弥勒の旅

 少し前に行って、相当楽しかった仕事の話。

 遠方からのお客さんと一緒に、仏像を巡る旅。
 幾つかお寺に行ったのですが、一日の中で、「飛鳥三弥勒」と呼ばれる三体の弥勒菩薩像を見ることが出来ました。


 「仏」には、如来、菩薩、明王、天などの種類があって、その各「仏」についてどうのこうのと話し出すと長くなり過ぎるので省略。
 ただ、その「仏」の中の「菩薩」というのは簡単に言うと、「修行中」の仏様だと思っておいて下さい。

 
 そして、その「菩薩」の中でも「弥勒菩薩」と言うのは、釈迦が入滅した56億7千万後の未来に姿をあらわす未来仏で、現在は兜卒天で修行をしている仏様です。


 飛鳥時代に作られた三弥勒のうちのニつがある京都太秦広隆寺に最初に行きました。広隆寺に行くのは実はすんごく久しぶりでした。近くの映画村には何度も(主に修学旅行)行ってるけど。
 緑が多く静かな境内の中に入り、霊宝殿という建物の中に入りました。ここに「国宝第一号」と伝えられている宝冠弥勒菩薩http://www.shogopaper.com/koryu.htmがおられます。半跏思惟像とも言います。
 
 もう一人の弥勒様は、宝髻弥勒、または泣き弥勒とも呼ばれます。http://www5.plala.or.jp/endo_l/bunkazai/butuzou/butuzou%20date/butuzou%20itiran/012kouryuzi%202.html表情が泣いているように見えるからだそうです。


 こちらの広隆寺の歴史は平安京より古くからいる渡来人の豪族秦氏のお寺ですが、秦氏の仕えていた聖徳太子ゆかりのお寺でもあります。


 そして京都を離れ、奈良へ。奈良市内から更に南の斑鳩の地へ。斑鳩と言えば、日本で一番最初に世界遺産に登録された土地でもあり、法隆寺のある地として知られています。その法隆寺のすぐ側にあるのが中宮寺というお寺。聖徳太子の母、穴穂部間人皇后の御願により建立されてと言われている小さなお寺です。
 こちらにも弥勒菩薩半跏思惟像様がおられます。
http://www.horyuji.or.jp/chuguji3.htm「アルカイック・スマイル」(古典的微笑)と称される表情をされております。ダ・ヴィンチの「モナリザ」もアルカイック・スマイルだそうです。


 何故、この弥勒菩薩様方は、このようなポーズをとっているか。それは半跏思惟と称される通り、考えておられるのです。ロダンの「考える人」のポーズと似てるでしょ? 弥勒は何を考えているのか。どうやって人(衆生)を救おうか、考えておられるのです。


 「人を救う」なんて、すごく大層なことで、自分がそういう課題の下におかれると(おかれることも無いのですが)もの凄く深刻な重苦しい表情になって考え込んでしまいそうです。「私にはそんなことできない、、、」とか「人を救うなんて無理だよ、、」とか言って、うぅ〜んと唸ってそう。しかも実はまだ自分も修行中の身であるし。


 だけど弥勒菩薩は優しい笑みを湛え「どうやって人を救おうか」と考えています。誰かの為に「無」になることが苦では無く喜びであり、そしておそらく身を捨てることにも躊躇はしないであろうと思う。だからこその、こんなに優しい笑みを浮かべることが出来る。


 ああ、本当に優しい笑みだなぁ。こんな優しい笑みを浮かべた人が「あなたをどうやって救おうか」とか、考えてくれちゃってたりしたら、その「愛」に感動して泣いちゃうね。


 「救う」とか「救われる」とかってのは結果であって、目的じゃないと思うのですが、愛し愛されることをごくごく自然に受け入れたら、驚くほど簡単に「救い」「救われる」ことが出来るのじゃないかなぁと思いました。


 だからもしかしたら、本当は、弥勒菩薩は「どうやって人を救おうか」とは考えていないのかもしれない。ただ、人、衆生を愛しているだけで、「愛する喜び」で微笑んでいるだけで。
 そしてその穏やかで静かな微笑みの中から、後世の人々が「救い」を見出したのかもしれないとも思います。


 人を愛することが自然に出来る人の表情は、美しいねぇ、優しいねぇ。だから、人々は救いを求めて弥勒達に会いに来るのか。

 そして弥勒菩薩達の表情は優しく、身体の線は非常に柔らかい。何もかも受け入れるであろう柔軟さを感じる柔らかい線です。色っぺぇよなぁ。


 仏様ってのは、本当によく出来てましてね、いちいち感心するのですよ。仏様の手って、よく観ると水かきがあるんです。何故か。衆生を救う時に、一人でも多くの人を救えるように、指の間からこぼれないように水かきがある。
 そして手が長い。これも同じ。衆生に届くように手が長い。
 また仏様は偏平足です。全ての人の上に公平である為に。

 仏様の様々なパーツは、全て「人を救う為に」存在しているのですよ。そして仏達は人の為に我が身が傷つくのも死ぬのも躊躇しない。「私」が無い。他者を救う為だけにそこに居る究極の「愛」の存在だと思うのです。一応、仏教の中には「慈悲」という言葉はあっても、「愛」という言葉は無いのですが、至上の優しい微笑みを浮かべる仏を見ると「慈悲」より「愛」の言葉の方が相応しいように思う時があります。

 弥勒菩薩の居る場所ってのは、異様に居心地がいい。こんな優しい微笑みを浮かべる「愛」の存在の側にいたら何だか自分の中のドロドロとした汚い血がどんどんと流れ出て浄化されるような気がする。
 弥勒菩薩とセックスしたら、気持ち良いだろうなぁ。(←不謹慎)いや、でも本当にそう思う。仏像をそういう目で見ると怒る人はいるだろうけれども、私はしたいけどね、弥勒菩薩とセックス。


 もしもお金と時間が余るほどあったなら、電車に乗って日本中のお寺を巡り仏像に会いに行きたいという切なる願望があります。年とる前に、身体が元気なうちに実現したい。
 うんにゃ、日本の仏像だけやなく、外国の仏教遺跡も見たいなぁ。建築とかには私は興味は無いんやけど、仏像を観て周りたいなぁ。多分、建築とか庭園には興味が無くて、仏像だけに惹かれるというのは、性欲を伴っているからでしょう。性的な対象として観ているんでしょう、仏像を。不謹慎だと怒る人はきっといるでしょうが、だってホントのことなんだもーんっ。


 鞄に着替えと洗面用具と文庫本を詰め込んで、「やりてぇなぁ」と性欲を滾らせて愛する為に愛される為に、私は仏像を巡る旅に出たい。