨済宗、そして道元曹洞宗、明の僧・隠元黄檗宗があります。竜安寺大徳寺などを代表とする「枯山水」と言われる水を使わずに石や砂で水を表現した庭は、主にこの禅宗寺院に見られます。そして京都に相国寺金閣銀閣大徳寺竜安寺妙心寺東福寺など臨済宗のお寺が多いのは時の武家政権に庇護されたからです。

 武家政権禅宗、そして「お茶」には密接な繋がりがあります。ちなみにお茶と畳を日本に伝えたと言われるのが臨済宗の開基である栄西上人。

 まずは京の冬の旅で特別公開されている相国寺塔頭・瑞春院へ行きました。瑞春院へ向うすがら、相国寺の境内の中に入るとその雪化粧した禅寺の見事なこと。雪が降って良かったと思いましたし、来て良かった。上記の写真が瑞春院です。この瑞春院が何で有名なのかと申しますと、こちらで作家の水上勉が少年時代に修行して、後にこの寺をモデルにしたと言われている「雁の寺」という小説で直木賞を受賞されているからです。

 水上勉は、福井県の大飯町という海辺の村に生まれて口べらしの目的もあり、この瑞春院へ9歳の時に預けられたのですが禅宗の修行の厳しさに逃げ出したそうです。
 この「瑞春院」には小説にも登場してくるように本当に雁の絵があります。「雁の寺」は後に、川島雄三監督・若尾文子主演で映画化されており、その時に水上さんも出奔してから初めてこの雁の寺に帰ってこられたそうです。


 瑞春院を観た後は、狩野光信によって七年の歳月をかけて描かれた「鳴き竜」と呼ばれる蟠龍図が天井にある法堂へ。妙心寺などもそうですが、龍は仏法を保護する存在とされているのでこのように禅寺の法堂(はっとう)の天井によく描かれています。こちらの龍も八方睨みでして、どこから見ても龍と目が合う。というか、常に睨まれています。この龍の天井画は直径9メートル。常に自分を睨みながら天を舞う巨大な龍というのは、なかなかの迫力です。


 法堂の後は開山堂へ。ここには足利義満の像などがありましたが、何より見事なのは庭園でした。枯山水の庭園に雪が静かに降り続けています。


 雪化粧の禅寺の庭の様をひとことで言い表すならば、「静寂」でしょうか。雪が石や砂や周囲の喧騒までをも覆い、この世の全ての雑音を呑み込みます。舞うように降る雪は天から龍が遣わした式神のようにも思えます。天から降る花の白さが目に沁みます。白という色は光を発している。それはまるであの龍が手にしている宝珠の欠片の如く。

 私が寺に行くのは救われたいからです。私の中には黒く濁った澱が沈殿していて誰かを呪ったり憎んだり自分を呪ったり憎んだり、常にそれを繰り返している。そいつがいつも私が幸せになろうとするのを邪魔しようとする。多分そのことからは一生逃れられないのだけれども、黒く穢れた私は寺の白砂の美と仏の発する光を浴びると砂が水を吸い込むように身体中の毛穴から清浄な何かが浸透して許されていく。
 それは快楽です。だから私は寺に行くのです。

 西行は、願わくば花のもとににて春死なむと詠ったが、私はこの静寂なる雪の寺で死んでもいいと、思う。快楽という許しの元で。

 

 「京の冬の旅」で特別公開されている各寺院はちゃんと説明の方がいらっしゃいますので、おススメです。実は私も昔、特別公開の寺院で説明バイトしてたことがあります。
 東寺の五重塔の内陣などもお勧め。普段見られないとこばっかやからね。雪が降る禅寺があまりにも見事なんで、銀閣寺などにも行きたかったのですが、時間的にアウトなので帰りました。明日の朝あたりは、金閣銀閣は見事ちゃうかな。


 水上勉作品には「雁の寺」と、同じく禅寺である金閣寺の放火事件を扱った「五番町夕霧楼」「金閣炎上」などもあります。金閣寺放火事件の犯人が自分と同じく日本海沿いの貧しい海辺の町から京都の禅寺へ預けられ、形は違えどドロップアウトしていったということに相当シンパシーを感じてらっしゃったそうです。
 そして金閣寺放火事件と言えば、三島由紀夫の「金閣寺」。市川崑監督の「炎上」という映画も好きです。雷蔵が元々備えている自らの色気を消すことにより、仲代達也と中村鴈治郎の色気っぷりがむんむんと漂っています。この映画の仲代達也は本気でヤバい。

 「雁の寺」にしても「金閣寺」にしても禅寺を舞台にして、人間の生臭い性を描いています。聖なる場所に蠢く俗なる業が描かれています。「金閣寺」はまだ聖なる美と俗との狭間の葛藤が存在するけれど、「雁の寺」はもう相当に生臭く、怖い話です。水上勉には、福井県の見事に凛とした美しい竹細工を題材とした「越前竹人形」という作品もありますが、こちらも相当生々しい女の性が、我が身の如く哀しい物語です。


 聖なるものと俗なるものの混在するところにしか真実は存在しないのではないか。
 聖なるものだけでも、俗なるものだけでも虚仮にすぎぬ。


 私がアダルトビデオが好きだと言うと、困った顔をする人がいます。嫌悪感を隠さない人もいます。同情するような態度を示す人もいます。馬鹿にしたように苦笑する人もいます。男と女が裸でまぐわる行為を見るのが好きだなんて堂々と言うもんじゃないし、普段基本的には言わないけれど(言われた方も困るだろうし)、そういう人達に、「俗なる行為」セックスが描かれるアダルトビデオという世界の中に、「聖なるもの」が漂っていると言うと、どう思われるだろうか。


 聖なるものに縋るようにセックスが描かれている映像を求めていると言ったら、あなたはどう思うのでしょうか。