ラーフラ

 記・2005年10月28日


 『シャカ国の王子ゴータマ・シッダルタは、悩んでいた。このまま一国の王子として安穏と生活していればいいのだろうか、城を出れば数多くの貧しい民が苦しんでいる、自分は、城を出て国を捨て、人が生きる意味を知る為に出家すべきではないかと。そんな時、妻のヤショダラ姫がシッダルタに妊娠を告げた。それを聞いたシッダルタは、妻に言った。「何故、子供など作ってしまったのだ!その子は私の出家の妨げとなる!その子にはラーフラと名づけよ!」

 この話を初めて読んだ時、ひでぇ男だな、と思った。何故、って、妻が勝手に妊娠したわけじゃないだろう。アンタが中だししたからだよ、と。ラーフラというのは、「妨げ」「障害」という意味である。自分の子供に、そんな名前をつける親なんてひでぇ親だと思った。自分のことしか考えてないじゃないか、あんたの子だぞ、と。
 でも、今は考えが違ってきた。ひどい親かも知れないが、多分、私も今自分に子供が出来たら「ラーフラ」と名づけるかも知れない。言うまでもないが、シッダルタ王子は、日本人のほとんどに信仰されている仏教を開いた、釈迦のことである。

 知人夫婦に子供が出来たらしい。結婚して10年して出来た子供だ、さぞかし望まれて出来た子だろう。親はこの上なく嬉しいだろう。おめでとう、と言うべきなのだろう。でも、どうしても、言えない。喉に重い鉛が詰まったかのような気分だ。そこの妻の方が、無邪気を装った無神経さと、純真を装った見事に巧妙な計算高さを持った女で、その人のことが嫌いなのもあるが、一番の理由は私が子供を欲しいと思わない女なので、そこまで子供を望む人の気持ちが全くわからないし、おめでたいことだとも思えないからだ。そしてそういうことをもしも口にしてしまうと、たくさんの人から非難されることもわかる。そんなことを考えてしまう自分を嫌な人間だとも思う。

 「女は子供を望んで当然、だって生まれながらに母性があるから。」と、信じている人は多い。子供は欲しくない、と言うと、散々言われた、子供がいらない女なんておかしいとか、自分の子供は生んでみたら可愛いよ、って。きっと自分の子供は可愛いだろう。だって、妹の子供なんてめちゃめちゃ可愛い。でも、同時に恐怖も感じる。大事なものが出来るということは、それを失う恐怖と戦わなければいけないということだから。いろんなことに過剰な人間である私は、きっと子供が出来たら自分の子供の為に、たくさんのよその子供を殺した鬼子母神のように盲目的に子供を愛するだろうとも思う。それは私にとってかなり恐ろしいことだ。自分の子供は可愛いだろう、それが怖い。子供だけじゃない、人を好きになるのだって怖い。手に入れてしまったら、それからずっとその人を失う恐怖と戦って脅えなければならない。初めから何も手にしない方がいいと思う。臆病な生き方だけど。

 自分の遺伝子を残したくないから、子供は欲しくないというのもある。自分に似た人間を、嫌悪する自分の遺伝子を残したくない。それも恐怖だ。でも、子供が欲しくない一番の理由は、やはりそれがラーフラになることだ。私はこれから数年かけて自分の一生の仕事の基盤を作っていきたいし、行きたいとこも、やりたいこともたくさんある。だから、子供を作り、子育てに時間と金をかけることは考えられない。自分の人生だけでいっぱいいっぱいだ。私は20代の時は、借金の返済に追われて何も出来なかった。未来を想う余裕も無かった。だから、今、30代からの人生は、やりたいことがたくさんあるのだ。行きたいとこも、見たいものも。

 それに、私にはどうも母性が欠如しているようだ。人にも指摘されたことはあるし、次第に自覚もしてきた。大半の男の人は、なんだかんだ言って、女に母性を求める。見合い相手の職業に、看護婦や保母が人気なのも、それらが母性を象徴している職業だからだろう。甘えたい、受け入れて欲しい、無償の愛で包み込んで欲しい、癒して欲しい、それをさせてくれる役割を女性に求める。それは当然のことだと思う。男は社会の中で、背負う荷物が大きい。男は強くあるべき、たくましくあるべき。でも実際は、男の方が女より弱い生き物だと思う。だから、社会では男という役割を演じていても、家では癒されたい、甘えたい。ごろにゃんと甘えるのだけが甘えではない。家に帰ったら妻が食事を作ってくれて当然と考えていることも、甘えだ。自分の為に何かしてくれるのが当然と。でも、それは悪いことだとは言わない。女も男の甘えを待っている。甘えられて、必要とされて自分という存在の価値を確認できる。甘えて、甘えられて成り立っている。それはそれでごくごく当たり前のことだと思う。
 しかし、私は母性が欠如している。男に甘えられると、戸惑う。どうしたらいいのかわからなくて、突っぱねたり、顔をひきつらせたり。自分は甘えたいのに、甘えられるのが苦手。だから男は、私に心を開けなくて、あるいは拒絶を感じて、去っていく。私は男に甘えてもらえない。甘えられても戸惑う。

 昔から、子供と、動物を可愛いと思えないことがコンプレックスだった。冷たい人だと何度も言われた。試しに犬を飼ってみた。どうしても他の人みたいに、「可愛い、可愛い。」と思えなかった。友達の子供も可愛いと思えない。「可愛いでしょ?」と聞かれると、困る。顔がひきつる。他人の子供なんて可愛いと思えない。私以外の人は、皆口々に「可愛いね〜私も早く赤ちゃん欲しいなぁ〜」と言う。ものすごく孤独感を感じる。映画館で、子供向けの映画を上映する時は、ひたすら苦痛だった。うるさい子供、ずうずうしい母親。私が顔をひきつらせながら接客するのがおもしろい、と上司に言われた。自分の子供なら可愛いだろう、でも、自分が子供を生むこと自体が考えられない。子供のいる自分が想像できない。

 子供のいる人自体は、別になんとも思わない。普通に付き合いも出来る。私には出来ないけれど、子供を生んで育てること自体は、自然なことだし。でも、時折、重い気分になる時がある。それは、「女は子供を望んで当然!」「女の幸せは子供を生んで育てること」という確信を持った人と対峙する時と、過剰なまでの子供に対する執着を見せ付けられた時だ。例えば向井亜紀。悲壮感漂う記者会見、流産した子供、代理母出産をして得た子供に対する感傷を書き連ねた本の出版ラッシュ。子供が欲しい子供が欲しい子供が欲しい子供が欲しい子供が欲しい・・・・画面や本からタイトルだけで、溢れ出す感情の吐露。それが私には重い。そして、向井亜紀に同情する多くの人々。わかるよね、やっぱり女は子供欲しいよね、子供は宝だよね。その声は、今まで私が浴びてきた「子供を望まない女はおかしい。」と言う声と反響する。。「子供を望まない女はおかしい。」といわれると、やはり自分は女として欠陥商品なのかと思う。自分で望んでいることなのに、自信が持てない。親にも、言われた。結婚して、子供を生むのが自然なことだ、と。でも、私は子供を欲しいとは思わない、と言うと、親はとても悲しそうな、同情するような目で私を見る。私はそんな不自然ですか?同情されなければいけないほど。そんなにあなた達を悲しませていますか、私のような子供ですみません。だから、私は子供が欲しくないのです。私のような子供が生まれたら、親が可哀相だと思うのです。
 例えば、柔道の谷亮子。自らの妊娠を「おめでたです。」と言いきってしまう、自分が女としての勝利者だと信じて疑わない厚顔無恥さ。(結婚式からそうだったけどさ)金メダルを取るほどの、誰もが羨むほどの力を持っている至宝のようなスポーツ選手でも、女の幸せは子供を生むこと、と確信に満ちた笑みを浮かべる。自分の妊娠が世間の誰もに祝福されるものだと信じているから、自然に「おめでたです。」なんて言えるのだ。

 何度も言うが、子供を望んで生むことは自然なことだと思う。友達が自分の子供を溺愛しても何とも思わない。親が子供を愛さなくて誰が愛するんだ。っていうか、実際に生んだ人って結構冷静なんだ。子育ては可愛いだけじゃすまされないってことを実感しているから、子供を生まない人生も有りだとわかっている人が多い。そういう人とは付き合いが出来る。でも、子供は欲しくないと言うと、その理由も聞かないうちに「おかしいよ!」と簡単に人格否定発言をなさる方達とはお付き合いできない。一緒にいればいるほど、劣等感が募る。孤独になる。女として欠陥があるんじゃないかと私の耳には聞こえる。

 何年か前に、生理が2ヶ月ほど来なかったことがあった。そんなことは初めてだった。もしかして、と思った。相手は一人だったし、その人は独身で、もし妊娠しても何の問題もないはずだった。でも、私はひたすら堕胎のことばかり考えていた。堕胎するなら、会社を何日休むとか、堕胎費用は幾らかとか。妊娠検査薬を買って、その結果が出るまでの5分間は、ただ重い気分だけだった。結果は×だった。足元から崩れそうなほど、ホッとした。妊娠していなかった、良かった、と。そして、そんな自分にゾっとした。堕胎することしか考えていない、妊娠していないことに心底安堵した自分を酷い女だと思った。そして、改めて、私は子供を望まないのだということを自覚した。

 欲しくないから、つくらない。それだけのこと、簡単なことなのに。それを口にすると、驚く人がたくさんいる。非難するような、同情するような目で、私を見る。どうして?

 いっそ、避妊手術を受けようかと思ったことは何度でもある。今でもそう思う。子供を欲しくない女から、子供が出来ない女になれば、いろいろ悩んだり落ち込んだりせずに、開き直れるのではないかと思う。「子供を欲しいと思わないの?」と聞かれたら、笑顔で「子供が出来ない体なんです。」と答えたら、相手はどういう顔をするだろうかと、そんなことを想像して悦ぶ歪んだ自分もいる。

 子供を望んで出来ない人の前では、「私は子供が欲しくないんです。」なんて、言えない。子供が欲しくて不妊治療をしている人達は、たくさんいる。そんな人の前では、そんな言葉は絶対言えない。でも、そこまでして子供を欲しがる人達に対しても劣等感が消えない。それはやはり私自身の中に、「子供を望まない女はおかしい。」と言う価値観が存在するからだ。だから、自分は子供を望まないということを自覚してなお、葛藤しつづける。子供を欲しがる気持ちをわからない私のことを、子供を欲しい人たちがわからないのは当然だ。

 自分で選んだ生き方なのに、たまに、圧倒的な母性神話を見せ付けられると、目眩して、足元がふらつく。くらくら、と。

 冷たい人間だと、酷い人間だと、女として欠陥があると言われても平気、誰に嫌われても平気、人を傷つけても平気、それでも自分は自分だと言える、そんな生き方が出来たら。例えばこの文章を読んで不愉快に思う人はきっと居る。頭ではわかっても、生理的に拒否反応を示す人もいるだろう。でも私は、吐き出さないと苦しい。嫌われることは嫌だけど、どこかで吐き出さないと呼吸ができないような苦しさなのです。

 我が子に「ラーフラ」と名づけた人に問いたい。私はいつになったら、自分という人間を肯定できるのでしょう。何事も跳ね除けられる強さを見につけることが出来るのでしょう。人に否定されて泣くことをやめられるのでしょう。自分の生き方に迷いはないと言い切られるのでしょう。人は人、自分は自分だと目の前の道をわき見せず進めるのでしょう。あなたのように、「ラーフラ」を捨てて、己の欲するままの道を進んで悟りを開くことが出来る日がくるのでしょうか。あなたに手を合わせたら、何か答えは見えるのでしょうか。』






 以上の「ラーフラ」と題した文章は、2年と数ヶ月前に、まだ私が田舎に居た頃にmixiに書いた文章です。こちらの「アダルトビデオ調教日記」には、たまに昔にmixiに書いたものを直してUPすることがあるのですが、この「ラーフラ」という文章は直しようがなかった。これを書いた動機は、「嫉妬」であり「憎しみ」で、読み返すと感情が尖った刃のように刺々しく我ながら悲しく痛々しい。

 今でも子供は欲しくないと思う。その1番の理由は、これから失われた時間を取り戻したいからです。
 だけど、だいぶこの頃より考えが変わりました。以前は、友達の結婚とか出産とかを祝福出来なかった。結婚にも出産にもその果てにあるものは暗い未来しかないと本当に思っていた。この前も友人と話していて、「どうしてそんなに考えが変わったの?」と聞かれて、それはひとことで説明できない、いろんなことがあったからと答えたました。

 ほんと、この2年間で、いろーんなことがあって、1番でかい出来事は実家を出ることが出来たことなんやけど。
 わかったことは、人間は一人で生きていけるけど、1人で生きちゃいけないということ。勿論それは、結婚とか、子供を生むとかそういう意味ではなくて、もっと心の部分での話。


 相変わらず、嫉妬や憎しみの感情は激しいし、嫌いな人間はたくさんいてしょっちゅう怒ったりしているのだけれども、でも今は上記の文章を書いた頃ほどは、未来に絶望はしていないと思う。
 だから、私は上記の文章を直せませんでした。直しようがなかった。つーか、これを書いた「2005年の私」に手を加えることができない。
 ヒリヒリとしていて触れることができない。


 私は、これから先も子供を欲しいとは思わないだろうし、生むこともないだろう。でも、今は、お母さんになりたいと思う。
 私の好きな人に、利己的ではない愛情を注ぐことのできる「お母さん」になりたいと思う。いつも笑っていて欲しい、いつも幸せでいて欲しい。あなたの幸福を、私の幸福にしたい。

 私は子供がいないから。
 あなたのお母さんに、なりたい。